ここしばらく(二週間前くらいから)
“ライトボディの目覚め”とかについて考えたり語ったり取り組んだりしていると私自身は認識しているのですが、
たぶんこれは一月くらい時間をかける&集中的に取り組むことで霊的な自己として生きられる新たな人生の時期に向けての基礎の一つとして身に付けマスターしてゆくための流れなんじゃないかと内心では思ってます🍀
何て言うんですかね。
あの本、情報量がすごく多いのですね(笑)
それが光の言語という技術(?)によって成せるワザなのかはわからないけど、一言一句が正確なものとして選ばれているわけで、
もしアレを翻訳した人が居たらすごいなとも思うわけです。
それで今回は、
“前書き”の部分を読んだのです。
現実として私は1990年の生まれで現在は32歳の男性です。だから、生まれの時期相応のことしか知らないし、
もっと端的に言えば、
1989年に大きなシフトがあった!
みたいな話は、ほとんど認識することも知ることも無いのです。
いやだってまだ生まれてないし(ヾノ・∀・`)
でも、私自身も霊視なリーディングをお願いしたりした時に受け取った情報の中に、
ちょうどその頃が急激に地球の波動が上がった時期でそれを狙って生まれてきてる
みたいな話をもらったことがあるのです。
……これを人間的な時間軸な認識で考えた場合には、1990年生まれの私が1989年に起きた大きな霊的なシフトだとか波動の変化だとかなんてわかるわけないじゃないですか💥
というかそのリーディング結果を教えてもらった時点の2011年の私は、
……これで?
これで“地球の波動が急激に上昇した”というのか???
……嘘だろ?
って思いました(笑)
私は平成の生まれなので、
伝説的に語られる昭和の時代には許されたり存在していた文化や風潮というのはほとんどお話の中でのことだと思ってます。
たぶん平成生まれの者はみんなそう思ってるんじゃないかと。
外側に明確な力も見出だせず、
なぜかはわからなくても世の中も極めて混迷としている時代に生まれてしまったということは誰しもが薄々勘づいていたような
そんな差し込まれた光と浮かび上がってきた闇が交錯する時代だったんだろうなと思っているのですね😃
何やらこのライトボディの目覚め、
現在は第三版?らしく、
初版は……平成10年だそうな。
1998~99年くらいってことかな?
まぁそんな感じで、
2000年以後のアセンションムーブメントよりも先に出されてる珍しい本の一つらしいのですね。
確かに私は『この時期こそ!』って感じで狙ってきたタイミングが1990年だったと実感しているのですが、
そうなると不可逆的に現在の私は32歳の人間ということになってしまうので、
たとえば現在40歳だとか50代だとかの人生経験豊富なライトワーカーの人たちであれば知っているであろうこともまだ今の私は知らなかったりな時間的人生経験の未熟さゆえに理解できないことが多くあるということもこのような自分が生まれるよりも前の時代から霊的なアレヤコレヤは連綿と続いてきているというような話を知った時に痛感するのです⚡
それは言ってしまえば無い物ねだりでしかないのかもしれないけど、
でも、たぶん、
“私はそういう感覚も大切にしたい”というようなことを思っているのです🍀
たぶんこういう感じの話が私が書く比較的にブログっぽい話なのです😃
いつものは学習のプロセスで個人的に思うアレコレを語り示すというよりも、圧倒的な優先順位として私が計画上示し語るべきことが書かれていくことになってるから(笑)
別にそれ自体にはそんなに不満はないのだけれどあんまり人間ぽい感じじゃなくなるから不可避の温度差みたいなのが生まれちゃうというのが密かな悩みな気がしてます、
私という人間をやることに関して★
なんてゆーんですかね。
機械的、 ではないのだけど、
操り人間…… というわけでもないんだけど
いわゆる“フツーの人間”的な質感じゃなくなってしまうのは少し寂しいというか、
異郷って感じになるのですね、心が(笑)
正しい表現なら望郷ですね。
これやってる時の私って、
人間社会の人間じゃないよなぁ~
あぁ~、それならいっそのこと、
こっちの私で自然な社会にならないかな
みたいな感じの、
スターシード的な者なら誰でも切実に感じられることもあるであろう
(それがどこなのかわからなくても)
“故郷に帰りたい症候群”
つまり望郷というより旅愁みたいな。
最初はわかって飛び出したはずだけど、
すっかりその地に馴染んで新たな自分としてやってたはずが急に自分が居るその場所は異郷の地だと痛感させられるようなアレ(笑)
何て言うんですかね、
だからって別に帰りたいって心の奥底から思ってるわけじゃないのです。
別にそういう星系があるとかそんな風には思ってないし、それは心な感覚的なものだということは知っているのです。
ただそれらを理解した上で、
そういう望郷というか旅愁みたいな言葉にならない切なさみたいな物を感じたり味わったり表現するというのも旅のロマンというか醍醐味じゃないですか!
それだけ心を震わせハートに響く何かがあるのだとしたら、きっとそれだけで素敵な音を奏でられるような気がするじゃないですか!
