4年生引退ブログ 金子 祐斗 「選手兼学連としての4年間」 | 立教大学体育会サッカー部日記

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立教大学体育会サッカー部のマネージャー日記です☆
2013.3~

☆4年生引退ブログ☆

 

 

 No.9 金子 祐斗

 

 

「 選手兼学連としての4年間」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《他己紹介》

僕が初めて立教サッカー部の練習に来た日、彼もまた、練習参加初日の装いだった。

学科もゼミも第2外国語もお揃いだったため、長い時間を共に過ごした。

ボランティアや学連など、僕が逆立ちしてもできないような活動を精力的にこなす一方で、500円の弁当を買わせると800円を請求されるしPayPayクーポンに異様な執着を見せる。苗字通りのお金への子だわりだろうか。

そんな彼は卒業後、留学を志しているため、少しの間お別れしなければならないが、好奇心旺盛な彼らしい決断で非常に尊敬している。だがしかし、1点だけ気をつけて欲しいことがある。彼は卒業してから留学するつもりらしいが、僕は彼の履修登録ページに入るためのパスワードを知っている。これ以上言う必要は無いが、つまり彼は僕の手のひらの上で転がっている。

さらに最近は留学するために必要な英語の成績が伸び悩んでいるらしい。
オフの日にたまプラーザのTOMASで年下に勉強教えてる場合じゃないのでは?

あんなに英語の授業詰め込んでるんだから、引退ブログの1つや2つ、英語で書けるよね。まさか日本語じゃないよね。

 

関口 崇太(FW/西武台高校)

 

 

 

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平素より大変お世話になっております。

立教大学体育会サッカー部 選手兼学連担当の金子祐斗と申します。

 

この書き出しのメールを大学4年間で何回書いたことか、多分100回は超える気がする。

 

自分の大学サッカーにおいて常に「学連」という言葉がついて来た。それは、いい意味でも悪い意味でも。みんなの卒業ブログ見ていて、サッカー人生全体を振り返っている人が多いけど、自分は「選手兼学連」として活動してきた大学4年間を振り返りたいと思います。少し長くなるけど、読んでいただけると嬉しいです。感想待ってます。

 

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あまり知っている人が少ないかもしれないけど、自分は高校2年生で1度サッカーを辞めた。監督のやり方が合わなかったとか周りには言ってきたけど、大学受験という高校生の自分にとって大きな壁にビビってサッカーから逃げただけだと思う。

 

辞めたくせに、みんなが放課後グラウンドでプレーしている姿みて、辞めなければよかったなとか思っていて、自分の気持ちの弱さは本当にどうしようもなかった。

 

結局、保育園の年長からずっとやってきたサッカーから離れることなんて出来なくて、ボランティアという形でサッカーに関わることを始めた。この経験のおかげで、立教に入れることになったから、人生本当に何が起こるかわかんない。(ボランティアだから、ゴミ拾い入試で入ったって言ってくるやつ、ほんとにウザいです笑)

 

これまで選手としてプレーする側しか経験してなかった自分にとって、運営側の仕事を経験して、スポーツに対する視野が広がった。ボランティアをするという選択をしなければ、学連という道を選ばなかっただろうし、自分の将来の進路も大きく異なっているに違いない。

 

 

そして、高校時代やり切れなかったサッカーにもう一度熱くなりたい、そう思って立教大学体育会サッカー部に入部した。

 

3月下旬から、練習参加したけど、1日参加してすぐにボランティア行ったりしたせいで、同じタイミングから練習参加していたサギとか新谷は俺が戻る頃には、新入生メニューが終了していてびっくりした。あの頃はゆうまとくまの家に行ってたなぁ。今じゃ全然行ってないけど笑

 

大学1年を振り返ると、「キツかった」その思い出しか出てこない。たいがさんの下で鬼のようにキツい練習やって、ゲームで勝ったチームもペナ3走ることが当たり前になっていた当時のDチームの精神状況はどうかしていたと思う。

 

大学サッカーってこんなにキツいの?

