聖なる幻想な借り物の力とスピリットの至高の娯楽と/幻想と架空の色のクリスタルとリアリティーの謎。 | ついにノンデュアリティの恩恵や救いを得た私が実際に幸福で豊かな人生を目指してゆくディバインマスタリーなブログ~

ついにノンデュアリティの恩恵や救いを得た私が実際に幸福で豊かな人生を目指してゆくディバインマスタリーなブログ~

14歳頃に霊性に目覚めた私がマスターの魂と内なるビジョンに引きずられあるべき未来へ逆走してゆく聖なるストーリーを開くための記録だったものの続き。今ではすっかり玄人向けでノンデュアリティスピリチュアリティ要素や前提知識超多め注意★

今は2時ですか、そうですか。


今からこれを書いたら4時過ぎくらいには終わるでしょうか?





🌠🌠🌠




それが隠されているということはないのだけれど、開かれている時に通る必要があるというのも事実なのだよ。







……みたいなことを言われてる気がするのでもう少し進めましょう。









(前回の記事の話)によって、


そうして思い出したのは、

そういえば2年ほど前にあの黄色緑いクリスタルと同じような質感のアイテムを作っていたということを思い出したのです。



それがこれ





……当時の私には“なにか禍々しい力や意思”のような物を感じられる気がしていたのであまり使わなかったり“うまく使えてる気がしないし実際よくわからない”ということもあってすっかりこのアイテムのことを忘れていたのです(*ノ・∀・`)



コンセプトは無限の創造力を呼び覚ますというもの。


リビアングラスとかアンブリゴナイトとかブラジリアナイトとか黄色&創造力系の意味やエネルギーを強く持つとされるパワーストーン素材を組み込んで作ったものです。



しかし私は途中で思ったのです。

“無限の創造力”なんてエネルギーを形作ったとしてそれをどうすればいいというのか(そもそも本当にそんなものが再現できてるのかわかんないし)

そんな使い道のない趣味のエネルギーを生成するよりもっと現実的な効果を発揮するアイテムを作った方がいいんじゃないか?


って。






しかしよくよく思い返してみれば、

私が思い付きみたいなオリジナルなヒーリングを作り出してそれを成立させるというようなリアリティーを可能にさせるという体験があったのも“無限の創造力”というようなものが自分の内側に感じられていたから可能になった


ということに気付いたのです❇️







……少なくとも、

『自分にそれが可能だ』と感じられたりなぜか既に可能な気がしたりするというような実感があって初めて扱えるものになるというのは確かなように思えるのですね。






そしてかつてはそのようにしてヒーリングの技能も扱えるようにまでなったかに思えた自分が現在ではそのような力を扱わないでいるということも密かに疑問に感じていたのだけれど、


端的に(原理的に)言ってそれも“内なる恐れ”によってそのような資質がブロックされているからだと言えるし、



もっとメタっぽい視点だと、


あれ以後この時期まで私がヒーリングの力を対外的に使うということは必要ではなかったから使えない。




ということなのでしょう(笑)









そして


私はヒーラーの業務を遂行するための基礎知識と技能を習得した!



みたいな脳内アナウンスみたいな物を感じ取った現在の私が理解したのは、






私は既に能力的にはリーディングとかヒーリングなどのヒーラー業を行うために必要となる基礎能力を持っているので、

それ以外の要件を満たすことがあったら当然のようにそのような役割を仕事として引き受けるということも起こり得るだろう



ということでした。




……というわけで次に疑問に思うのは、



“それ以外の要件”とは具体的に何のこと?




というものです💡






そしてたぶん“そこら辺の事情や原理”を正確に理解することが特に癒しとか愛とか光とかヒーラー的な自己の在り方や働きを認めることに対してブロックとなる内なる恐れを解放する道筋になってるのだと感じています。




……そしてこれは逆説的なのですが、



私がその概念とか“道筋”現実的な選択肢や考え方として受け入れるためには“無限の創造力を既に自分は持っている”という前提であり神聖な力を解放するための許可やカギのような意思リアリティーが必要になるのです。



だからかつて愛とか光とか恋だとか神聖な力の介入だとかによって一時的に無限の創造力な回路や霊な意識が高いレベルで開いていた状態と同じくらいにまで“光で自分を満たせるようになる”というような波動状態にまで変化する必要があった



……ということらしいのです。





それが要件の1つ。


恋も愛も親愛も迷いの無い全霊の力を発揮させるためのきっかけとして一時的には非常に上等なものです。





しかしそれは一時的なもの……。

まさに“聖なる愛の幻想”とでも呼ぶべきものは神性の介入の時期が終わると共に幻想であったことが明らかになり一時的に発現していたその力は再び失われてしまうのですね。




再び一時的に発揮することができていた力を取り戻して自分のものとして扱うためには無意識ながらに満たし達成していた条件や要件である霊的な原理や法則性を正確に理解しなくてはならないのです。


