4年生引退ブログ 立川将吾 「将来の夢はなんですか?」 | 立教大学体育会サッカー部日記

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立教大学体育会サッカー部のマネージャー日記です☆
2013.3~

☆4年生引退ブログ☆
 
 
 
 No.38 立川 将吾
 
 
「 将来の夢はなんですか? 」





 



 
 
《プロフィール》
 
 
学部学科:経済学部経済政策学科
出身校(チーム): 浦和レッズユース
ポジション: FW
背番号: 8
 
 
 


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     『 将来の夢はなんですか? 』



入学前に立教サッカー部の引退ブログを読んでいた4年前。あれから自分が書く時が来ると思うとなんだか感慨深いです。
 
長くなりますが、お時間がある時に読んでいただければ幸いです。
 
 
将来の夢は?と聞かれたらプロサッカー選手
と幼い頃からある時まで心の底から言い続けていた。
けどある時から俺はこの言葉を言うことに不安を抱き、叶わないかもしれないという感情が重くのしかかっていた。
 
幼い頃の記憶は定かではない。が、父に多くのプロサッカーの試合を観に連れて行ってもらっていた。
一番鮮明に残っている記憶は、2005年3月30日埼玉スタジアムで観た日本代表対バーレーン代表の試合だった。父と一緒に青色のビニールを掲げ、コレオグラフィーにテンションを上げ、かっこいいなって素直に思ったことを今でも覚えている。当時5歳だった俺がなんでこの時の記憶が鮮明に覚えているかは正直わからない。
 
その時から私はプロサッカー選手を目指してサッカーに励んできた。
小学校の時、サッカーが楽しくて楽しくて毎日学校から帰ってきたらランドセルを投げ飛ばし、目の前の学校でサッカーをして、練習時間になったら着替えてじいちゃんに送ってもらうのが日課だった。
土日はほとんどが試合で、毎回帰りの車でプレーが悪いとか走れてないとかで親にはボロクソ言われ続けていた。試合の日の親は心の底から憎かったし、言うならやってみろって思っていた。
言い返したことも度々あるが、返ってくる言葉は「そんなこと言うなら、降りて走って帰って。」走るの大っ嫌いな俺からしたら一番嫌なことだったし、走るくらいなら黙って聞いて受け流せば勝ちって誇らしげに考えていた。
 
サッカーが上手くなりたいって思うより、サッカーをして楽しみたいっていう感覚だった俺は、地元の友達を巻き込んで、朝学校登校する前にいわゆる朝練?的なことをしたり、練習が休みの日は友達とボールが見えなくなるまでひたすら遊び続けた。
 
中学からは運も良く憧れていた、浦和レッズの下部組織に入団することができた。
入団名簿を見れば、知っている選手ばかりでこの人たちと同じチームでサッカーできるんだ!っていう純粋な心を持った1人のサッカー少年だった。
入団してからも毎日が楽しく、練習がとても刺激的でレベルが高く自分がサッカー上手くなったと錯覚するぐらいの感覚だった。
中学生といったら、思春期真っ只中で色々なことに対して反抗しては当時のコーチ(現在浦和レッズジュニア監督)に怒られ、仲間が練習にいきなり金髪できて帰らされたり色々な経験をしてきた。
めちゃくちゃ恵まれた環境にいて、そこそこ活躍していた俺はその当時本気でプロサッカー選手になれるものだと思っていた。周りにも俺プロになって有名になるからなって疑いもせずに言っていた。
 
そのままユースに上がり、プロになるまで残り3年だと思っていた俺は、自分が思い描いていた生活と真逆の3年間のサッカー生活を送るようになった。
この3年間は正直、本当に苦しくて何度も逃げ出したくて、辛い思いも忘れるぐらいあんだけ楽しかったサッカーが自分の首を絞めるぐらいなものになっていった。
身体的にあまり恵まれてもなければ、サッカーが上手いわけでもなければ、個人で打開出来るだけの個の能力もなかった自分は試合に出れない日々が続き、途中出場途中交代も経験したり、ロスタイム要員になったり、なぜか監督からめっちゃハマって干されたり。こんな経験もう一生無理だろ。って思うぐらいの辛さを味わったし、周囲の期待が重くのしかかった事もあり、サッカーをしている自分が惨めに感じ劣等感に明け暮れていた毎日だった。
だからといって、同期のみんなみたいに1人で寡黙にランニングをするとかもしてこなかったし、休みの日までもサッカーをしたいって感覚にならずに家でぼーっとテレビを観てたり何も努力をしてこなかった。
今思えばそれはプロになんかなれる訳がないと自分でも思っている。
 
