前回の記事はコレですね
なんで前回の記事のことから確認したのかと言えば現在の私はそういう連続的な記憶が曖昧になっていると感じているからなのですが。
それは先月末のこと。
寝て起きたらこの4年ほど使用していたスマホが故障していたのです。
液晶画面?が白緑に発光していてほとんど何も見えなくなっていたのですね。
まぁそんなこんなであのスマホ、
この4年間使っていたスマホはお亡くなりになった感じなので保存されてないこの4年ほどのデータもお亡くなりになったということなのでしょう。
まぁ、内心では区切りとしてちょうどいいような気がしないでもないんだけど。そういうもんかなって。
4年前って言うとホラ、
終のツインレイ(仮)な体験の心の後始末みたいな物をつけはじめていたくらいのことで。
そういえばアレから4年経ったんだよなぁ〜
みたいなことを少し前に強く実感していたのです。
……………うん、確かにそんな感じで何かがあるような気はしていたんだけれど。
まさかこういう形で来るとは。
という感じで、
なんかそういう波動的な体感みたいな内面の何かしらの無理矢理めな変化の実感みたいな物に加えて、
この4年を共にした、
ほぼずーっと使い続けていた愛用のスマホが使えなくなってしまったことで私自身のバランスだとかルーティーンに近いリズム的な物が崩壊してしまったわけです。
それが良い悪いかを抜きにすれば、
間違いなく私の生活も人生もスマホに依存しているに違いないのですね。
っていうかネット環境ってやつよね。
私の実家は私以外はネットをほぼ必要としない旧時代的な文化だから。
ネット環境無しの生活って有り得ないと思う。
特に田舎に居ながらにして外側の世界に関わってくのにも創作販売活動的なことをするにも必須。
勤めてる所に仕事に行って、
家に帰ってきてそれ以外の時間を過ごして、
そして自分の家庭がある。
って人生観で満足できる人間ならネット環境無しのローカルだけの生活ってのも可能なんだろうけど。
私は無理だなぁ。
“田舎に引きこもっていられる”のもネット環境があればこそだから。
ネット環境無いと当然ながらこのブログだって書けないんだし、スマホゲームだってできやしないんだからもうそれは私の活動というか今の人生状況の9割くらいが失われるということだと思うんだよ。
趣味も使命もあったもんじゃない。
だからネット環境は必須なんだよ。
世界の片隅に居ながらにして情報発信だとか表現が果たされるためにはそれは前提になるものだから。
そんな感じで、ようやく現状の予期せぬ変化だとか内側からの波動的な変化を促す力みたいなものに圧倒される状態が終わってきたのでしょう。
ようやくまともに物を考えられるようになってきた気がしているので今の私はコレを書いているのでしょう。
波動的な変化の実感てのは、
自分のオーラフィールドとかエネルギーフィールドの構成や状態がズレてバラバラになっているような感覚を伴うもので、
それを体感として表現するなら、
肉体がそれぞれバラバラの方向に動こうとしているような非常な不快感や違和感や難しさがあるように私は感じているのです。
とにかく非常に“気持ち悪い”感覚なのです。
そしてそれが実はいわゆる引き寄せの力が働いた後の状態で、自分が既に変化した状態へと無理矢理に引っ張られている実感だという原理みたいな物にも私は一応気付いているのですが。
しかし気持ち悪いものは気持ち悪いし気分が悪いものは気分が悪いのですよ!!
既にあるべきではない場所にある自分
みたいな物を実感するということだから、
非常な違和感が常につきまとうのです。
言うなればそれこそが私がこの理解しにくく扱いにくいことこの上ないブログを何年も続けてきた原動力であり、
その源泉となる強制力そのものなのですね。
だから私は思うのです。
望まれた現実の波動を先取りすればそれで終わりそれで幸せということにはならないのだと。
だってその後には一致させるための法則的な強制力が働くことになるんだから。
ズレが大きい状態でそれをやると変化の実感や原動力としての強烈な自己否定だとか推進力としての耐え難い違和感を一致した状態になるまで常に体感することになってしまうのだから。
私の感じてた人生の非常な難しさって、
大部分がそれだったんだなって。
現在の自分と有り得る至高の可能性とのズレ
みたいなやつ!!!
