前回の記事が書かれてから、
そこからしばらく経って
そして現在。
前回の記事の中でたしか私は
この本に対して『コレだ!』みたいなことを書いていた記憶があります。
あのあと、
買って読み始めたのですね。
そして密かに8週間のワークみたいな感じのやつを現在続けているわけです。
それを密かに続けているのも、
この期間にしばらくブログを書かなかったりほぼ完全に思い出すこともなくなっていたのも
『コレだ!』
ってのが理由なのです。
なんてゆーんですかね、
私の在り方というか存在の仕方というか存在の目的意識が変わったのですよ。
この本は、
自分自身を完全に解放して神だとかにすべてを返して委ねて聖なる豊かさを生きた方がよっぽどに幸せだと私は思うんだけど
あなたはどう思う?
みたいな本なのですね。
ってゆーわけで現在の私は、
その8週間なワークをしながら不可避的に浮かび上がってくる抵抗や恐れであるものを解放しながら日常生活を続けている。
そんな感じなのです。
私も、気付いているのです。
すべては借り物なのだから
いずれは神に返さねばならない。
その認識は長らく感じていたものだし、
今年の春くらいには明け渡しへの抵抗感もかなり取り除くことができたのでそのうちそういう方向に定まっていくんだろうなと。
(本題終わり)
そんな感じ(笑)
それ以外にはモンストばっかりやってます
(現在進行形)
去年の10月初めくらいから、
リゼロコラボをきっかけに、
そろそろ一年くらいモンストを毎日続けてることになります。今日で連続ログインも357日になったようです。
去年の秋からはゲームはモンストくらいしかやってないので基本アクティブで毎日プレイするようになったのでPSもそこそこ上がったので高難易度的なクエストもちょこちょこやるようになったのですね。
例えば最近のこれ、
もちろんパンデモニウムもやってます。
なんかそんなのなのですよ。
実際現在の私の人生状況ってのは対外的だったり社会に向けての活動の流れってのはほぼ存在してない感じなのです。
だからあの本みたいな、
神性だとか聖なる流れだとか意思とかを自らに呼び込んで生きるってことを選択するには必ず相応の理由というかそれが自分にとっての正解であり必然だという証みたいな物を見出だす必要があると思うのですよ
自らの人生経験とかから🌠
あの本の中で言われていたように、
私自身もそう思うんだけど、
神聖なものに自らとすべてを明け渡して使わせることを喜んで受け入れたくなるその前段階として、
なんか、たぶん、
自分のやり方じゃ全く勝ち目はない!
……って感じのことがわかったら、
いわゆる最後の手段として、
普通だったら輪廻転生の枠の終わりの人生くらいに初めてようやく受け入れられるようになるはずだから今生の自分には全く関係ないし非現実的だぜ!って思ってたような、
すべてを神とかに返して正しく扱ってもらうって存在の仕方を選ぶ方が良いなって感じられるようになるのですね。
返しきれない借金やいつかどこかの自分が作ったとか言われてツケを払わされ続けるような永遠の責め苦のような決して報われず終わりのない苦悩から解放されるということを目的とするのであれば、
神聖なものにすべてを返すってのは非常に合理的で十分に期待できる価値あるものという意味で超現実的な選択になるのですから。
だから、
そこまで行ってない人間
には、役に立たないのですよ。
だってそんなのは輪廻の中で転生の果てに誰しもが選ぶようになる必然なのですから。
今生の自分がそういう予定の人間なんて
ほとんど居らんでしょう?
だから私はこういう話を個人的に必要とするものとしてのみ語るのです。
年齢的、人生段階的なものなのか私はまだそのような在り方や意識を宿す自分以外の誰かとは直接関わったことはないから
基本的にそんな人間はまず存在してないと思ってるので
なんかもう古の伝説だったり都市伝説だったりオカルトだったりなレベルのイメージ(笑)
でも私は“そっち”なんだろうなって。
だって、上手くいかないし……
仮に上手くいったとしてもそのやり方を続ければ成功するなんてこともなかった。
何かを求めた結果幸運にも一時はそれを手にすることができたとしても、
次はそれを失わずに生きられるように苦心し続けなくてはならないのだとしたら、
……つまりそれは実際には自ら終わりのない苦しみや虚しさを選び続けているということでしかないという原理にいつかどこかで気付くのは自然なことでしょう?
