前回の記事の続きかもしれない話
前回の↓
物事……出来事として現れてくる物事特に誰か人間の行動や振る舞いってのはストーリー的な解釈が成り立つような一貫性や連続性という物があって……
だからきっと私は今回の話と前回の記事の話を複数に分けている形になってるんだと思うんだよ。
それもノンデュアリティの自由意思レスな視点から見れば当然のようにわかる、
ある意味で=正しい意味で?
あるがままに物事を見られるってそういうことなのかもしれないなって思うんだ。
そしてそれは純粋に技能として可能になるというような意味での話。
二元性の……分離の幻想が見えてる状態であるがままに物事を見れるわけがない。
だって基本的に分厚い幻想が何重にも被さってる状態なんだからそれだけでもあるがままに見れるわけないんだよ😁
それは原理的に不可能という意味。
だから誰だって分離の幻想の中にありながら正しく完全に見ることはできない。
たとえ賢者とて逃しはせぬ
というやつだね★
……っていう感じで始まったこの記事の話、
この時点で前回の記事とは質とか雰囲気が大きく違うなぁって書き手である私はそう思っているのです😃
(心の声)
で、
前回の記事が書かれて思ったんだよ私は。
きっと私は、
霊的な学びのための人生
みたいな物?現実感に生き続けてきた状態にあったから、
そうじゃない人生とか自分ってのがよくわからない
んだろうなって?😃
物語の中ではよくあることでしょう?
ただ使命感に縛られ突き動かされ生き続けてきた者にとってはそれが無くなった状態の自分というものがなんのためにあるのかわからない
というような話ってのは。
私もそういうのはよく見るけど、
そういうもんなのかねぇ?
人間であるワシにはわからんけど。
(無意識の思考状態では一人称が“ワシ”になってること多いです、謎。)
とか普通に思ってたりしたんだけど、
まさか自分もそうだったなんて。
考えることも無かった(゜Δ ゜)
……へぇ?
生まれた時点で使命感に縛られ生き続けることになる存在てのは大変なんだなぁ。
まぁ私は人間だから関係ないけど?
……くらいに思ってたわけで😪
………………うん、でもまぁ、
そんな感じなんだろうね(笑)
実際に私は霊的な学びを得て〈マスター〉となることとかを夢見たり使命感として突き動かされて生きてきた人間だったわけで。
だから確かにわからないんだよ。
霊的な学びと自己成長
という概念を取り除いてしまったら、
果たして私には一体何が残るのだろうか?
そう思うくらいには普通にわからない😃
……いやだって私にとってはそれがすべてというか存在意義というか存在証明というか存在理由というかそんな感じだったわけで。
存在意義とか存在証明とか存在理由みたいな物が無くなったとしたらたとえそれが重荷で苦しくてずっと自分を制限し続けていた呪縛でしかなかったとしても、
そのために生き続けてきた私にとってはそれこそがアイデンティティであり生きる道だったわけで。
……それが無くなってしまった私というのは
一体なんのためにこの世界に存在しているのだろうか?
みたいなことを普通に疑問に感じるらしいんだよやっぱり。
たぶんそれは“仕事”に生き続けた人間がそれをある日失ったりした時に感じるような物と変わらないのかもしれないし、
“家族”のために生き続けた人間がその呪縛から解放された時にも同じように感じるものなんだろうなって思う。
そういう意味では人間が人間である限りは必ず役割や宿命から逃れられないとも言えるんだろうし、
ノンデュアリティの恩恵を得たことで形としての現実な自分の役割や生き方は変わらなかったとしても自分の意識に対する呪縛みたいな物から解放された時にもきっと同じことを思うんだろうなって。
これは別に自分がこの世界に存在するための理由や根拠が欲しいということじゃない。
ノンデュアリティの理解があれば別にそんなもの無くたって肉体を持って存在してる限りは自分も常に全体の一部として機能したり活用されることは避けられないということがわかるからそこは全く疑問に感じないしどうでもいいとさえ言える。
ただ、
それでも普通に疑問に感じるんだよ。
じゃあ私とは一体なんのためにこの世界に存在しているのだろうか?