私が思うに、
高い霊性だとか霊格(?)だとかを持って生まれた人間が自分だと言うのなら、
その霊的な自己意識に覚醒してしまうって
つまりそういうことなんだって。
あるべき非常に高い意識だとか高い波動(?)なんて物に追いつけるようにそのための強制力や推進力としての内外問わずの霊的なマスターとして育てられ鍛えられ完成するための人生が始まるんだって!!
間違いないよ。
原理的にも絶対そうなるし、
そうじゃない計画を組むことは有り得ない。
だから自分が“そう”だってんならその時から人生の意味も目的も必ずそれに最適化される。
…………それにさ、
そこまでわかってしまった今となっては、
個人的には霊性が高いとか霊格(?)が高いとか、
なんかそういうのもどうでもいいんだって。
いやだってさ?
それも人間としての自分の考えで選べるような物じゃない既に選ばれていて用意されているから、
人間としての自分はそれを抵抗したり喜んで受け取り受け入れるしかできない物だってわかるから。
だからもうどっちでもいいんだよ。
だって自分で選べるもんじゃないから!!
だからもうそんなのなんでもいいんだよ。
って個人的な意識としては思っておきながら、
本当に霊性が高いだとかってんならその強制力から逃れられないからそういう質の体験を強いられ続けることになる。
……それが人間的に幸せなことなのかと言えば、少なくとも私はそうは思わない。
コレはそういうものではない。
ってだけ答えたい。
人間的に考え想像し得る幸せとかってのとは目的意識とか前提がもう違うってのは間違いないことだと私は思ってる。
だからどっちかって言うと、
人間的な幸せにはほど遠い
なんかこう、
飽くまでもやりたいやつが挑戦するための
チャレンジモード
みたいな人生というか。
プロ認定試験みたいな人生というか(笑)
あるいは既にプロと認定されたからこそ依頼されて引き受けた仕事というか。
なんかそういう感じのやつなんだよね。
あんまり個人の持ち物って感じはしない。
むしろ飽くまでも引き受けた仕事と考えた方がよほど納得がいくし受け入れやすい気さえする。
私個人がそれを望んだわけではないけれど、
しかしそれこそが私の本質であることを否定したいというわけでもない。
みたいな感じで理解しておくと自己矛盾で自壊しなくて済むというか。
……そうじゃない人間には意味わからんかもしれないけどさ、私みたいな人間にはとてつもなく重要な心得でありテクニックだと思う。
じゃないと精神崩壊不可避。
(まぁそれもプロセスとして必然なら避けられないから直面して心砕かれるしかないんだけど。)
人間としての自分と霊的な存在としての自己意識を上手に正しく切り離して考えるというか。
それができたら最初から苦労しねぇんだよ!!
とか思っちゃうけど(笑)
でもさ〜?
必要なんだよ実際に。
人生には個人の意志を述べたり自分にとっての正解を目指すのが正解な時もあるし、逆に自他問わず個人の意思なんて完全無視すべき時ってのも確かにあるじゃん?