私はそれに気付く(計画を持つ)者だったということ。
そして私が人生上で見てきた限り、
そういう人間てのは、たぶんすごく少なくて限られてるんだろうなってわかるんだよ。
だって、そんな計画があったらいわゆる普通の人生は進めないから。
すべての人生上の出来事は、本当の真の自分の姿や意識や在り方や目的や存在感を思い出してそれを全うするためのシナリオだって知ることになるんだから。
それを知るのなら、
それを知らないからこそ成り立つフツーの人間としての世界観は崩壊せざるを得ない。
そういうことなんだね┐(´∀`)┌
というわけで私もそういう世界観や人生観は既に崩壊して更地になってる感じ(笑)
そこに神の神殿だとか王国的なソレを再構築したり呼び込んだりすればいいってことなんだろうなってのも、わかる。理解できる。
だってそれを妨げるものがもうほとんど残されていないから。それを否定して独力でやってゆけるとは全く思えないしそんな見せかけの原理や考え方に乗ることの必然ってのも結構身に染みてきてる⚡
でも聖なる豊かさ?
それを受け入れて通して保ち続けられるようになるためにはまだまだたくさんの恐れである抵抗だとか怒りだとかを解き放っていく必要があることも十分に理解してる。
だからそれが現在の私に示されてる道。
確かにさ、自分を自分として宇宙の総支配者か何かみたいに考えて試行錯誤して挑戦していくってのも楽しかったよ?
でもきっとこの人生はそのやり方じゃ成功しないようになってるんだなってわかったんだよ。
そうなってしまったのなら?
本来そうであったはずの完全で神聖な計画に自ら乗りに行くってのも実に十~分に魅力的な提案なんだよ。
だってほら、
実際には有りもしない救いや幸福を求め続けることほどの悲劇とか報われなさって他にないでしょう?
だから、思うんだよ。
神聖な力とか計画だとかに自分を乗せていかなくても上手くやってける人間だったならそれでいいと思うけどさ、大変に残念な気もするんだけど私はそうじゃないらしいんだよ。
だから私は自分にとっての正解であるその道を選ぶことが自分にとって幸福でちゃんと報われる実在する可能性と一致した方向性だってわかったってだけのことなんだよ。
私にとっての正解はそうだったけど、
それは限りなく少数派だって気付いてる。
だから超ひっそりやってるんだよ(笑)
↑の本の作者はその可能性を悟って自ら神に委ね解放することを“終身刑から解放される”って表現してたけどさ、
そういうことなんだよっ!!
本当に、そういうことなんだよ。
世の中の99%以上の人間はそれは非現実的で全く理解し得ないオカルトな世界のことだと思ってるかもしれんし自分もそうだったけど、
でも現在の自分にとっては実際にそっちが正解になったってことなんだよ。
それだけ。
それを、過去の私に言っても信じないし、
理解したとしても、
言いたいことはわかった。
でも俺には俺の意志がある。
だからそれは受け入れられない。
とか言って断るって知ってる(笑)
そして実際それが正解なんだよ。
でも何年もすれば、あれこれな人生経験の果てに今の私の考え方や感覚になる。。。
そういうことなのさ。
ってわけで、
“聖なる豊かさ”を受け入れて生きられる自分になるための調整とか内省な時期を過ごしているわけです。
唯一私がたぶん連続して取り組んでいるのはそういう、自分を聖なるものに解放してそれを浸透させ生きられるようにひたすら内なる恐れに挑み解放し続けている人生ということなんだなってわかった。
だからそれが基本の私の在り方。
時間が経つほどにそれは進み、やがては実際に私を通してソレが表れ現れるようになっていくのだろうなって思うわけです。
そんな私にとっては人間社会的なアレコレのすべてもシナリオの一部で小道具みたいなものだからソレ自体に注目しても意味は無いのですよ基本的に。
今の私が正しく理解すべきなのは、
既に私の人生とか世界とか宇宙とか認識する形あるすべて他者に思える何者の存在感や振る舞いってのは必ずその目的のために用意されてるカタチであり協力者だということなのです。
だから、そう、
シナリオを成立させるためにはフツーに考えたら支離滅裂だったりキャラ崩壊しちゃうような役回りの誰かや自分になる時も割とよくあるということに気付けるようになると、
不必要な勘違いな苛立ちを抱え込まなくてよくなるんだなーってわかりはじめてる。
……たとえばそう、
“無限の源”にとっては勿体ないという考え方も全く意味を成さない余計な観念で、だからこそ減ることも増えることも見た目の変化は全く関係ないと知らせるために非常~に無駄でフツーに考えたら信じられないくらいに怒りを感じるような一見して浪費とか唾棄すべき状況ってのが用意されることもある……
❌断罪すべき状況
⭕唾棄すべき状況
とかそこら辺を理解することが必要なんだなーって実感してる所。
それはなんていうかまさに、
※テキストが挿入されていません※
って部分に気付くような!!