同期のブログを観るとサッカーを辞めたいと思ったことは一度もないっていう文ががたまに書いてある。
その言葉を書けるのが羨ましいと思ってしまうほど、
俺はサッカーを何度も辞めたいって思ってしまっていた。
不思議とこの時から俺は
 
プロサッカー選手になる。
 
という言葉が言えなくなっていった。
 
高卒でプロになれない俺はサッカーで大学に行く手段しか手元になかった。
プロになりたいと本気で言えない俺はなぜか逃げのセカンドキャリアを考える様に不思議となってしまった。
赤裸々に話すとすれば、当時の俺は頭の良い大学出てサッカーもそこそこの大学で楽しくプレーすればいいか。というダサくてしょうもない考えに陥ってしまった。
進路面談の際、立教大学に行きたいですと伝えたら立教行ってサッカー辞めるの?まで言われた。
じゃあ、試合にあまり出場していない俺はどこの大学に行けるんだよ。と内心思っていたところ、
そんな中、たまたまスタメンで出た
JFAプレミアリーグvs大宮アルディージャ戦に倉さんが観に来てくださり、練習参加させてもらえることになった。
言葉に語弊が生まれるかもしれないが、最終的には自分のことを拾ってもらう形になった。
恩を仇で返す形になってしまい申し訳ございませんが、本当に感謝しています。
 
ユースの同期は13人いる中で、プロが3人大学進学が10人いた。さらには選抜で一緒にプレーした友達は約8割型プロの道に進んでいった。
大学進学組は皆、4年後大学経由でプロになるという強い想いを抱き大学の門を叩いていた。
先程も述べたように、ちっぽけで情けない俺はその考えに至らなかった。なんせ、この実力でプロになれると思っていなかったからだ。
 
大学1年になり、ほとんどのユースの同期がリーグ戦に登録され、デビューを飾っていた。そんな俺はリーグ戦に登録はされるものの、一度も試合に絡めずに終わった。チームレベルで考えたら当時の立教は1番レベルも低く、周りからしたらまだ試合出てないの?っていう感覚に近かったと思う。
 
親からは何のために立教行ったの?試合出れないならサッカーやめた方がいいよ。って真顔で本気で言ってくる。じゃあ、もう辞めるからっていう会話何回したことか…
 
サッカーに対してはとても厳しい両親。世間一般的な同期の保護者様はあまり部活に対して干渉しないか褒めて伸ばしていくタイプだと存じ上げておりますが、立川家は今でも試合後毎回、お前下手なんだからサッカー辞めれば?って普通に言ってくる。だからこんなポジティブな子供が育ったんだと我ながら思っています。感謝します。
 
そんな話は置いといて、試合に全く絡めなかった俺は大学2年になりカテゴリーA→Bへ降格。
悔しいって想いより、俺やばいなって想いがまさり、夏までには絶対戻ってリーグ戦で結果残してやるって考えていた。結果的にAに戻ってリーグ戦デビューを飾れたが怪我してシーズン終了。
俺何やってんだ?って何度考え込んだかわからないぐらい考えた。今までオフシーズンになってもサッカーを第一に考えてる人とは非対称なぐらいだらけた生活をしていて、毎年オフ明けは体がぶくぶくになって戻ってくる俺と加藤雅也と五島魁大だったが、流石に来年から監督変わるしアピールしたいし、勝負の年だし、年間通して試合に出たいし、もう一度試合に出ている姿を親に見せたいし、点取りたいし、同期には負けたくないし、色々な感情が脳裏に浮かんできた。
そのはずが、あー走るの嫌いだし、年末年始の特番面白いし、寒いし、家にサッカーボール無いしっていうマイナスな事も考えながらも、何故か親友とキャッチボールしていた事もあった。
なんだかんだ、そこからは本当に自分の身体を変えていった。オフシーズンにはユースの同期から紹介されたパーソナルジムに通い、何度も身体に鞭を打って、取り組んだ。
全ては結果を残すために。
 
