前回の記事で書いたことは嘘じゃない。
6年前頃に一応は何ヵ月かかけて奇跡のコースのテキストを一通り最後まで読むということができたけれどその時の私には神の子な兄弟の話というのはとにかく受け入れられない物だったと思ってる。
その理由は色々あるんだけど、
時間の中で展開され体験されているその時点での自分や人生状況の中にあってそれはほとんど不可能に近い非現実的なおとぎ話のように思えていたからという理由が一番大きいように思う。
私の好んで使う言葉では、
状況がそれを許さない
というやつ。
……別に私自身が必ずしもその相手をひどく憎み殺意を感じているというわけではないはずなのだけれど、
実際に自分の感覚や感情として体感する物としてはそのような憎悪ばかりが強く認識されるのは事実だし、しかもその上私がひどく嫌悪しているように思える相手側からも同じくらいのものを感じるし、
現在の人生状況という物はそれが相応しく正当なものだと証明しているように見える。
だからもしそれ以外の何か……たとえば神の子の兄弟的な真実性の繋がりを見ようと望むのならもはや完全に現状であり目の前の現実に思える物を無視しなくてはならないのだとわかる。。。
であるならば、
どちらが現実と呼べるのだろうか???
そんなにも現状の世界や目の前の誰かの存在感を完全に否定してまでも私は本当の世界や自分……神の子としてのリアリティーや記憶を望むのだろうか???
というような問いがあったとしたら、
かつての私はそれを選ばなかったということが理解できる。
だってつまりその問いかけこそが
私はそうまでしてあらゆる偶像を優先せずに神だけを見ることを選ぶだろうか?
ということだから。
そうまでして、
それを選ぶのはとても難しい。
そしてそのようなことは実際誰にもできるわけがないというようなことをコースのテキストの中では明確に示されていたように思う。
より正確には、
本物だと信じる物を手放すことは誰にもできるわけがない
というようなニュアンスの言葉だったように思うけれど何しろ6年も前の記憶……。
だからこそ手放すに相応しいと示されている物が本当に本物ではない幻だったのだと聖霊に1つ1つ教えてもらわなければならない、
というような話だったと思う。
そう、その過程においては信じられないほどの本物と信じた幻想を刻一刻と目撃しては少しずつ少しずつ1つずつ可能な対象から取り消してゆくことになる。
最終的には1つの観念も概念も例外ではなく等しく幻としてシンボルとして聖霊によって識別されることになるのだろう。
それがあらゆる偶像を優先させることを止めるということなのだから。
今の私にはそれはとてもじゃないけど簡単なことには思えない。でも全く不可能なことではないということもわかる。
例えば、そう……
100年や1000年くらいの時間が自分にあったのだとしたら、
その時間の中で1つ1つの幻を見極め非実在性な思いを解き放ってゆくことができたのだとしたらそれは十分に可能だと思う。
……つまりはそのくらい時間をかけることができたなら、いつしか必ず誰しもが神の教師に相応しい段階にまで進歩して神の子としてのリアリティーを獲得し取り戻すことはできるだろうというような話である。
実際にはやる気なければ一万年でも足りないのかもしれないけど(笑)
奇跡のコースで言うミラクル、知覚をシフトさせ時間を省くという言葉はそのような意味なのだと私は理解している。
果てしなく時間をかけるなら、
誰しもが必ずその中で学び進歩し霊性に目覚め真の自己を取り戻し神の元へ帰り着くというような考え方はとても非現実的に思えるけれど非常に明解な事実とも言える。