って感じのことを。
それが個としての人間としての自我意識で自分の存在感の認識なんだろうし、
別にノンデュアリティを一定レベルで理解したからって思考がゼロになったり行動がゼロになったりするわけじゃない(笑)
肉体を持っている限り……形ある自分という物を認識してる限りはその自分は必ず宇宙とか全体とかに動かされることになる。
ノンデュアリティの恩恵を得るってのはそれが明確にわかるってくらいの違いだから。
だから別にそんなに絶大に苦しむ理由も無くなるし、苦しむ理由や原理も理解できてるから自ら積極的にそれを終わらせ抜け出すための行動を選ぶ……という現実も比較的起こりやすくなるし簡単になる。
現実は起こるものだから。
あらゆる現象や動きってのは、
ただ起こってる物だから。
だからそれに対してジタバタしなくなるとも言えるし、
ただそのように起こってるんだな。
という見方、
つまりあるがままに見るということが可能になる。
意味が有るか無いかで言えば、
もちろん有るとも無いとも答えられる(笑)
ノンデュアリティな超現実みたいな物に従うのなら意味なんて無いただの映像みたいなもんだし、
そうじゃない個別の体験やストーリーを求めるのなら有ると言えるし、その解釈は波動的な違いで千差万別くらいに異なった見方をすることができるとも言えるんだろうし。
ノンデュアリティで自由意思レスで免赦が前提になった意識としてはだいたいそんな見え方や理解になるんだと思う。
“だと思う”って書いたのは、
私は直接的にノンデュアリティの恩恵を得て生きる人間と言葉を交わしたり確認し合ったりしたことがまだ無いから🙅
それは普遍的な物だから間違ってるとは全く思わないんだけど、
私の性分としては一応未確認な話の真偽みたいたのは気になるらしいからさ?
だから私ってのはそういう性分でそういう振る舞いをする人間らしいということがあるがままの自分として理解されるんだね💡
……内心としては私って細かい所気にするよなぁ~って思ってたりするから(笑)
特にかつての私みたいな分離の悪夢に取り憑かれてる人間てのは事あるごとに無条件に悪意的な解釈をすることになるから、
そういう理由で内面と行動が一致してなかったり分裂的だったり多重人格的な側面がかなり強くなったりして大変なんだね┐(´∀`)┌
あるがままに見る
ってのが可能になったらそれからも解放されることになる。
それは意味や解釈を1つも挟まないで、
実際に◯◯という行動をしている、
そのような現実が起こっている
というだけの見方だから。
別に私がいつでもそういう見方ができてるっていうわけじゃないんだけど、
赦しの成果というものなのか、
別になんでもいい。
くらいの気持ちなのは確かだとわかる。
善意だったとしても悪意だったとしても、
たとえ目の前の誰かが自らが悪意によって動いているのだと語り示してきたとしても、
ただそういう現実が起こっているだけで、
その目の前の誰かの個別の意思があるわけじゃないって知ってるから、
自称悪意の塊
みたいな表現をする人間があったとしてもそれはただそういう役回りに過ぎないということが半分くらい覚えてられるから、
あんまり真に受けないというか😃
半分は必ず見せかけとわかる状態
というか。
赦しってのはそういうことだったんだろうなってのが実感するからわかるようになる。
……それを今の私の感覚やセンスに沿って表現された場合には、
いやまぁ正確にはそれが赦しって呼ばれる物なのかどうかは知らないけど少なくともそれと同じものだってのは間違いない。
……とか思ってます(笑)
……だってわからんじゃん?(*ノ・∀・`)
私が定めた以外の概念
なんてのを私がわかるわけないんだよ。
言いたいことはわかる。
意味は理解できる。
それは十分に正解と呼べるかもしれない。
……しかし本当にそういう意味や意図だったのかどうかは本人にしかわからない。
そりゃそうだろう?