有るものは有るし、
用意されてないものは用意されてない!
その設定の違いを正確に読み取るような!
なんかそういうの!!
それが、難しい!!
っていうか、認識が、困難!!
言うべきことは言うし、
表現しないことは全くしない。
その判断基準や理由は全く同じもの。
……自分がそれを自らの個人的な判断によって行っているのではなく、個としての意識や判断を越えた直感によって正解を見極め実行していると理解するのなら、
たとえどれほど無意識に見えるとしてもすべての人間もまた同じように個としての意識や判断を越えた所で神なシナリオに沿って動いているだけでそれは自分に与えられたシナリオと連動していると気付くのなら………………
きっとすべての存在の裏とか中とか上にも聖なる力や神な意識は介在しているのだと伺い知ることは決して難しくはないはずなのだ……
ってゆーのが現在の私の学びてことなのでしょう。
すごく難しそうだし実際に難しいねっ!!!!
だからそういうレベルの話でなら私は連続して学びと解放を続けてる敬虔なスピリチュアル人だし、
そうじゃないフツーなレベルでの話ならだいたいモンストばっかりやってる廃人(笑)
だから実はこの記事の内容みたいなのが一番私らしいって可能性が高いのですね。
クシャンティとか、割と親近感湧くからやっぱり結構モンスト好きなんだと思う😃✨
このクシャーンティの、
非常~にバランスの悪い不調和感丸出しでありながらやたらに意思(エゴ)の強い熱心な修験者感が私にはよくわかる!!
ボイスはこちらからどうぞ✨
声が渋いのもグッド。輪廻の輪が尽きたなら昇天(アセンション)してどうぞ。
(画面録画のやつも貼れるっぽいんだけど画質は最低になるっぽい↓)
私も全能の力みたいなのを求めて必死にスピリチュアルやってた人間ですから、
そんな意思をどんな形でも何者かと共有できるのは純粋に嬉しいというものです💖
なんていうか、
私がやりたいのはこういうこと😁✨
モンストの轟絶モンスターのいかにもな不調和感アンバランス感ネガティブ感みたいなのが前まですんごく嫌いだったけど、
こういう剥き出しの感じのとか↓
慣れてきたり自分自身を極性に切り分けるのを止めたらなんかちょっと親近感湧いてきてちょっとだけ楽しいような気もしてくる不思議😃☀️
あぁそうか、
この感じが“分離”なんだな。
ってわかったような気もする。
レクイエムちゃん(?)とかは聖なるかなとかって言うだけあってちょっとキレイめだけどやっぱり作為的に禍々しいデザインだなって思ってる(笑)
そう、
私はこのブログで実際にこのような表現を行うためにモンストで轟絶モンスターも運極作成してみたり見続けてなんか親近感が湧いたりするようになっている者だったということなのです!
私は実際にこのような特定の形に触れることで自らの神性や聖性を知ってゆくきっかけとして使っている……
そういうことなのです。
それこそ私が聖なる計画なレベルでモンストを一生懸命にプレイしている理由なのです。
言葉にするとやたらアホっぽいけど
そういうこと✨
クシャンティだって運極しなかったらここに書かなかっただろうし、クシャンティも作ろうと思ったのはなぜかアビスが引けて忍田さんも持ってたからなわけで。
この世界の形ある出来事や動きってのはそんな感じでシナリオの一部なんだよ
っていう話の割と俗っぽい好例としてならこのブログに轟絶モンスター達のスクショを上げてそのナイスな作為的な不調和感を共有することもまた神聖なお導きになるということなのですよ🌠
だから私はそうやって生きてゆくのでしょう
スピリチュアルっていうかゲーム脳。
そういうことです👌✨