それはいわゆるスピリチュアル的な輪廻転生と魂の成長の概念と同じようなものなのだろうし行き着く所は同じなのだろう。
永遠と呼べる時間をかけるなら、
どんな誰しもが例外なくそうなるだろう。
……その理解が得られたなら、
後はそれをどのくらい後回しにするのかというような違いでしかないのだし、
そもそもその距離や段階的な時間的な隔たりという物こそが神からの分離の幻想なのだとしたら、
消え去るのは一瞬である。
そんな物は最初から存在していなかったという現実だけが残るに違いない。
これらは概念やただの情報として頭に入れておくだけなら何の役にも立たないまさに非現実的な妄想でしかないけれど、
実践し体験するのなら話は別である。
そうなったとしたらそっちこそが真実であり現実である可能性が非常に高いと思えるようになる物だし、
自分がやがてそうなるのは単に時間の問題で必ずそうなるのだと理解する。
……それなら、
時間の幻の中で永遠に遊んでいることは必要ではないということもわかるに違いない。なぜならそれはただの幻だから中身のないものだと気付いてしまった場合には今度はもうそれを選ぶことも望むこともむしろ非現実的だとわかるようになってしまうから。
それは確信であり、
ほんの少しの信頼と呼べるものなのかもしれない。
6年前の私は同じようなリアリティー……例えば神の教師としての存在感を自らに選択する人間なんてのは伝説的神話的な物凄く非常に少なくて生涯に一度も知り合うことができるかもわからないくらいに限りなく少ない存在だと思っていたけれど、
実はそうでもないらしい。
経緯は違ったとしても、
たぶん今の私くらいの段階……サンシップの片鱗が理解できるようになってきて本当に無意識の恐れに支配された世界観から抜け出すことを考え始め実行し始めたくらいの人間なら十分に存在すると思える。
恐らくそれは事実だろうし、
そういう者と導かれ関わり合うことも起こってくるように思う。
なぜならそれは、
ちょうど同じ段階くらいの進歩した人間同士でなければ体験し得ない学びや面白みのような物があるとわかるから。
私たちは既にそのようなあらゆる出会いや別れの意味や価値を理解できるだけの経験を得ているのだろうし、
その上で時間の中を生きる自分としてはまだまだ未成熟だということも理解しているだろうから。
そう……それは強いて言うのなら、
スピリチュアリティの実践者として生きてきてようやく面白みや楽しさの実感の方が強まってくるくらいの比較的意識が恐れから解放されてきたくらいの神聖さを望む人間のネットワークみたいな物なんじゃないかと思うんだよ。
実際わたしはそのような意識?進歩段階?にある者たちを自分と同じ仲間として当然のように感じられるし、
積極的に聖霊の使者であるものを互いに求めて交流したりそういう体験が起こったりしてくる時期なんじゃないかと思える。
だってそれが神の教師として進歩するために必要な学びとなる体験だろうから。
そういう意味で私は別に全く内側に引きこもっているわけではない。なぜそうなのかと言えば真の自己意識である神の子的なリアリティーであり実在性であるものが私をいつまでも暗くて安全な闇の神殿に閉じ込めておくことを許さないというような意識や力が働いているとわかるから(笑)
しかしあらゆる偶像を優先せず自ら何かを判断したりコントロールしようとしない選択を可能とするための在り方というのは、
控え目に言ってそれまで自分として守ってきた世界観や質とは全く異なる。
だから私は思うんだよ。
その2つは既に共存し得ないものなんじゃないだろうか???