(実際には私は音楽家じゃないからその形態での表現をしないんだけどそういう形的なことじゃなくて。)
そういう意味でその時々で心に触れてくる心の琴線を震わせる何かを意識的に捉えて表現したり味わったりすることを楽しむのは魂の旅的なものである人間として生きて味わうあれこれをより満足度の高いものにする秘訣であり実は本命だと私は感じるのですよ😌🌸
だから一見して愚かさや霊的な未熟さを垂れ流しにするようなアレコレも規制せずに自らに許したり自分に相応しい表現として意図的に行うこともあるのです。
たぶんこれはスピリット的な意識が活性化されてる時であればとても自然なこと。誰だってそれに気付くのなら当然のように酸いも甘いも味わい体験し尽くしたいと望むようになるはずなのですよ、それらを抑制したり規制しなきゃいけない道理やルールが見せかけの制限だと心が気付くから。
ありもしない風のような残像みたいなイメージみたいな障害物を本気にするってのはアホらしいし無理があるのですね(笑)
だから無視してやっちゃうのです☆
スピリット的には普通の感覚だから。
だから、そう、
これは私が恋愛的なしがらみだとか苦悩とか葛藤だとか、いわゆるツインソウル的なあれこれを強く実感していた時にも密かに感じ取っていたものなのです。
あぁ、
この心が砕けるような深い悲しみや混迷の中にあってそれでも私は心のどこかでそのような心を震わせる深い感動や感覚に打ち震えているのがわかる!!
なぜかはわからないけれど、
それはとても喜ばしいことらしいのだ……
みたいなことを思ったりしながらこのブログにあれこれ思いを吐き出したりしたこともあったわけです……(*´ Δ`* )
でも、そうなんですよ。
深い悲しみや混乱を感じてる中でも、
それでも心の奥底では深い感動であるものをすごく喜んでるような、何か芸術的なものに触れて感動するある種の霊的な体感みたいなものがあるのです。
だからそっちがスピリットが常に見ているものなんだなってことがわかるのですね。
実際、非常に厳しい人生状況とかタイミングな時に霊視なリーディングをしてもらうとスピリットの方が大満足で大喜びしてたりしてそのあまりの自分であるはずのものの温度差に怒りや呆れを超えて頭が思考停止してしまったり/(*゚∀゚*)\
そんなこともありますからね(笑)
なので、そうですね。
私はここら辺を自分だと思ってます✨
たまーに、
役割とか業務みたいな表現ではない心の栄養とか自由時間みたいな感じのこういう表現が可能になったりするのです。
それがあまりにも割合的に少ないので、
私は本来こういう者だと思ってもらいたいとは感じてるけど、
まだまだ本来的な自分を表現する機会に恵まれない
ってのは切ないなーって思います┐(´∀`)┌
そういう意味で私も9割以上はカルマモードになっていてその必要性に沿った動きを選ぶような段階にあるのでしょうねぇ。
なんですかね、
だから、そう、
思ったりするのですよ。
私ももっと早く生まれてれば、
もう成熟したライトワーカー的な人間になってたかもなぁ
とか、
現在40~50代の私からすれば上の年代の人たちにもその年代や時代ならではな可能になるようなスピリチュアルなロマンな体験があるんだろうなぁ~
とかね(笑)
それは言っても詮無いことなのですね。
わかってます。
わかってる。
でも、
そういうことじゃないんだよ。
別に不平や不満としてそういうことを表現してるわけじゃないんだ。そうじゃなくて、
ただ純粋に可能性に想いを馳せる感じで、
それも面白そうだよな~
そういう人生も楽しそうだよな~
っていう好奇心みたいなものなのです👌✨
たぶん誰しもが気付いてるように、
人間として生きてる以上は形としては完全無欠にならないじゃないですか。
上に書いたみたいに、
現在40歳の私であるためには1990年生まれのこの私にはなれないじゃないですか。
だから、それを理解してるからこそ、
そういう可能性も面白そうだな~って、
純粋にそう思えるのですよ。
それを自分が持っていないと知ってると同時にいくつかの可能性の中の一つとしては確かに選び得た可能性として思い出すような。
たぶん私、
そういう感覚が大好き
なのですね(*´ Δ`* )💖
それは“大好物”と言っていい(笑)
それは面白いというか楽しいというよりも心が満たされる感覚なのです。
言うなれば愛の実感に近い。
だから、本来私が表現したり分かち合いたいのはそういう感覚なのです。
心に浮かび上がったり、
心を震わせるというよりも、
心の琴線を振るわせるような何か。
私はそれをとても大切にしたいし、
たぶんそれこそを噛み締めたいのです☆
だから“恒常的なスピリチュアルな学習”以外に私が見てるのはソレです。
できることなら、
私をそのように見てもらえると、
あらゆるカルマモード的な分離的な上とか下とか悪とか善とかなしがらみから解放してもらえるので助かります(*´ Δ`* )
そしてたぶん私がそう見てもらえることを無意識レベルで非常に強く望んでいるように誰もがそのようにスピリット的な真なる自己を思い出させてくれるような存在を待ちわびているのだと感じるのですよ。
そして私はそれに気付く者だからこそその始まりの一人に自らがなることを選ぶ理由があるしその価値がわかる人間なのです。
だからこのような形で私にとって心の道を生きることと霊的な進歩成長を望む生き方は繋がってイコールになるのでしょう🍀
だからきっとそれが私の新しい生き方と在り方ってことになるのでしょうねぇ。
私は自らを真に解放するためには一定のレベルでは全く自他の境界を残さずに解き放ってゆくことが必要だと気付いているから。
そしてそれを人間的な自分として理解できるように一生懸命に取り組むと、あらゆるカルマ的な疑念や妄念や恐れやしがらみのすべてを超えてゆくことが必要になるから、
人間的な私は基本的にいつでもその影とか闇を越えるべく挑んでる克己的な人格になるというのが原理だったのです/(*゚∀゚*)\
若いって大変だねぇ。