新シーズンになり、新しい監督がきて、新しいサッカーの価値観を芽生えさせてくれて、久しぶりにサッカーが楽しくなっていった。
楽しむために遊び心を持ってプレーする事を心がけた。良く父親には小野伸二のような楽しくサッカーしなさいと、小野伸二のDVDを買ってもらったことがある。そんなようなプレーを真似したり、適当にシュート打ってみたのが入ったり、そのような前向きな挑戦は絶対に否定しない監督だった。
サッカーに限らずどんな時も新しいことにチャレンジする時は絶対的に勇気が必要だし、その勇気を出して行ったことが結果に繋がった時の快感?がたまらなかった。
今までに比べて練習もかなりキツくなったけど、サッカーやってるな。っていう高揚感が凄まじかった。
さらには、プロサッカー選手をもう一度目指していこうかな。と薄々と込み上げてきた。
 
3年のシーズンが終わったと同時に就活もスタートさせた。
就活をすることが正解ではなかったが、サッカーで飯を食っていく確固たる自信がなかったからしっかり行った。
 
 
「ここからは完全に私個人の考えなので納得できない方もいるかもしれませんが、自分が強く想っていたのであえて書かせていただきます。
 
大学サッカー人生4年間という限られた時間の中で就活をするってことは一度は本気でプロサッカー選手を目指した俺からしたら逃げだと感じる。なんたって、その夢を叶えるだけの努力をして実際に叶えた人もいる。そんな人はじゃあ、就活という2文字が頭に浮かぶのだろうか?俺はあまり浮かばないと思う。プロになれる人は就活をせずにプロの道を突き進む。どんな理由でさえプロを目指す事を辞め、他の事を仕事にせざるを得ない状況になっているから別の選択をすると俺は思っている。就活をするのは当然だ、プロになれなかった為にするリスク管理といったらその言葉で簡単に収まってしまうかもしれないが、就活なんて長い目でみたら4年間のサッカー人生が終わってからしても死ぬわけではない。1つの夢をひたすら追い続けている人はカッコいい。だから、俺はプロを目指し続けている人は心の底から尊敬している。
桐蒼太、同期として誇りに思います。」
 
ラストシーズンに入り、自分からあえて厳しい環境に身を置こうと考え、実際に行動に移した。
承認欲求の高い俺は、練習で自分の存在意義を明確にさせたいと考え、人と違うようなプレーの選択を行なってきたし、同期後輩関係なく求められている要求にはなるべく耳を傾け、決して否定せずに応えてきたつもりだ。
なぜなら、自分のプレーは1人では出来ないし、周りに合わせることで1番生きると今までのサッカー人生で感じ、自負していたからだ。
今まで多少なりとも後輩からはビビられていて、先輩としか絡まなかった俺は、後輩と少しずつ打ち解けていった。この結果から、仲間のプレーの特徴であったり、仲間が求めていることに忠実に対応することが可能になったと感じている。
今ではこの1年でめちゃくちゃ色々なことがあり、かなりいじられているがそれも悪くない、、
 
就活も終わり、残りの競技人生を考えるようになっていった。内心、ここでサッカー辞めるのもったいないな、であったりこの2年間で技術レベルは向上したしもっと上のレベルで出来るなって思ったし、
ユースの後輩が練習参加しにきた時に、付き添いで来ていた伸さん(現浦和レッズユース監督)に「お前めっちゃサッカー上手くなってるじゃん」て褒めてもらった。
正直嬉しかったし、サッカーもうちょいやりたいなって漠然と考えた。
そんなこんなで不思議とコンディションも上がっていき、結果を少しずつだが出せるようになってきた。
その時俺はがみさんに直談判しに行った。
 
出来るならプロも目指しつつ、どっかのチームの練習に参加したいです。
 
サッカーを辞めたいと何度考えた俺が、こんな事言うことに自分自身が1番驚きを隠せなかった。
多分相当、当時サッカーが楽しくて勝った時の喜びを経験しているからこそ、その高揚感から抜け出せなくなっていたんだろう。
 
やっぱりプロサッカー選手になりたい。
 
理由はどうであっても、色々な遠回りをしたとしても本気で目指していた場所だから。
 
俺は皆んなみたいな努力ができなかったし、プロになった友達みたいに特徴があるわけでもない。
けど、憧れを憧れで終わらしたくないって思っている自分も確かにいた。
口だけで言うのは簡単だ。その口だけになっている自分は情けないし、口だけになっているなって親友が教えてくれたからだ。
 