と。
実際そうなのかはわからないんだけど、
もしかしたら1ヶ月後くらいの私はそれを理解できるようになっているのかもしれないと感じられたりもする。
今期のブログのテーマであり前回の記事にも使った
取り戻すべき本当の自分と世界の輪郭は
という言葉が、
本当に今の自分に相応しいものなのか今の私にはわからないし、今の私がそのような背伸びしたくらいに思えるようなテーマ性に相応しいくらいの自分なのかもわからないと思っているのが現状だったりする。
実際“サンシップ”なる物がどのような何であるのかを私は正確に理解してない=全然わかってないままにその言葉を感覚的に使っているのが現状だと思ってるんだけど、
その神の子的な繋がり……真のコミュニケーションであり愛や神を通しての聖なる関係の延長線上にあるであろうソレを認識するということは、
たとえ自分にとって無条件に嫌悪感を呼び覚まし刺激してくるような誰かがあったとしても恐らくその誰かというイメージも例外なく神の子的な兄弟であり自己に被せられた悪夢的幻想でしかないのだろうと、
究極的には必ずそうなのだろうと確信を得ているようなことくらいは認識できていることの証明のようにも思ってたりする。
……自分で何書いてたのか考えてたのかわからんくなってきた💥/(^o^)\💥
今はコースの実践者としての色が非常に強いので私の書いてることを正しく見るために読み手にも聖霊の介入を推奨します。
言い換えるなら少なくとも今期の私はコースの実践者以外の人間はサポート対象外くらいに考えてる可能性が高い気がしてる。
いやだって、
私が書き記してるのがわかりにくい概念や考え方だからってそれをいつまでもゴミとして扱うわけにはいかないし、
もうそれは選べない。
少なくともゴミ扱いだった物=私は十分に使い道のあるジャンク品=黄金のガラクタになったんだから☆
見る者は見ればいいよ、
私がそうしてるように。
私は自己に望むものを他者にも望むよ、
無意識でも必ずそうなってるんだからさ。
私は幻を見続けること留まり続けることを止めることにしたから少なくともその意思に示すに相応しい在り方を保ち続けることが必要だと言える。
それが私が、
神よりも偶像を優先させるつもりは私にはありません。
という言葉を通常レベルの自分でも認めたということなんだね。
後は出たとこ勝負……というよりは、
奇跡の上にある道の上にあるすべて次第って感じなんだね。
ついに私はその自分の理解を越えたリアリティーを望むようになったらしいんだよ。
少なくとも私が願い望むすべては私が今まで居た場所には存在してなかったことが理解できたから。
今の私の場所での学びは尽きた。
だから次へ行こう。
それで何が置いてかれて何が連れていかれるのかは私にはわからない。
……なんでかって言えば、
私の理解を越えたリアリティーや可能性こそを私は知りたいと望んだからなんだよ。
だから私にわかるわけないんだね!!😆
私の理解を越えたものを望んだんだもん。
私がわかると思えるものは違うんだよ。
……その結果が、
わかるようになるまで判断に飛び付かずに動かない
という行動の理由なんだねぇ。
なんかもうね、普通って概念とか、
まったく使えない。
なんの役にも立たない。
役に立つのは、
全く答える気がない時なんかに
うん、フツー。
って使う感じ(笑)
別の言葉で表現するなら、
さぁそれはどうだろうか?
くらいの温度感のやつ。
いやだって私にはわかんないんだもん。
聞かれても
どうなんだろうね?
としか答えられないじゃん?
私が認識できるようなものはまずダメ
って言うとアレだけど、
エゴな意識から聖霊な意識にシフトさせるってそういうことなんだよねぇ(*´ Δ`* )🍵
だから今の私の本命は今の私では認識できないところにある可能性なんだよ。
……困ったことだろう?
少なくとも私は困っているよ┐(´∀`)┌
でもさ、
本当に見つける気があるなら絶対に見つからない場所を探すのは諦めなきゃならない。
コースで語られるように、
求めよ、しかし得てはならない。
探せ、しかし見つけてはならない。
がルールであるエゴな意識の中で探すのはどうやっても諦める必要があるのは明白!!
だから私はそうと知らずに信仰して大事に守っている偶像に気付けるまでは勝手に動かずに状況と真意を見極めることに時間を使うべきだと一応は理解できているのです。
しかし困ったね、
今の私が認識できないところにある可能性だとか新たなリアリティーってのは本当に今の私には認識できないらしいんだよ(笑)
いや文字で書いたら当たり前すぎて頭悪いのかって思うかもしんないけど、
それを体験して理解することは頭で理解したつもりになることとそんなにも違うのかと。
衝撃を受けているわけです(゜Δ ゜)💫
いやだって、
自分では認識できないところにある可能性なんて物を本当に望んだとしたら一体どうすればいいってんだよ?
それこそまさに!!
今の私は何もわかっていません。
みたいな!!
コースのレッスンで何度も見かけてきたようなアレを本気でやるってことなんだぜ!?
この“私”が!!
エゴであり自我意識であると信じきっているらしいこの私がそんな荒唐無稽に思えるようなことを!!