自分の思っていた大学サッカーの何倍もキツかった。でも、それ以上に自分が上手くなっているという実感もあってとても楽しかった。6月29日、上智とのサタデーからスタメンで試合に出られるようになって、そのまま最後までスタメンを継続することが出来た。

 

高校サッカーを途中でリタイアした自分にとって、出来すぎた1年目だった。

 

 

学連との出会いについても触れておきたい。

 

4月、保土ヶ谷での関東リーグの応援の時に、東海大学の学連として高校時代の先輩マネージャーが働いているのを目にした。最初は「学連」という存在が大学サッカーにあることは勿論知らなかったし、大学サッカーが学生主体で運営しているってことも入部したての自分は知らなかった。けど、ボランティアの経験から運営への興味はあったから、学連って面白そうだなって思った。そしたら、あれよあれよとあきらくんに学連に入れられた笑

 

学連1年目は、なみさんとあきらくんの仕事ぶりをみて、そのサポートをちょっとするくらいで学連の仕事の本当の過酷さにはまだ気づかないまま終わった。

 

 

そして、大学2年。

シーズンが始まるタイミングで、たいがさんがBチームにつくことになって、そのおこぼれで自分もBチームからシーズンを始めることが出来た。

 

でも、何も出来なかった。

 

周りは全国的にも有名な高校・ユース出身の選手達で、最初っからメンタル面で周囲に気圧されて、周りに要求することも出来ないし自分のミスで練習が止まるからどんどん自信がなくなって、負のスパイラルに陥っていた。Bには1ヶ月も居られなかった。

 

Cに落とされて、その時期から怪我をよくするようになった。色んな怪我したから、どの時期になんの怪我したかとか全然覚えてない。けど、選手として1年目からどんどん落ちている自分がそこに居た。そんな自分にとって、「学連」は1個の逃げ道になっていった。

 

 

学連2年目、コロナ禍で関東の試合は基本的に流経大のグラウンドで開催することになって、毎週Aチームと大型バスに乗って運営しに行って、土日のうち、片方は運営で潰れるようになった。なみさんが卒業して、1年目とは段違いで仕事は忙しくなっていった。

 

学連が忙しくなると同時に、怪我をし始めた自分に対して周囲は「金子は学連やってくれているから、怪我してもしょーがない」と言ってくるようになった。最初は悔しいと思っていたけど、次第に自分もその言葉を受け入れるようになっていて、選手として活躍することから少しずつ目を背けていた。

 

2年の大半をCで過ごしたけど、Iリーグが佳境に入るってタイミングで怪我の影響でDに落ちて、Dが1年の時に達成できなかったサタデー優勝を達成している様子を、スタンドから眺めることしかできなかった。

 

 

1年目が選手>学連こうなら

2年目は選手≦学連こうなり始めていた。

 

 

そして、大学3年。

今年こそはIリーグに出たい、強い思いでシーズンインして、Dからのスタートだったけど1ヶ月くらいでCに上がれることが出来た。

でも、そこからは何も無かった。Cのフィールドの選手として唯一1年間Iリーグのピッチに立つことができなかった。サブ主体でやったリーグ戦の時も、怪我で観客席から試合を見ていた。

 

1年の頃からほぼ同じカテゴリーで過ごしてきたしょうきくんに、お前は声でチームを引っ張っていかないといけない人だろって発破をかけてもらっていたのに、それはアップサポとしてしか活きてなくて、ピッチでチームを引っ張っていくことはほとんど出来なかった。

 

 

学連として、3年生から立教の1番上の存在になり、色んな業務がこれでもかって降り掛かってきて、アミノバイタルカップでは協賛担当の仕事を務め、立教とは関係のない試合の運営にも行くようになった。夏には東京オリンピックのボランティアもやっていて、終電で家に帰って次の日の練習は朝練。それが終わったら、そのまま車で関東リーグの運営のために流経に行くなんて日もあった。

 

