神聖性の資質に目覚めてゆく過程で経験することになったトラウマ的記憶を癒せるようになるかもしれない | 運命と宿命による必然の神聖性の獲得と幸福な人生の両立という至高の可能性へ導かれて生きる私の軌跡なブログ~~

運命と宿命による必然の神聖性の獲得と幸福な人生の両立という至高の可能性へ導かれて生きる私の軌跡なブログ~~

14歳頃に霊性に目覚めた私が内なる力とビジョンに引きずられあるべき未来へ逆走してきたディバインマスタリーな記録。スピリチュアリティの実践者×スピリチュアルな探求者としての知識や経験を前提とした玄人向け要素多い公開型自己探求記録かと☆

……そうして今現在の私は、

とても苦々しい物を感じているのだった。








前回の記事はあまり良い物ではなかった

ように思う。なぜなら



というような物を前日に書いた。

タイトルまで付けられたが公開されていない。



こういう感じの。


青紫の資質を獲得し高めるためのプロセスみたいなものだったように思っている。






そして今の私は、


これまで神聖さの資質だとかとして良いものに捉えていたものが実は非常~に苦々しく思っているということに気付いたらしかった。






私は、思う。



神聖さの資質だ何だと言うけれど、

それが一体どれほど私を幸せにしてくれたというのだろうか?


それが一体どれほどのものを私に与えてくれたと言うのだろうか?



きっと私は、

それらによって得られる喜びや幸福よりも課されている制限や戒めのような苦しさ苦々しさの方が圧倒的に大きくなっていることに気付いたのだ。








………………という感じなんだけれど、


たぶんコレもブロック(幸福で豊かで調和的な人生の可能性)を解き放つためのプロセスの1つなのだろうということくらいは一応認識できてる。



いくら私の気分が苦々しいからと言ってそう感じさせるものが邪悪になるわけではない。

(……悪意的じゃないからといって感じてる苦々しさが晴れるわけでもないのだけれど。)






私は自分が“不幸”だと思ったことはあまり無いしそう思うような心当たりも特に無い。



……しかしこの人生は非常に困難的な物であるということは常々思う。



今もそう。

不調和な意識や波動やらを取り除くために浮かび上がったそれらがおそらく絶望のヴェールのように機能しているために今の私は



私はどこにも行けず

何者にもなれない。



というような閉塞感のような“苦々しさ”を感じている状態にある。




↑のような信念(思考)パターンを、

私はかなり頻繁に感じるらしい…………


というか、

基本的に“ブロック”である物を解放するというようなことをすると必ず実感する偽りの信念なのかもしれないと思ってる。






前回の記事…………というより上に紹介されてる未公開の記事の中で、


私は精神的な癒しよりも肉体的な癒しを圧倒的に重視しているらしい




というような感覚?を見かけたんだけど、



その理由の1つとして、

私は“痛み”よりも“恐れ”の方を圧倒的に強く認識していたから心が癒されることより救われることを求めていたのだとわかる。




部分的に機能する癒しでは全く足りないから、

“完全な癒し”でもある“救い”を求めた。



そういう理由で私は“癒し”という捉え方を重要視していないのだとわかるようになった。





それはもはや癒すことは叶わない。

だから“無かった”と知る他あるまい。


癒すことはできなくても、

それを癒すべき原因となった傷や衝撃が最初から無ければ癒しなど元から必要ないのだし、


それは結果的に癒された状態と同じ物だから。






そんな風にして私は完全な癒しでもある救いを当然ように求めた人間だから、

救いまでは必要とせず癒しで事足りると思える人間のことはもしかしたら

(立場的に)決して理解できない


のかもしれないと思うことは実は多々ある。





実際そうなのかはわからないけれど、

私が実感している根源的な苦しさのような物から逃れ解放されるためには癒しではなく“救い”でなければならないと信じていたのは事実。




別の表現なら“解脱”とかそっちに近いような物を私は実際に追い求めていた。



……きっとそのような目的意識の人間は“癒し”という物に重きを置かない。それらは根本的な解決策ではなくただの一時的な対処療法に過ぎないと感じられるから。



だから私は“癒す者”ではなく、

“解放する者”とかそういうものを名乗るのだろうと感じてる。






コレは癒せるような物ではない



と感じられるものがある人間なら、

きっと“救い”がその代わりの選択肢として十分に現実的で理解可能な物になると私は思っている。






……とは言うものの、


たぶん今の私が感じている“苦々しさ”という物をなんとかするためには“癒し”という物が有効打となるのだと感じられるし、


それに対処するには“救い”というものは非常に使い勝手が悪い物だということを感じられる👁️




何て言うんだろう?