だから後者の時は飽くまでも契約として引き受けた役割であり仕事を果たすためのエージェントとして自分を捉えたほうがよっぽど気が楽なんだね。
だって私個人が望んでるわけじゃないんだから。
どれだけ“お前の意志だろ!!”とか言われても、
全然まったくそんなつもりは無いけど、
そう思いたいのならそう思えばいい。
って私は答えたいって思ってる。
だって実際そうなんだから★
どれだけ相手の人間が個としての意志を超えたものを認めなかろうが理解できなかろうが、だからってそれを私の独断だと偽ってやる義理は無い。
たとえ状況として私が“悪い”のだとしても、
そもそもそれを避けられる可能性なんて無いのなら必要以上の悪役になってやる気も無い。
必要悪は仕方ない。
そういう役割を負うこともあるのが人生。
でもそうじゃない部分でまで偽悪ぶる必要なんて全くないって今の私は知ってる。
たとえ私自身が数秒前とは全く違うことを語り示すことがあったとしてもそれは流れとして必要で必然だからそうなっただけだからそれ以上の意味付けなんて全く必要ないしナンセンスなんだから。
それに対して、
私自身だろうが他の誰かだろうが、
一時の思い付きや勘違いの言葉に付き合ってやる義理なんて無いのだから。
何も間違って無いって知ってるならどれだけ糾弾されたとしても非難されても証拠に見える物を突き付けられたとしても認めなければいい。
そうじゃないと思えたなら、
逆に有りもしない錯覚のいわれなき罪を受け入れたっていい。
ただその瞬間にどちらが正解と思えるか?
それ以上でも以下でもないんだから。
もとよりそういう人生ってのは上にも書いたように飽くまでもチャレンジモードみたいなものなんだから
できるもんなら
途中で投げ出したっていい。
それが可能であるならば。
もし仮に正解と不正解があるとするなら、
実際私はそのように答えるだろうから。
試しにやってみればいい。
“やろうとしてみれば”それが本当に可能か不可能かってことが明白になるから。
それは本人にしかわからないかもしれない。
本人だけは体験して理解できるんだよ。
だからそれ以上の証拠なんていらないじゃん?
……それを説明したり証明することが困難???
いや、無理でしょ(ヾノ・∀・`)
そんなのできるわけないじゃん?
だから私みたいなのがそういう世界観でどうしたもんかなぁって自身の役割だとか役回りだとか立ち回りだとかについて延々と考えてるんだからさ(笑)
っていう感じの、
……それで、あれらの話↑はなんなの?
って聞かれても以前までは答えられなかった物も、
私が見てる=生きてる世界観
だってことがわかるし、
実際こういうのがアレらの中身なんだね。
そういう世界観で人生観で生きてきた人間だから
私はこういうアイテムを生成するんだよ。
そういう人生観やフィーリングな背景を持つ私だからこそアレ↑とかを作る理由があるし、それらの意味やリアリティーが実感できるんだよ。
だから私は理解したんだよ。
アレらのようなアイテムを作る人間が非常に少ないのは当然なんだって。だって彼らにはそんな物を自ら生み出し具現化しようとする動機や原動力ってのが無いだろうから。
実際あの見た目には赤紫っぽい剣のやつは、
運命と宿命の呪縛を知って、
だからこそそれらを断ち切り超えていくことを、
その先の可能性を開くことを望んだ
そのための鍵
って意志の証明そのものな作品だから。
だから、
その意志を自分の物として持ち得た人間じゃないとアレは作れないんだよ。その理由が無いから。
どれだけの人間が自らの持ち得た運命と宿命の呪縛に気付くことができるだろうか?
どれだけの人間がそうして気付かされた運命と宿命の呪縛を超えていくことを決意するだろうか?
どれだけの人間が自らに課された運命と宿命の呪縛から解放されてゆくために実際に有効な方法論を見つけ出して習得することができるだろうか?
どれだけの人間がそれらの意志と質を象徴するに相応しいツールを具現化できるだろうか?
そんな感じで、
それらを実現する“役割”を持つ人間は非常に限られているだろうということが理解できた。
だから私みたいな作品を生み出す人間は非常に少ないのは当然のことなんだよ。私が持ってる意志や見てるリアリティーを実感する人間それ自体がごくわずかなんだから。
そして私は自らの資質を勘違いしていたのかもしれないという可能性にも気付いてきてる。
私が運命宿命的な人生の流れな体験によって鍛えられ獲得した一番のセンスや技能は独習能力だったに違いない。
だから私はそれを最も得意とする。
そしてその極めて高度な(?)独習能力を可能とするための方法論やカギの1つが前回までの話。
つまり内なる男女のパートナーシップであり連携しての内なる共同創造みたいなものだった!
