赦し悟りノンデュアリティにまで達することができた私は、ひどい悪夢と神聖さに彩られた極性の世界観に迷い込むよりも前に感じていたような“普通”の感覚を取り戻しつつあるように思う。
そうして私が思い出したのは、
決して最初から私が極限の極性の悪夢に囚われていたわけではないということ。
少なくとも2015年より前にはスピリチュアル界隈の人間でありながらも人並みと呼べる人生があったのだし、
それより以前……特に2010年まではスピリチュアル界隈の人間というわけでもなく自分探しのための手段の1つとしてそれを活用していた程度だったように思う。
事実として私は迷い込んだ極限の二元性の世界を抜け出すに至ったのだろう。
分離の悪夢の世界観をひたすらに進み続けてその出口を見つけ出して“普通”の人間として生きられるような精神状態を再び取り戻すことができたように思う。
その証拠に、
今の私はこれまでは当然のように感じられていた漠然とした恐れや苦痛や焦燥感ではなくて退屈さのような物を感じている。
そうして私は理解したのだろう。
圧倒的に多くの“普通”の人間は恐怖や激しい苦しみというような感覚よりも退屈さについて思い悩むことの方が多いのだろう。
そしてその感覚や理解こそが、
私が必要以上にスピリチュアルや精神世界的な現実感を使用しない意思のようなものを生み出しているのだとわかる。
そう、
私だって耐えられないほどの苦しみや絶望感が無ければ悟りや赦しなんて物を求めることは有り得なかったということが“普通”を思い出した状態では当然のようにわかる。
さて、
じゃあ存在するだけで無条件の苦しみを味わわなくてよくなった私はどうするだろうか?
念願であり悲願となっていた目的を果たした私は、取り戻されたはずの自分としてどのように生き直すことを望むのだろうか???
……そもそも私は本当にそんな物を望んでいるのだろうか?
そこから謎だったということに私は気付きつつあるのかもしれない。
これまでの私はただひたすらに生きるために生きていたような物だからほとんどそれ以外のことなんて考えられなかった。
……そういう意味では、それ以外のことが落ち着いてまともに考えられるようになるのは人生の転換期を迎えた2015年以来ということになるわけで。。。
だからそう、
正直、色々とわからない/(^o^)\
なんか色々と様変わりしてしまったような気もするし、
極限の神聖さと邪悪さ(?)のような体感で彩られた世界観とは全く違うし、
私自身の体感としてはこのような自己の存在感や存在のしかたのようなものは〈マスター〉としての自己を求めるようになった20歳の秋以降には完全に失われていたような感覚だったりするから、
感覚的には14年ぶりの自分と人生とでも呼べばいいだろうか?
なんかそんな感じの状態にある。
上記のように私は20歳以後はひたすら内なる霊性の炎みたいな感覚に突き動かされて生きてきたしその感覚が消え去ることはほとんど無かったから、
その使命感や強迫観念のような物が無くなった状態の自分というものが一体どのようなものなのかがわからない。
きっと今の私はそんな風に感じているんだろうなって思う。
うん、
全然わからないんだと思うんだよ?😃
私は長らく自分が存在するだけで霊的な目覚めに向かわせる強制力や機構や概念のような状態になってたと知っているから、
そうじゃない自分ってのはほとんど知らないと言っていいんだと思う。
思い出せないとも言えるし、
20歳以降の私はその状態だったことはほとんど無いから知らないとも言える。
……私は本当にずっと内なる闘いに日々を明け暮れて生きてきたような人間だからそれ以外の生き方を知らないのかもしれない。
冗談のような大袈裟な表現に思えたりもするけれど、実際そんな感覚にある。
失われてしまった本当の自分と世界を取り戻すために生きて死んだような私はその後のことを知るわけがないんだから。
きっと私は取り戻したかった自分と世界の記憶を取り戻すことができたんだろうということは理解できる。
ずっと振り払えなかった無条件の苦しみや恐れの感覚が通常の10倍になるような悪夢感も無くなっているのがその証。
……それなら私は、
取り戻され呼び覚まされ復活させられた今の私とは一体なんなんだろうか???
それまでは果てしない無限回廊をさまよい続けるような膨大な学びと挑戦があったということは一応は思い出せるしこのブログとして記録も残ってるけどあまりにも世界観や体感が違いすぎて同じもの同じ自分として認識することはできそうにないし、
終わってしまえば一瞬のこと。
もはやそれは既に前世の記憶のようにさえ思えるし、私が必死になって求め続けついに獲得されたはずの神聖さとか聖性とかワンネス的な感覚という物だってそれを失っていない自分からすれば“普通”という程度のものでしかないわけで?😃
なんかすごくすごく果てしなく長い悪夢を見ていたような気分。
そして今の私はその悪夢から目が覚めたばかりで自分が何をしていてどうなっていたのか何だったのかが全くわからなくなっているようなそんな感覚にある。
これが永遠の時間の中で失われてしまった自己を取り戻すということなの???