(ケーキに立てるような)小さめのローソクに点火するために火炎放射器使うみたいなイメージ。






もはやどうにもならない現実的絶望感


みたいな物に対処するためには“救い”ってのが効くだろうし“癒し”じゃダメなんだろうけど、



心にある閉塞感や苦々しさ

である物に対処するために“救い”が役に立たないとは言わないけれど、


たぶんそれはすごく効率が悪い。

……上に書いたイメージみたいな💥






“救い”ってのは別に心を癒すための物じゃないけれど結果的にそうなるものではある。しかしその本質は偽りの現実像を消し去ることによる解放……







たぶん私は、


“救い”の方が圧倒的超火力な癒しを実現する術だからそっちの方が“癒し”より現実的で(意味的には違うけれど)大は小を兼ねるみたいな考え方でそっちの方が“優れている技法”だと思ってた。



でもそれは最後の手段みたいな物でもあるし、

やろうと思えばできるようなもんでもない。


そういう意味でよほど“非現実的”なことだとは確かに私もそう思う、思うよ?




でも、


そうでもしなければどうにもならない



という切実さがあるからこそ、

いかに非現実的に思えても不可能そうに思えたとしても少しでも可能性があるのならそれを求めずには居られない


という背景だって、ある。




たぶんそれが一番の救いと癒しを求める人間のメンタリティーの違い。



たとえ他の何を犠牲にしてでもそれさえ得られれば他のすべてを“救う”ことができるはず




くらいの想いの強さみたいな物がなければきっとそれを求めることは無いし不可能だと思う。






……たぶん、

この点においてだけでも私は“普通”の人間のメンタリティーからは既に外れてると思う。



……さすがにここまで来てそういう考え方が普通だと主張するのは不必要に認識を歪めることにしかならないと私も気付いてるから┐(´∀`)┌



そういう意味では私は全く普通の人間なメンタリティーや思考回路をしてないのだとわかる。



……そんな必死で切実でそのために生きてるような人間てのが“普通”だとは私には思えない。少なくとも現代の世の中の人々を見る限りは👁️






だから、

まぁ私は自分を無理矢理に普通の枠組みに置こうとすることを止めたんだと思う。いやだってどう考えても普通の方ではないし、



たぶん自分がそうしなくてはならないと信じる理由が無くなったんだと思う。





別にすごくどっちでもいい。

なぜなら私は明らかに普通寄りではない人間なのだから普通の人間なら特に問題ないし、普通寄りじゃない人間だってお仲間みたいなものだから。


だから私は自分や誰かがどっちだったとしても別に困らない。どからどっちでもいいしあんまり興味ない。




そう感じるようになったんだろーよ。




どっちかって言うと、

誰かが実際にどうなのかってことよりも、


それに対して私自身の認識に問題や不快感があるということの方が原因なんだろうし???



だからなんか別にどっちでもいい。

問題はそこじゃないから。






……たぶんそういうことなんだよね。


実際に外側の世界な状況がどうのこうのってことなんかより、それに対して自分がどう感じてるのかってことの方が重大だと気付いたから。


周りの世界が穏やかで普通で平和だろうが自らの心の中が荒廃してりゃ世界は灰色だし過去のトラウマで染まってりゃ恐ろしい物でしかない。



……そう考えていくとさ、

外側の世界の状態とか状況って大部分はどうでもいいようなもんだし、


もし仮にどうでもよくないと思ってもさ、

そもそも自分に手が出せるとは限らないじゃん?





どうにかできる問題や課題なら善後策を論じたりそれを実行するべく動く価値はあるよ?


でもさ、

どうにもできない問題や課題について考えるってのは極めて無駄に近いことだと思うんだよ。だって仮に問題だったとしてもどうにかできるようなもんじゃないんだからさ?



それなら、

いかに手が出せない問題感を無効化したり受け流すかを考えた方がよほど賢明だと言える。



……私は神聖さの資質ゆえにコントロールを手放させられるということを度々経験してきた人間だからわかるけどさ、



基本的に外側の物事になんて手出せないじゃん。



それを気に病めっての?

それを心配しろって???



