だからそういう私であればこそ有り得る透明にして聖なる現実感みたいなのもそのうち出てくるんだろうな | ついにノンデュアリティの恩恵や救いを得た私のストーリーの続き~魂の休息期間中

ついにノンデュアリティの恩恵や救いを得た私のストーリーの続き~魂の休息期間中

14歳頃に霊性に目覚めた私がマスターの魂と内なるビジョンに引きずられあるべき未来へ逆走してゆく聖なるストーリーを開くための記録だったものの続き。今ではすっかり玄人向けでノンデュアリティスピリチュアリティ要素や前提知識超多め注意★

前回の記事を書いた時からそれなりに時間が流れて色々と少しずつだけどわかってきてることがあるような気がしてる。





まず一番最初にここに記されるべきことがあるとしたら、



私は確かに救われた。




ということが一番重要なんだと感じる。

なぜならその部分が変化したことによって私の存在理由や意識や自己認識という物が非常に大きく変質変容したから。



だから私の意識や存在の仕方みたいな物も当然のように変化するし、


私の感覚や認識も変化した。





そんなことがわかるようになってきてる。





実際に私は“救い”と呼んだそれを求め続けてそうして長らく生きてきたから、


それを必要としない自分というものが一体どんなものだったのかがほとんど完全に思い出せなくなっている状態だったのだろう。






……そこからまた少し時間が流れての現在、

それが今のタイミングということになる。






私は(先月末くらいから)時間が経って色々とわかってきたと書いたけれどそれらは恐らく例外なく非常に内面的な感覚のソレばかりなのだとわかる。


なぜかと言えば、

そもそも私とはきっとずっとそんな性質の強い人間だったのだろうしそのような理由からこのブログは続けられてきただろうから。





私にはわからないことがたくさんある。


自分が感じ取っている何かしらの感覚……予感だとか直感だとか判別不可能な何かしらの感覚としか呼べないような物はまだまだたくさんある。




そして私は、


ただなんとなく存在している。



というような気分で居る。

理由は上記の通り。



救われたから。




私は特別な理由や意図を持たずに存在していて良いとわかるのだし、


そもそも私が何かをしようとしなくても勝手に物事は進むし、ボディマインドスピリットの要素で構成される私という存在感もその法則性のような物に乗っていたり則っているということがわかるから。




たぶん今の私はあまり自分をこの世界の人間だとかそういう風には見てなくて何かしらのストーリーを体験してる者として自分を認識しているのだとわかる。


そしてたぶんそれ自体はもう8年くらい前の時点からそうだったんだろうけど、



苦しみや強迫観念


のような物によって私は強烈に人間としての自己像や意識に縛り付けられていたんだろうと感じてる。



なぜなら今の私はそういう強制力みたいな物を基本的に感じていないので、


確かにただなんとなく存在している


と表現するのが適切だと感じるから。





果たさなければならない“必要”であるカルマとかそういった物も感じてないし、


今の私がそうであるようにあらゆる物事というのは極めて現象的だとわかるので基本的に人間像としての世界観を見てないからなんだろうなって思ってる。




だからそう、


ただなんとなく存在していると表現するくらいがちょうどいいと感じる。




だから今の私には特定の目的や願いとかそういった物も特に無いのかもしれない。



なんかそういう感じじゃないんだよ。





よくよく思い返してみればあるがままの私という人間像や存在感てのは、そんな風にただなんとなく存在してるような感じでも良かった気もするし、


感覚的な部分としてはいくらでも取り組むことがある状態だから波動とか思考のレベルで起こる認識以上には別に全く暇というわけでもない。





そういえば私という人間はもともとそういう存在感だったんだっけか。




みたいなことを実感してきてる最中なんだろうなって思ってる😃




だって今までみたいに内なる闇の感覚が何十倍にも倍化されてるような感覚とか無いから日常レベルのいざこざとかそんなに気にならないし、


そういう以前まで生きてた世界観や感覚に比べれば天国に近いというのも嘘じゃない気もしてるから(笑)




そしてそんな感覚の変化によって私の自己認識や意識は非常に大きく変化した。




………………


そう、

例えばマギレコ=マギアレコード。


先月末にサービス終了が告知され、

とても残念なような気がしていたけれど、



しかしそこから時間が経つにつれて私は全く別の感覚があることに気付き始めた。




それを言葉で表現するならだいたい、




……そもそも本来的には私がマギレコのような質感や題材の話を好むというのは有り得ないと言っても過言ではないのかもしれない。




というようなものだったのです。



私の人生上においては)

救いや赦しの教本のように大活躍してくれていたマギレコのストーリーや世界観も、




絶望感ゆえの救いを必要としていない私にとっては何の意味も成さないものだったのかもしれないなと、

そんなことに気付いたのですね!!(゜Δ ゜)




そして“スピリチュアル”も同じような物なのだと感じています。


結論から先に記しておくと、

今の私はほぼ完全にスピリチュアルや精神世界というリアリティーを外側から眺めているような状態にあると感じてます。





……何でかって?


そりゃ簡単なこと。

以前まで“スピリチュアル”に求めていた何かしらを今の私はもう求めていないからです🙆




原理的に理解するとたぶん私はもうそれを持っているのでしょうね?