……何て言うかさ、
こう言っては何なんだけど、
まさか本当にそんな考え方が役に立つ時が来るなんて思わなかった。
一応は理解できるけど、
すぐには受け入れられないというか!!
……あぁこれこそがエゴな自己意識では決して理解できないことを認めて喜んでホーリースピリットを頼るってことなんだなぁって。
あぁ、そのことが理解できる奇妙さよ。
あぁ、そのことがわからない当然さよ。
私とはどちらなのだろうか???
とかそんなことを今の私は感じているらしいのでした🌠
いやでもさ、
ここしばらく(たぶん1ヶ月くらい)のホーリースピリットを頼りまさに私にだけ意味を成し真価を発揮する独特のお導きな体験とか実感があったからなのかもしれないけど、
お金とか人間関係とか仕事とか恋愛とか
なんかそこら辺のすべてを代償として差し出すように思えたとしても、今の自分では認識できてないもっと素晴らしい可能性ってのを知りたいなぁそれはきっと素晴らしく幸せなことだろうなぁって思えるんだよ🌸
そう、
私が見たいのは私が存在していたいのはそういうリアリティーの上にある世界なんだよ。
だから少なくともその可能性を消し去ることになってしまう選択や意識っていうのはことごとく諦めて解き放ってゆくことになるんだろうけれど、
しかし見てみたいものだ。
その私には今の私ではわからないどんな可能性や煌めきや栄光があるのだろうか。
……う~ん、やっぱり知りたいなぁ。
だからやっぱり私はあらゆる偶像を神よりも優先させることは無いんだろうし、
たぶんそれはもう既に消え去った幻でしかないのかもしれないなって。
やっぱりそっちだね、本心は👌✨
つまり私はそれを恐れているのではなくむしろ楽しみに感じているということなんだね。
エゴな自己意識の私はそれを恐れ、
スピリットな私はそれを楽しんでいる……
なるほどこれは共存できない。
なぜ私がそっちを選ぶのかと言えば、
等しく自己を完全に祝福できる可能性という物があるのがそっちだから。
つまり私が祝福の神子として存在し得る可能性はもともとこちらには無かったとわかったってことなんだよ。
そして私はもうイチイチエゴ的な自己意識を地獄の苦しみの中で葬るようなやり方以外でも解放してやれるようになったからもうそういうのは要らないんだよ。
もうそれは存在しない可能性……リアルに思えない幻になったからなんだね。
……それはもはやただの幻である。
そんなもの選べるわけがないだろう?
私がそんなものに欺かれるわけがない、
バカにするな。
私以外のそっちを選ぶことになった段階の人間てどうなってるんだろうね。
純粋に気にならない?
自分と同じ進歩レベル(仮)の神の教師ってのが一体どんな人生を送ってきたのかとかさ。
そういうの知りたいなぁって思うじゃん?
奇跡の上にある道ではそういうのは既に用意されてるってことなんだよ。
普遍的な霊性の道を生きながらも、
唯一無二の個性と輝きを持つ存在として自分こそが最も幸せな存在だと実感しながら感謝し祝福の中を生きることは可能なんだよ。
それを誰よりも望み探し求めたような私がその道に辿り着くのが何よりの証拠だね☆
そういう意味で私のやり方は邪道ではなくて正道ではなくてもむしろ王道だと言える。
それが仕事っぽいのかどうかって考え方を完全に無視するのなら私は自分をそういう見本となる存在の1つとして使いたいと思ってるしそれができたら幸せだと感じるよ。
だってそれこそが神の教師の共通の役割なんだから☆
違うのはそのやり方や現れかた。
それこそが唯一無二の可能性で自分だけが果たせる神の仕事ってやつなんだろうよ。
そういえばディバインワーカーって神の仕事をする者のことなんだろうね。
私は自分の理解を越えたままにそういう言葉を使ってるからだから自分の理解を越えた可能性を保つことができるとも言える。
そう、それは信頼の証でもあったんだよ。
……エゴによる超絶悪意的解釈では無能さ罪業の証拠でもスピリットの正しい理解としては信頼の証だとわかる。
………………このくらいまで理解できたなら誰だってもうそっちに戻らないでしょ(笑)
いやだって、ねぇ?