私は本人じゃないんだから。
私はすごくそう思ってるらしい。
だから私は自分のための概念や言葉を構築するというようなことをしてるらしい。
……世の中の多くの人間は気にならないのかもしれないけどさ、
最も自分に馴染んで使いこなすことができる物は自らが定めたものだけだと思うんだよ。
それはいわゆる私なりの人生哲学ってやつなのかもしれない。モットーとかポリシーとかそんな感じのニュアンスのやつ😃
私はそういう本質を持つ人間だから、
付随的(?)に、
自らのために何かを形にする
というようなことをしてると言える。
なぜならそれが私の本質だから。
本当にそれを知るためには自らが創出者となることが必要
という感覚がそれに当たる。
だから私は霊的な〈マスター〉という物を求めた際にも、その器としての自分を鍛え上げることで自分がそれに成るということを当然のように考え目指したらしい。
何かを真に体験するというのは、
その当人になるということで可能になる。
そういう意味で誰かの後を付いていくということは究極的にはあまり意味がないのだし同じ理由で自らが自らにとって唯一の可能性の開拓者であり唯一の理解者というのは間違いないと言える。
そういう意味で自分が得られるのは実際に自分が体験を通して得られるすべてだけで他者の持つ可能性やその人生の真価を得るということは不可能だと知ることにもなる。
だから私は自分に全賭けしている人間だとも言えるんだろうし、
それ以外の選択肢なんて存在しないということも知っているんだろう。
私が霊的な〈マスター〉となることができるのはこの自分を生きて育てて完全に使いこなすことができるようになるという方法でだけ可能になる。
私は私であって私でしかないのだから。
そういう意味では、
もし異なる人間を自分として生まれていたとしてもその人間を自分として極めることを望むのが当然になるし、
やっぱりそういう意味では別にどれが自分だったとしても構わない気もするしそもそも実際には自分をどれか選べるというようなものでもないわけで😆💥
そういう意味で、
自分には自分しかいないのだと認めることは当然で必要なことだと私は思うんだよ。
自己救済思想とでも言うのかな?(笑)
たぶんそういうことは私以外の人間でも自らを極めマスターするという意図を持つ人間であれば必ず実感してることだろうから❇️
私はそういう本質を持つ人間らしいので、
そういう意味で本質的には他者という物にあまりリアリティーを感じていないのかもしれないと感じたりもする。
だってその誰かの人生と自分はその人だけのもので誰しもがそうなんだから。
実際どの人間だって自己救済のために選べる限りの最善を尽くして生きているということは間違いないってわかるしその理解を慈悲と呼ぶのなら、本質的には人間でエゴで個としての意識を持つ私たちには大した違いなんてないこともわかるようになる。
良くも悪くも分離意識な自己=エゴってのには大した違いなんてないんだと感じる。
だからどの人間だって本質的には必ず同じことに苦悩することは避けられないし、それに対して同じような方法論で自己救済を試みるということもする。
そしてそれはある意味で必ず失敗に終わる果てのない悪夢そのものだと言っても間違いじゃないとわかるし。
その感覚や実感をワンネスって呼ぶならそういうことなんだろうし、
誰しもが同じ原理で動かされていて同じ理由で苦悩するとわかるのなら、
確かにそれは自分の兄弟たちだと言われたとしても十分に納得できる。
……どちらかと言えばそれは
同じ穴の狢(むじな)
であると知るという感じで、
見た目は違っても中身は同じか。
というような感覚だと言える。
そしてそうやって自分=あらゆる人間の構図や理解が一度成立してしまったとしたら、
その自分=あらゆる人間が幸せなものか不幸せなものかを自分が心の中で決められるということも十分に理解可能になる。
……そうだなぁ、今の私であれば、、、
別に死ぬほど苦しんでないし
良いことも良くないことも普通にある感じ
くらいに認識してるんだとわかる💡
……それは何て言うか、そう、
別に死ぬほど苦しんでるわけじゃないんだからそれでいいんじゃないの?