でもそれは全く凄いことじゃなく“普通”の自分にさえ思えるもの。
………………私が生きていた極限の光と闇に彩られた記憶や思いのすべては本当に悪夢だったということなのだろうか???
これが分離の幻想を超えて本当の自分を取り戻すという感覚なのだろうか???
すべてはただの悪い夢だった???
失っていない自己を取り戻すために闘うことはできないし、
有りもしない苦しみを数えてそれを癒すということもできない。
だから、
今の私はこれまでの長年の私とは違い過ぎてよくわからない。
私はただずっと長年悪い夢に取り憑かれていた人間でようやくその夢から覚めるようなことができたというくらいに思える。
それ以上でも以下でもない、
神聖さや邪悪さを競うことも無い、
二元性を越える……? というようなことを考える必要もないような状態。。。
……もしかしたら私は本当に悪夢から覚めた者として悪夢的な体験をただの夢として忘れ去っていってるのかもしれないと感じる。
別にそこに未練や無念さは無いんだけど、
あまりにも手応え?のような物が無さすぎてなんかよくわからない気持ちになる😂
これが、
ここが地上の天国なのだろうか???
私はあらゆる分離の幻想な悪夢(?)と信じられていたすべてを超えて聖性を獲得することができたということなのだろうか???
一体何がそんなに苦しかったのか?
一体なぜそんなに苦しかったのか?
そんなのはどう考えたって正常ではない異常な状態だったとわかるしその時の私にはおよそ心の闇が10倍や30倍くらいに感じられていたに違いないとも思える。
……だってそうじゃなければ存在するだけで延々と苦しみ続けられるわけがない。
そんなの普通に有り得るわけがないんだよ。
そういう意味で私は非常に特殊な精神状態にあった人間だったと言えるんだね。
……だってそんなのどう考えたって異常としか言いようがないし、ひどい悪夢に取り憑かれた人間と考えるのが自然だし、
もしかしたらそういう極限の悪夢の中でしか聖性を獲得するということはできないのかもしれないなって感じる。
だってそれを失うことは本来有り得ないとわかるし、だからそれを失うなんてことできるわけないんだし、だからそれを獲得するということも本来は不可能だから。
……今の私は自分が求めた聖者と呼べるものなのだろうか?
今の私は覚者の類でありえるのだろうか?
……そもそも人間は本当にそんなにも非常な苦しみを実感しているのだろうか???
少なくともかつての私が実感していたほどの分離の幻想ゆえの無条件の存在苦を味わっている人間がそんなにも多くあるとはとてもじゃないけど私には思えない。
そんなわけないんだよ。
だってそんな無条件の存在苦の感覚に目覚めてしまった者は自分が自分である限りは常に必ず延々とその根源的な苦しみからの解放を求め続けるような人間になるんだから(笑)
そうじゃないわけがないんだよ。
常に尽きることが無い違和感や苦しみの中にあってまともな人間として思考したり社会生活を送れるわけがない。
そんな人間は必ず答えるはず。
私にはそんなことをしている暇や余裕は無い。
……狂気に囚われてそれに抗うことで精一杯な人間がまともで普通な自分像を保つことはほぼ不可能に近い。ただ自己を存在させるためにバランスを保つだけで時間は過ぎ去って行くのだしそのために存在するという矛盾を抱えることにもなってしまうだろうから、控え目に言ってその苦しみの感覚は壮絶なものになるだろうから。
だからそうじゃない人間は違う。
そこまで行ってない人間は違う。
それを良いとか悪いとか断片だけを見て判断することは難しいし不可能で全くの無意味かもしれないけど、
苦しみの実感だけがその証だと言えるのかもしれない。
自分が望んでも望まなくても苦しみの実感があれば必ずそれから逃れようとする……自我を持つ人間は必ずそうするはずだから。
………………
それが悪い夢であり、
それこそが分離の幻想の悪夢と呼ばれる理由なのかもしれない。
……長い長い永遠の悪夢、悪い夢。
それがただの悪い夢でしかなかったと私が知ったのだとしたら………………
………………アレらが
ただの悪い夢???(゜Δ ゜)
それってどういう………………
え、じゃあどういうことなの???
今の私はそんな感覚で過ごしているに違いなかった。