ということがわかってきてる。
なぜならそれが独習の原理的な方法論だから
それが可能になっていれば独習は可能になる。
未知であるものを既知とするための、
女性性の力を頼ることで既知を再構成する(?)男性性の力を発動させるための、
極めて原理的な方法論。
それがアレだったわけだよ。
内なる男女が癒やされると同時に鍛えられ神性の質にまで育つことでそれは可能になる……
みたいな感じの話だったということ💡
それらが内なる創造力と具現化の力を機能させるために必要な鍵だった!!
とかそういう感じの話だったんだろなって。
だからそれらも前提になるんだよきっと(笑)
内なる男女が癒やされると同時に鍛えられ神性の質にまで育つこと
ってのがこの先の話、
つまり今の私の言うところの“独習”に必須技能なんだろうな〜って予想されるわけだよ。
男性性は鍛え育て上げていくものだし、
女性性は癒し育むもの。
まぁ最低限それだけわかってればなんとかならなくもないかも?
可能かどうかは別として理屈は理解できる
って意味で。
つまりそんな感じでよく育った男性性と女性性が噛み合わさって始めて人生全体に働きかけることができるようになるし、
それは私の世界観で言うところの、
運命と宿命の呪縛を超えて
至高の可能性を開く
みたいなものだと思うの。
そしてその原理が理解できると、
やっぱり必須技能=知識なんだろなって。
簡単か難しいかで言えばめちゃくちゃ難しいんだと思うけれど、私が望むと同時に引っ張られ続けているリアリティーを実現するためには前提条件の1つに過ぎない。
(この)人生ってのは究極的に簡単か難しいかってのは全く関係ないとも言えるし、
逆にそれだけの違いでしかないとも言える。
……たぶんそゆことだと思うんだよねぇ。
難しかろうが簡単だろうが、
成されるべきことは成される。
神の力みたいな物が働いて、
無理矢理にでも必ず可能になる!!
みたいなもんなんだろ〜なって。
だから難しいことを成し遂げさせるために段階的に経験を積まされていくんだよ。
そういう意味で全く簡単じゃなくてもそれが必要である限りは必然として成される。
私はそういうものなんだなぁって知ってる。
だからこそ自らを霊性の炎として、
更には聖性の光の表れの1つとして、
そんな存在となってゆくことは可能だと、
だいたいそんな感じの意図や波動としてあのピンクバイオレット×赤なあのアイテムは生成されていたということがわかってきたわけです💡
私だって順番に経験や学びを積み重ねてなかったらそんな話や考え方は非現実的だって思うけど、
私がこれまでに体験してきた内外な人生体験を思うのなら、
それくらいのことはできてもおかしくない
って思えるんだね👌✨
いやだって、ねぇ?
全部ウソだったってわけじゃないならそんくらいのことは可能になる時期だろうから。
いやもうホントに。
積み重ねによる練度を思えば当然可能なんだよ。
それくらいのことできないわけないじゃん。
って自分に思わせられるだけの体験の価値ってそういうところだよな〜って思うんだね┐(´∀`)┌
もう傲慢とかじゃなくて、
あれらの話がウソじゃなかったとしたらそれくらいのことは当然できるはずでしょ?
できない???
……そんな見え透いた嘘に騙されるわけないだろ
バカにすんな。
って感じなんだよ(笑)
だってまだまだ道は長いし、
それらの上位概念とかがやがては必須技能として習得されていく可能性を思えば
現時点でそれくらいできるのは当然なんだから、
不自然な謙遜は不愉快である。
あまり他者を侮るべきではない。
って言われる感じなんだよ。
この話はコレで終わり。
絵文字とか違うし文字も入力しにくいし!