ご冗談。

有りもしない可能性に対して意味を成さない想像を巡らせて苦悩することにそんなにも価値があるとは私には思えないので拒否です🙅


やりたきゃやればいいよ。

でも私はお断りする。

だってほとんど意味ないじゃん。

それは限りなく時間の無駄に近い。


私はそう認識してる。



私じゃない者は本人が思うように好きにやればいいんだし、同じように私である者である私も好きにやればいいんだよ、


そもそもやろうと思っても好きにできるとは限らないんだから(笑)






私はそれを知ってる。

それを既に理解させられている。

だからそれに対して抵抗することはあっても

それを疑うということは不可能に近い。





気に入らなかったり嫌なら抵抗はする、

そうせざるを得ない気分になるから。


でもそれが通用するとも思ってない。

ただそれは気分の問題に近い。



良いとか悪いとかじゃなくて、

理解はできても納得できないから簡単には認めず受け入れずに可能な限り抵抗するような🙅





外側の物事とか状況よりもさ、

自分の認識や感じ方をどうにかする方がよっぽど重要で現実的な選択肢に思えてきたんだね。




いやだってどうにもならんし。



……経験則として、他者も関与する外側の物事に干渉するのって内面で変化を起こすことの何十倍も成立しにくいように感じるんだよ。



→外側の物事なんてどうにもならん、

だから私は内側の統制に集中するぜ!!


→→と思ったけど自分の内側さえどうにかできるようなもんでもないらしい。

こいつぁもうお手上げだぜ\(^o^)/





だから私は思うんだよ、


仮に100の願望や想いがあったとしたら、

だいたいそのほとんどは速やかに手放し諦めるべきものなのだろうなと。


割合的にはたぶん、

100のうちの5~3つくらいじゃないかな?


その他の97~95の想いってのは速やかに手放すべきもので、残りの何個かだけは絶対に諦めず手放すことのできないものなんだと思うんだよ。




人生諦めが肝心 とかよく言うじゃん?


私の体感としては100あるうちの3つ以外のすべてはそうやって諦めるべきものなんじゃないかなって思えるんだよ。



たまに思い出すことだけどさ、



そもそも実際には手放せるようなものなんて1つも無くて、より正確には持ってもいないのに必要だと信じてる想いを手放せって話らしいんだよアレらの手放しの教えは。




だから、

実際には何一つ手放さないし諦めない


とかいう話が成立することになる。



私がやってることも同じ。

こうやって自分の中の闇を見つめて苦しみを握りしめてるわけじゃなくって、実際にはそんな物は一時的な錯覚に近いストーリー上の設定みたいな物だと知るための取り組みというのが正解。




有りもしない苦悩から逃れるために、

有りもしない苦悩を受け入れる、

みたいなことをする!!



って感じなんだね。




実際このプロセス自体はどこにも行き着かない取り組みに近いんだけれど、



その精神の無限回廊を終わらせることができるという意味で価値ある取り組みだと言える👌✨




そう……だからコレ自体はあんまり評価できるようなもんじゃないし基本的に楽しいと感じられるような物じゃない。


でも確かに意味も価値もある。

少なくとも得られるものはあるし重要な取り組みだと言える。




そもそもコレも否定性の浄化なんだろうし。

それ自体はあんまり何かを生み出すような物じゃなくてむしろ逆に不要だったり不自然さを消し去る方向性のものだから。





実際今の私は、

なんだっけ?” の件に関してブロック解放が進められている最中でここに記されてるものもそれらと一致した不調和で不自然な意識や思考が解放されてゆくプロセスの表れだろうから。





だから、あんまり楽しくは無いんだけど、

楽しさを感じられるようになるためにはそれを阻害してる抵抗感や不調和な信念を取り除くというプロセスを先に済ませる必要があるわけで。





たぶん私はもっと調和的で幸福で豊かな人生ってのを実現したりそれをマインドなレベルで実感したりしたいと望んでる。

そして今は、それらを正しく望んだ結果として実現可能となってゆくための妨げとなる信念だとか意識を取り除くという段階にある。



コレら自身の取り組みの全体像やブロック解放の流れを正しく理解しているのなら、それ自体は書いててもあんまり楽しくない→読んでてもあんまり楽しくないであろう記事だって私の有能さをアピールする機会になるのかもしれない(笑)



私は他者に自らの有能さを積極的にアピールしたいと思っているわけじゃないだろうけど割合的には無能さに思える側面の方が多く示されているように感じてるからソレを何とかしたいと思っているのは間違いないんだよ。

今の状態はバランスが悪いと思ってるんだね。


そもそも私は本来的(無意識の思考パターン)としては先手を打っておきたいタイプだし同じような理由で基本的に自分の不利にならないように立ち回りたいと考えるような人間なんだけど。



……マインドじゃなくてスピリット的な本質の方の性質としてはそんな打算は全くおかまいなしで😂




優位に立ちたいとは別に思わないけど、

……しかし不当な要求を呑まねばならないような弱い立場にはなりたくないわけだよ普通に!!



だってそれバランス悪いでしょう?