くらいの温度感なんだと思う😁
……だって悪夢上がりの私としては実際にそう思うし★
良くも悪くもない、フツー
今の私はそんな状態にあるんだろう。
だから今の私の世界もそんな感じになっているんだろうなって感じてる。
別に幸せってわけじゃないしだからって不幸せってわけでもない。フツー。
🌠
そうして私は“フツー”にまで戻ってくることができたのであった~~~
というのが、
私はようやく人並みにまともに物事を考えられるようになってきた。
という言葉の意味なのです。
悪夢上がりの私としてはまだその状態がどういう物なのかがよくわからないのでしょう😪
で、その新しい自分が馴染むのが今月末くらいだと既に予想されているのです。
だからコレはその間のストーリーの現れ……
原因な未来に向かっていく過去の再現みたいなものなのです😃✨
たぶん私の状態的には既にソッチなんだろうけどこの世界には時間があるわけで。だからコレは過去の未来の残像くらいに思っておくとあらゆるズレが見過ごせて楽なのですね❇️
それが今の私は答えを求めているわけじゃないという理由なのです。
だってそれは既に現れてるんだから。
他に必要なのは時間の中で未来が現在になるのを待つことくらいなわけで。
そして“待つ”と言っても必然の過去をなぞるようなことをするから一般的に使われる待つという言葉とは全く違うわけで★
だから自分のための語録みたいな概念群てのが必要になるんだよ。
だって今の世界においてはそれとは違う意味を与えられて使われてる言葉と同じものを全く違う意図で使うんだから。
そりゃそういう自分のために最適化された完全な世界を具現化するために微調整や仕込みを繰り返すことは必然になる。
私は実際にそういう内なるマスタービルダーみたいな動きばっかりしてるから一定レベルでわかりにくいのはもはや仕様👍️✨
そして私の動きや言葉の意味が普通にわかる人間てのは同業者ってことになる。
……実際、私のブログが難解っぽくなってるのは用語が多用されてるからだと思う。
それは現代のスピリチュアル観や使われ方とは全く違うんだろうけど普遍的な物でもあるはずだからわかる者はわかるはずなんだよ。
それが今回の記事で私が語ってたやつ。
言いたいことはわかる。
意味は理解できる。
それは十分に正解と呼べるかもしれない。
……そういう意味では私の使ってる言葉は十分に共通語みたいな物だと思うんだよ。
ただし〈マスター〉にとってのだけど☆
私は実際に相手や目的に応じてかなり言葉を選ぶ人間だから、言葉を選んで翻訳しないほどに用語だらけになる(笑)
まぁそれもノンデュアリティ次第(?)ということなんだけどね(*ノ・∀・`)
免赦ってほんと便利だよね。
自分や誰かが無茶苦茶なことしててもそこに個人の意思は無いとわかる上にその時々の自分にとって最も必要で相応しい解釈=ストーリーが成り立つんだから。
そんなの新手のマジックだと思うの。
不必要な苦しみを抜きにして分離の幻想である唯一無二の自分を楽しむことができるのはそのやり方だけ。
だから本当にそれを知っててそれを必要とする人間は必ずその分離の悪夢を下から上まで昇りきって抜け出すくらいのことはすると思うんだよね~。
だってそれが前提条件なんだもん。
難しくても難しくなくてもそれ以外のやり方なんて無いと知る者は必ずそれに挑んで超越していく道を通るもんだよ。
実際に私という人間があるがままの自分であるためにはこれらの理解の上に可能となる表現も前提条件なわけで。
あ~、
“マスターの道”って本当にそういうものだったのかもしれないよね。
だからこそ人生の転換期以降にマスターとして生きることになったらしい私がそういう体験や学びを繰り返してきたと理解するとすべてが納得できるわけだし。
それはそういうものなんだよ。
ってのもあるがままを見るということで、
そのためには不必要な判断に飛び付かせるような一切の記憶や感覚は不在なんだよ。
あ~、
それなら本当に私はマスターの道を進み続けたってことだったのかもなぁって思うよ。
やっぱり疑問的なのは私はこれまでに同じようにマスターとしての普遍的な学びを越えた人間とお知り合いになったことは無いからだね😃
……であるならばだよ???
もし本当にそうならこの先にはそういう人間ともお知り合いになれる機会もあると考えるのが当然だと思うんだよ。
別にそうならなきゃいけない~って執着や恐れは無いけどそうなったら楽しいし素晴らしいだろうからね!!
私の得てきたあらゆる悪夢を代償にあらゆる神聖性を体験できる~くらいに思っておけば過去の挑戦も素晴らしい思い出になるというものだからね★
たぶん私はそれでいいような人間なんだろうなって思う。
今までは力不足だったけどノンデュアリティの恩恵である聖属性みたいな物があれば十分に手が届くものだろうから。
私はまだまだ実感が湧いてないしそれを証明するような現実も起こったり流れてきてはいないけどそれも時間の問題なんだろうな~って思ってる。
それが今の記録。