このブログでその親友に感謝を伝えたい。
彼は本気でプロサッカー選手を目指している親友だ。俺はその親友には正直頭が上がらない。日々の出来事であったり、サッカーの事などは全てそいつには言っていた。
試合で点取った時は動画を切り取り送ったり、サッカーを辞めたいと思った時は相談したり、うまくいかない事も本当に全て曝け出した。恋愛の相談なんかもした。そんな彼は自分のことのように悔しがってくれるし、もう一度サッカーという素晴らしいスポーツを俺の心に奮い立たせてくれて、何度も何度も勇気を与えてくれた。
彼は現在大阪でサッカーをしている。オフ期間に帰省をしてきて、毎日家でグータラな生活をしている俺を、わざわざ叩き起こしに来てくれ、サッカーするぞ!って言ってくれた。
お前どんだけサッカーしたいんだよ。って思った時もあったし、俺はサッカーする気分じゃないから今日いいやって言って1人でサッカーさせたことも多々あった。そんな努力家という言葉でしか表すことの出来ないあいつを目の前で見てきたからこそ、自分の努力の少なさが圧倒的に身に染みて感じていた。ちなみにサッカーするときは必ず、グローブを手にはめ、なぜかキャッチボールから始める。
そんな彼にも苦悩があることも知っているが、それを重々承知で言わせてもらう。
大、お前なら出来る!
いつも助けてもらっていた。本当にありがとう。
 
大学サッカーも残り終盤になり、現在残り2節。今までたくさん充電してきた俺は絶対爆発させて結果残して、チームを勝たせるという想いだった。
そんなのも束の間、週中の紅白戦で左膝の内側側副靱帯損傷。
悔しいを通り越して、自分が呆れた。まじでなにしてんだ俺。
結局また口だけか。色々な感情が頭の中を混乱させた。
Aの同期は真っ先に、ユニフォームを試合に飾りたいって連絡してくれて本当に嬉しかった。
先日行われたvs日本大学戦にはセラがユニフォームを着てくれていた。ありがとう…
 
だが、まだ残留が決まったわけではないです。
 
残り一試合死ぬ気で闘って4年がヒーローになろう。
 
散々に批判されてきた分の力を最後の最後に発揮しよう。
最後ぐらいカッコいい4年で終わろう。絶対見返そう。
 
 
最後に
色々な事があったのに、Aチームに残してくれたスタッフ。
いつも気にかけて連絡してくれる先輩方。
将吾くんいなくちゃ勝てないっすって嘘でも言ってくれる後輩。
心配して連絡してくれて、励ましてくれる同期。
嫌な顔せずに選手のことを第一に考えて行動してくれる、トレーナー&マネージャー。
4年間ありがとう!
 
たか、たすく、よはん
立教関係者の皆様
この3人には期待して見てあげてください。必ず立教を引っ張っていきます。
よはん以外の2人は俺とかジュリとか桐と同じ匂いがするから、気をつけろよ。
けど1番期待してる。何かあったら連絡してこいな!
 
家族へ
いつもボロクソ言ってくれてありがとう。なんてことは言えません。
普通に腹立ちます。普通にむかつきます。普通にうざかったです。
なら自分がやってみてください。
けど、1つだけ謝ります。
毎試合楽しみに足を運び観戦してくれていた両親。コロナ禍もあって、有観客が限られていました。なので残り2年間、1度も観に行かせる環境を与えられなくて申し訳ない。
何度も期待を裏切ってごめん。
 
ばあちゃんへ
小学生の時なかなか点の取れない自分に、1点取ったら200円のお小遣いをくれました。その100円玉はしっかり使わずに貯金箱にあります。
いつも味方になってくれてありがとう!
必ず恩返しするね。
 
この大学4年間で17年間の競技人生に終止符を打ちます。今まで自分に携り、応援して頂いた方々本当にありがとうございました。
ここに来るまで何人ものサッカープレーヤーを蹴落とし生き抜いてきました。
成長したいと願い鎬を削り合い切磋琢磨してきた仲間たち本当に感謝しています。ありがとう。
一つのボールをガムシャラに追っかける楽しさ、仲間とひとつになり試合に励む高揚感、サッカーが教えてくれたものは全て最高でした。難しい状況でもポジティブに捉えられる人間に成長する事もできました。
私の人間形成は全てサッカーが与えてくれました。
サッカーやっていてよかった。
 
サッカー最高

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