基本的にバランスが悪いのは嫌なんだよ。

そういうのって何か気に入らないじゃん?




……そういう考え方をする人間なのに、

コントロール不可能な人生によって部分的には弱い立ち位置になることばかり。



やってらんねぇよなもう┐(´∀`)┌



神聖さによる制約だって?

……それで一体何が得られるってんだい?




私は過剰な現世御利益を望む気は無いし特に神頼みもしないけれど、


でもだからって現世御利益的にマイナスばかりが多くなるような人生は許せねぇ!!



プラスに片寄りたいとは思わないけど、

マイナスに片寄るのは許せねぇ!!



それのどこが普通だよ、

全然普通じゃねぇじゃねぇか!!

コレで普通とかふざけるな!!!!

そんな雑な嘘に騙されるわけがない。





……って感じで、

たぶん私はこの件に関してキレたのでしょう。


私はキレたので、

そのような私の感覚が正しいのか間違っているのかを証明することにしたのでしょう。




私の認識が間違ってるのか、

この世界の方が間違っているのか、

その両方を否定性の浄化の炎に放り込んでやれば明らかになること。



そしてたぶん私はどちらでも構わない(笑)


ただそれらを正しくないと感じるものを無視できないということなんだよ。


私が正しくなくても構わない。

ただ真に正しい物が明らかになってない状態で私が正しくないと断じられることは絶対に許せないと感じるんだね。





この世界には正解なんてない



とかそんなことを訳知り顔で口にするような輩が多いように私は感じてるけど、


そんなのは嘘である。



およそ聖なる計画における“正解”と呼べる物は明確に存在すると言える。

ただその正解を受け入れたくないと否定したがる人間の方が圧倒的に多いから自分を納得させるために使われてる世迷い言に過ぎないのだと私は断言したいのだろう……なぜなら私自身完全にそれを確信しきっているというわけではないから。







結局私は、



今の所は神聖性の加護だとかで与えられ得られるものよりも制約として課され妨げられてきた苦々しさの記憶の方が圧倒的に勝っている



という状態なのだと感じている。



そしてコレが恐らく、

神聖性の資質に目覚めてゆく過程で経験することになった受難的なアレコレな

トラウマ的記憶



が癒されてゆくプロセスなのだと感じられる。



その象徴となるものがコレ。




知ってる?

オーラソーマではオレンジは自立と依存というテーマに加えて過去のトラウマの癒しも象徴するんだとか。



他にもオリーヴグリーンには苦々しさを癒すというような意味もあるそうで。



……


私が好んでるコレら薄黄緑色のやつってさ、



グラウンディングバージョンにさせるとこういうことらしいじゃん?




ペールカラーとヒューカラー(?)でこんなにも感じられる物や象徴する質が違うというのか。






……そう、今の私もまだ、


この世界に生きる一人の人間として幸せに豊かに過ごす自分というものが上手く想像できない。



前みたいに“全く”想像できない!

なんてことは無いけれど、



神聖さの資質による絶大な制限に縛られた私がそれでもそんな生き方ができる可能性なんて本当にあるのだろうか……………………



きっと私は神聖さの祝福であろう物を“毒”のように感じているのだと思える……だって今の私には上の7番のボトルは毒のように見えているのだから。



……書いてること読んだらわかるように“受難”ぽいもんね。




生へのプロセスを信頼する知恵 ねぇ。




そうやって“復活”を果たすための聖なる鍵となる物が31番のボトルに象徴されているんだろう。



……そうだよなぁ、

生へのプロセスを信頼する知恵とか、


よく考えたら非常にピンポイントなほぼ答えと呼べるようなものなんだろうし。




……内側で見えない認識できない闇になってた物に気付いた瞬間のこの感覚はすごく嫌だなって、

一瞬、そんなことを思うわけだよ。






もしかしたら私は気付けなかったのかもしれないけれど神聖さの資質や聖性に目覚めてゆくために辿ったプロセスとしての非常に厳しい出来事や呪わずにはおれんような体験の記憶がPTSDみたいなトラウマになっていたのだろう。。。



そうして自分の中で闇になってた部分に気付くことも認めることも非常~に苦くて苦しい物ではあるけれど、



認識さえできてしまえばこっちの物である。


私の持つあらゆる否定性の浄化の力や意思が働いてそれらが消え去るのは時間の問題だろうから⏳️






正体がわからないから恐ろしいのであって、

恐れているものに気付いたら後はそんなに恐ろしくはないのである。



対象それ自体が恐ろしいのではなくて恐れを無意識ながらに感じている心が恐ろしいのだから。

私はそれを知っているからこそこうして恐れに直面し越えていくことができるのだから。