なんかもう笑い話みたいじゃん😆💥
本当にエゴの解釈って信じられないくらいに超絶悪意に満ちてるんだよ。
それはもはや無条件の悪意や敵意と呼んだ方がいいレベル。
なんかこう冷静に眺められるようになるとすごい徹底的に悪意に満ちててすごいなって思うようになるんだね……これが地獄の主か。
→遊び飽きたら卒業しましょう🙆
……それまではどうするかって???
完全に気が済むまで攻撃で報復で死と怨嗟の声に満ちた世界で闘えばいいと思うの。
そうね……だいたい一万年くらいやれば少しは気が済むんじゃないかな?
嫌な人は時間省いていきましょ☆
……そう、私は思うのだよ。
少なくとも地球転生最後組くらいの者なら当然それは理解できるはずだと。
理解できないやつはモグリ
そんな“攻撃性”を未だに捨てきれていないような私は神の教師としてはまだまだ未熟に違いないのだった~
(……私たちはわかっててそれをやるんだよ。なぜならそれが役割だからさ。だから時間が経過するほど楽になるし若いほど未熟さの証拠みたいなのが出てきやすくて立ち回りが難しくなるのはまさに修練だよね。)
それを罪業の証拠として見るか、
それを信頼の証として見ることを選ぶか、
今すぐにそれを実感することはできなかったとしても選ぶことだけは可能なんだよ。
さて今の私はそのエゴの声な誘惑に勝てているのだろうか?
それとも負けているのだろうか???
(私と同格以上の者はこのような私がたびたび行う悪意的表現が役割上のセリフでありストーリー上の演出に過ぎないと気付いてくれることだろう。
……しかし肝心の私自身がそれに気付けるかどうかは鏡の向こう、幻の向こう側の話に違いない。
もし真にスピリットとして私たちが通じ合える瞬間がこのような表現の中にあるのだとしたら、それはきっと先に必要な役割を果たしセリフを喋り終えた後のほんの少しの自由時間みたいなこの時だけだと私は思うんだよ。
やれやれ、
お互い未熟者は辛いね┐(´∀`)┌
……っていう、
これら最後まで書き上げられた表現をホーリースピリットと正しく完全に見直せばいいってことなんでしょう?
1週目は一時的な夢の中のストーリーを、
2回目には現実な本当のストーリーを、
そういう舞台裏っぽい話が私の本命☆
そこら辺を共感してもらえたら嬉しいなって
今の私の表現は未熟者でありながらよく理解していてよく学ぶ神の教師の見本みたいな物だと思うし、そういう見方をすれば本当に素晴らしいプロの仕事っぷりだと思うの。
それが今の私に与えられた神の仕事だ!!
そのことがようやくわかる時期になったんだねぇよかったねぇ🍵😌
そう、私はあまり気付いていないけれど神の教師というスピリチュアリティ実践者界隈では超有名な概念を活用できるようになったことで一部の人間たちには劇的に理解されやすくなったに違いないのである。
そう、気付けば私とは十分に理解されることができるくらいに自分の実像を捉えられるようになっていたのだ~
🌠
……たぶんこれが神の教師の資質の10番目にある真義を守り抜く?みたいなやつの実践だと思うんだよ。
たぶんこういうことだと思うんだけどどうなんだろうか?
(全然わかってないしうろ覚えである。)
しかし今回の記事のタイトルは正しく完全な理解だと思うの🙌✨
時間の中では未熟な存在でも内なる神聖性を保ちながら生きることは可能なんだよ
という見本ですね。
実際これは成熟しきってからは原理的に絶対にできないことだしできるのは未熟な段階にある時だけという腕試しみたいな挑戦の一種だと思うの。
これこそがプロのエージェントとしての仕事であると私は信じたいっ!!
(未熟なので確信すら無いのである)