選手としての充実感よりも学連とかボランティアの仕事をしている自分に充実感を抱くようになっていった。例のごとく、選手としては怪我をたくさんしていて、いつからか「学連専任(選手をやめて学連1本で働くこと)じゃないの?」と周囲から言われるようにもなった。「専任じゃねーわ」と表面上では強く言い返しても、選手としての活躍を諦めかけている自分が心のどこかにいた。

 

 

3年目はもはや選手<学連こうなっていた。

 

 

3年目のシーズンを締めくくる2部参入戦、自分は学連として会場責任者を務めていた。運営として最高の準備をして、関東2部残留を果たしたい、そう強く思っていた。けど、それは叶わなかった。試合終了直後から、城西の2部昇格が決まったことによる授与式の準備や、レオの一発退場の後始末など、敗戦に肩を落とす暇もなく色んな仕事に追われた。自惚れた事を言うけど、この負けは自分が学連として選手以上に1年間頑張ってきたことを、正面から否定されたような気がした。

 

 

そして、大学サッカーラストシーズンの4年目。

今年こそは、Iリーグに出る。3年目以上に決意をもってシーズンに入っていった。Dスタートだったけど、すぐC上がれて、ここでやるしかないそう強く思っていたし、やる気にも満ち溢れていた。けど、2年3年と学連を逃げ道にしてきた自分の甘さが遂に出た。

 

4月17日の練習試合、山梨学院大学戦。

45分間の出場で5失点。

 

失点されてそこから盛り返すことも出来ず、ただひたすらに失点を繰り返す。自分のサッカー人生の中でも1番のクソゲームだった。

 

その試合後にガミさんからこんな言葉を言われた。「いつも、学連でoffにも色々仕事をしてくれているのはわかっているし、本当にありがたいと思っている。でも、学連である前にお前は選手だろ。選手として4年として、ピッチ上でもっと戦う姿勢を見せないといけないだろ。」

 

強い口調で言われたけど、ガミさんの優しさを感じることが出来て、心が苦しくなって、泣きたくなった。2年3年と「学連」を逃げ道にし続けてきた自分に、強くこの言葉が響いた。

 

このままでは終われない。

選手としてもう一度活躍する。

心に強く誓った。

 

この試合の2週間後、またDに戻ることになった。

 

Dとしてもう一度リスタートして、サタデーの第1節・第2節とスタメンで出場することが出来た。けど、肉離れの怪我とか色々あってそれ以来サタデーのピッチに立つことは出来ていない。

 

そろそろ、サタデーのメンバーに絡んでいけると思っていた矢先。

9月24日、城西大学との練習試合で左膝の内側側副靱帯を損傷した。

 

色んな怪我をしてきたけど、1番大きい怪我をこのタイミングでした。周りからは「もう引退か」そんなことを何回も言われた。けど、このままでは終われない。「選手」として、俺はまだ活躍出来る。活躍しなきゃいけない。だって、俺は「選手兼学連」なんだから。

 

残り少ない時間で、試合に出場できる保証も無いのに膝にテーピンググルグルで、痛み止め飲んでプレーすることになんの意味があるのか、そう思う人もいると思う。けど、俺は「選手」であって、「学連専任じゃない」。だから、ピッチで活躍しないといけない。4年として後輩に自分の姿を見せたい。自分も先輩方のそういう背中を見て、学んできたから。

 

今日サタデーのチャンピオンシップ1回戦がある。勝っているから、まだあと2試合ある。怪我なんて言い訳にしない。ピッチで自分が活躍して、1年の時に叶えられなかったサタデーの優勝、そして立教としてサタデー3連覇を達成したい。

 

そして、昨日から関東大会が始まった。あと4節、何としても2部に戻りたい。学連として関東リーグの試合にはほぼ帯同して、ずっと試合を見てきて、絶対このチームは関東2部に戻れると信じているし、関東2部で戦っている姿をまた見たい。そのために、自分は学連として全力でサポートして、みんなで関東2部に復帰したい。

 

 

最後、選手≧学連だったと言えるように残りの大学サッカーを全力で走り切りたい。

 