絶望を持たない者にとっては救いが必要ではなかったり意味を成さないように今の私にはスピリチュアルはあまり意味を成さないということなのでしょう。





上にも書いたように、

今の私はボディマインドスピリットで構成されている自分像=人間としての必然以上に特に何かが欲しいとか不満だとかそういった物を感じてはいないのです。





なぜなのかと問われたら今の私はまだ完全に理解してはいないのですが、


強迫観念が無くなったから。



という言葉で説明することは可能です🙆




生きるために生きなくてはならない

自分が自分として存在しなければならない




なんかそういった感覚が特に無い……のかどうかは知らないけど非常~に薄く弱いものになったのは確かなのですね😃




だからただ存在していていいと感じられるのでしょう。



そしてそれが私にとっての悲願であり、

実際に私はその権利を得るために極めて若い頃から内なる闘いに明け暮れてきた人生の人間だったと言えるのでしょうよ┐(´∀`)┌




だからそんな私にとっては今の自分だとか感覚だとか世界の質みたいなのは余生とか死後の方の天国みたいな物に近いのかもしれないなって感じてたりするのですね。





存在するだけで味わう苦しみの実感

存在苦と呼んだソレから抜け出すことができたのですから、


実際それはもう魂の解放みたいなものなんじゃないかと(笑)





それに今の私はたぶん、

あるがままの自分となった私という人間像や存在感


みたいな物を既に理解しているし、

それを可能とするための最低限にして必須となるあらゆる技能や知識を得ているので、



そういう意味では、

特に新たに努力する必要はないのだと感じています。



変な表現に思えるかもだけど、

そんな感じなんだよ。


自分が自分であるための必然の行動や選択としての努力はするけど、それ以上の苦労だとか苦痛は全く必要ないって感じ🙆



そしてその必然というのが、


ボディマインドスピリットの複合的要素として構成されている自己像やリアリティーってやつなんだよ。




実際それがわかったら既に半分は悟ってると言っても嘘じゃないと思う。それ以上の部分は時期段階的な進歩に関してだから時間が支配してるもんだから手出しできないし。




だから今の私はそんな感じなんだね。




そう、だから思ったんだよ。

私はどちらかと言えば“聖者”とか“覚者”という表現よりも“到達者”を自称してやっていった方がすごくやりやすいんだなって👌✨





元々私はスピリチュアルとか精神世界というよりも、


そうじゃない運命とか宿命とかの分岐的な可能性とか必然性とか蓋然性(?)という物について圧倒的に興味があったことを思い出したりしてきてる。





それは例えるなら、


業務趣味くらい違うわけで。





それに私は気付いてる。


私がスピリチュアル精神世界的な意識や領域で本気で活動することは有り得ないのだと。




なぜかって?


私の生まれが男性だからだよ。



説明はこれで十分。

今の私は必然もなく精神世界を展開することも掘り進めることもやらないです🙅





だから私は絶望の道の果てに得た救いによって開かれた神聖で祝福されているかもしれないような場所で自称到達者に相応しくただ存在するだけで十全なのだと示すことができてればそれでいいんだろうなって感じてる。



いやだって私は元々そういう質の人間だったんだろうし?


以前までの私は特殊効果によって本来的には有り得ない自分や世界観を体験していたに過ぎないんだから。




そうなんだよ。

実は私は良くも悪くも透明な人間だったりすることを思い出したんだよ😃✨



そんな私が普通であるわけはないってのは確かなんだろうけど、でも超自然ではあるんだろうよ。


だから私という存在感に違和感や不自然さを受けることは不可能に近い。赦しってそういうやつ。



なぜなら私は必然によってこのように存在しているだけだから。そこに良いも悪いも私の個人的な意思も有るわけないんだから判断も不可能なんだから☆




そんな私が普通の人間(?)がそうするような世界観や認識を使えるわけがない。


そんなことあるわけないんだよ(笑)






だから今の私はただなんとなく存在しているような気分なんだよ。


もちろん人間像的には楽しいこととか楽しくないこととか不快さとかは普通にあるよ?



でもそれは私が生きてきた内なる闇の感覚に塗り潰されていて神聖さと邪悪さが極限化されたソレに伴う非常な苦痛に比べたらすごく小さいから別にあってもなくてもどっちでもいいとすごくそう思うの(笑)



だから私個人がどうにかしなきゃいけないことってのももう無いんだろうし、特に何かをどうこうしたいともマインド以上には何も思ってない。





そう、

これはまさに人間としての自分から解放された時に訪れる(?)あの世とこの世の狭間みたいな感覚に近いんじゃないかなって思ったりしてるんだよ~。






だから普通の人間(?)とは確かに全く違う感覚とかで存在してるんだろうなって。



でもそっちが本来なんだろうなって。





だからそういう私であればこそ有り得る透明にして聖なる現実感みたいなのもそのうち出てくるんだろうな~って、



今の私はそんな感じなんだよ😃






ちなみに次の流れとして先月の時点から既に予告されている区切り?みたいなのはたぶん夏至らへん。


だからって何がどうなるのか知らないし、

私はただ自分として存在してるだけなんだろうしなぁ?(゜Δ ゜)