 

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両親へ

朝練で朝早くても、夜練で23時くらいに帰ったとしても、いつも美味しいご飯を作ってくれてありがとう。2人のサポートがなければ、今日までサッカーを続けることは出来ませんでした。いつも本当にありがとう。大学1年生以来、なかなか2人にプレーしている姿を見せられていなくて、本当に申し訳ないです。最後、ピッチで活躍する姿を2人に見せられるように死ぬ気で頑張ります。そして、他の同期は就職して社会に出る中で、自分は留学という道を選べたのも2人がいつも、自分の選んだ道を全力でサポートしてくれるお陰です。まだ2人のサポートに頼るのがあと数年続くと思うけど、それから先精一杯親孝行していきます。これからもよろしく。

 

 

同期へ

4年間本当にありがとう。

一人一人個性強くて、なんだコイツとか思ったことも沢山あったけどみんなが同期で良かった。自転車で帰りながら、その日の愚痴を言い合ったり、恋バナに花を咲かせたり、何気ない日常がもうちょっとで終わるなんて想像出来ないし、やっぱり悲しくなるな・・・

飲みとか全然行かないせいで、同期と遊ぶのが下手って言われているけど、これから沢山メシとか飲みとか遊びに行きたいです。誘うし、お誘いも待ってます。

 

 

後輩へ

まともな礼儀をもって接してくる後輩は数えるくらいで、「いつ奢ってくれるんすか」とか「早くそのユニくれ」とか、ヤベー奴は「おい金子」とか普通に呼び捨ててくるし、舐めた後輩しか居なさすぎて、そういうやつが先輩としてこれから大丈夫かまじで不安。けど、そんなみんなと過ごせてよかったし、楽しかった。ご飯いこうな。

 

 

つくる、松木、白鳥へ

来年以降、学連の仕事は今年以上に大変になると思うけど、3人で頑張って乗り越えて欲しい。松木は全然仕事できないし、白鳥も最近入ること決めてくれて学連の仕事なんもわかってなくて、つくるは色々苦労すると思うけど、つくるなら大丈夫。キツかったら遠慮なく周りを頼ってね。松木と白鳥は、選手兼学連でこれから本当に大変になると思うけど、どっちも全力で頑張って欲しい。絶対自分の力になるから。

 

 

スタッフの方々へ

一人一人名前をあげて、感謝の言葉を伝えたいくらい本当に選手としても学連としても多くの方に支えてもらって、4年間過ごすことが出来ました。

この場を借りて、感謝の言葉を述べさせてください。本当にありがとうございました。

 

 

トレーナーの方々へ

多分2年以降、全てのトレーナーの方にお世話になりました。復帰しては怪我して、復帰しては怪我して、へーたと同じくらい怪我してトレーナーには沢山迷惑をかけたと思います。でも、毎回毎回全力でサポートしてくれて、トレーナーの方には感謝してもしきれません。本当にありがとうございました。

 

 

やぎの方々へ

2年生から、数え切れないくらいやぎに通いました。本当に沢山の怪我をして、それでも毎回復帰までサポートしてくれて、ありがとうございました。

いつもいじりすぎだろってくらい、いじられるけどそれもはっきり言っておいしかったし、やぎのアットホームな雰囲気がマジで大好きです。

もうやぎに行けなくなるなんて、悲しいので膝の怪我が完治するまでは、引退してからもやぎに通いたいと思います笑

 

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かなり長くなったけど、最後まで読んでいただいた皆さん、ありがとうございます。

 

立教大学体育会サッカー部に入れて良かった。

 

最後笑ってサッカー引退します!

 

 

 

《お気に入りの写真

 

 

 

 

       もう引退かぁ(左上黄色)

 

 

 

 

 

大変だけど、みんなでやる運営は楽しかったなぁ

 

 

 

 

コムドット御用達のお店で誕生日会

 

 

 

 

 

 

 

 

次回のブログは…

岸田 圭剛(MF/名古屋国際高校)