一度は自分にも扱えたのだから元々それを扱うに足る資質が自分にあるのは事実



しかしそれを理解して扱うにしても理解しないままに扱えるにしても霊的な原理と法則性に沿った形で実現されることは間違いないロジックでありルールなのです。







だから私が“神性な力の介入”とか呼んでいるなぜなのか理由や原理は理解できなくても当然のように可能になるような体験を除いてはその原理や法則性を理解することなしに扱うことはできないと思うのですね


(元々理解しないまま当然のようにそのような霊的な力やセンスを扱うことが可能な“ナチュラルボーンヒーラー“な人はそもそもそういう原理を認識しないと思うのでここでは無視!)




そして2年前の私は、

そのような“神性の介入による力”のような概念をディバインマジックと呼んでいたのだとわかります。




それは文字通りに“自分の力ではない”ものだと認識している上でそれでもなぜか扱うことが可能な力や資質である“聖なる幻想”とでも呼ぶべき現象や愛と光な体験のことです。




私は自分とは隠者のような役回りでスピリチュアリティの実践者でありわかりやすい霊的な力やヒーリングの能力などは特に持たない普通の人間と認識していたので、

既にそのような力に目覚めていると確認することになるような他者との関わり方の体験や出来事というのは何とも不思議で奇妙な物だと自分が感じていることに気付いていたのです(笑)



だから私は思ったのです。




『この力は神性の介入により私が必要な役割を果たすために与えられたいずれ返すことになる借り物でありそのことを正しく理解して扱うことが相応しい』と。








だから私がその神性からの借り物である愛とか光の仕事を果たすための力をそのような必要性が終わると共に実感できなくなったことに対して名残惜しさはあるものの予め理解していたものだったのでそんなに疑問には思わなかったのです🌃






だから私は意識の最も深い部分では最初から納得していたのだと言えます。



霊的な力もその他のあらゆる資質も私がこの世界で果たすべき役割を特に愛と光な仕事として実現させるために神性に与えられている借り物の1つなのだと。








……だから、もし私が再びそのような技能や力を取り戻すということが実感されるのだとしたらその時には必ず相応に果たすべき愛と光な仕事である物が既に用意されているということだとわかるのです。



それが仕事でありこの世界での自分の役割である限り、私個人の意思で可能になったり不可能になったりするということは決して有り得ないと既に知っているのですから。







だからそのことに疑問を持つことは私を幸せにはしないし、物質世界的な状況とは関係のない意識のレベルで知る完全さや神聖さを自己に保つ妨げとなり自ら苦しむことを選択することになるということも当然意識の深いレベルでは理解しているのです❇️




しかしそれが正しく理解されていると外側から見てもわかるような形で示されるかどうかもまたスピリットの計画次第なので、


実際には理解していても理解してないのと大差ない感じに見えてしまうのは形の上の認識ではどうやっても避けられないことなのですね(*ノ・∀・`)




そこにこのブログに記されてるような人間としての私の苦悩のすべてがあるのだと言えるでしょう😂💥








だから、

私は本来は自分がヒーリングを行えたりヒーラー的な愛と光な活動や表現や仕事を行っているか隠者のように自己の研究や探求に時間とエネルギーのすべてを使う自己完結的な閉鎖的に見える状態にあるかどうかとかそういうものに違いを見て気に病んだりするということは本質的には絶対に有り得ないのです(ヾノ・∀・`)🌠









形あるすべては借り物。

自分の肉体や精神も含めて、それらはすべて必要とされた計画と物語を体験として成立させるための協力を可能とするためにある。




私はそれを2年以上も前から既にその時々で十分に理解しているのです。






そして今の私が対外的な活動をほとんどゼロにしてこのブログに記されるような霊的な訓練や鍛練のようなスピリチュアリティの実践と同時にスピリチュアルな研究に取り組んでそのような資質や力をより高めよう開花させようと取り組むという現実が実際にあるということは、スピリットの計画における私の果たすべき役割や必要な行動とはそのようなことに取り組む時期だということなのです。




そして実際にそのような時期においてはそのような体験に集中し没頭することこそが霊的に目覚めていて自己のあるべき姿や役割を果たすことになるのだと一度は理解が可能になった上で、それでも疑問や不信感が拭い去れないと感じるのなら、


ひたすらにそれらにも対処すべき時期だということなのです(笑)





人間が葛藤したり苦しんだりするのは理解と現実が一致しないからという明確な理由があるので、どのような状態や状況にあってもそれらの認識と理解が一致するのであれば不必要に苦しむことだけは避けられるのです👍️✨





だからそれを疑う気持ちが尽きないと感じるのであればそれが出てくる限りそのような気持ちに直面して相応しい対応を続けてゆくことこそがその時期の正解なのです。


そしてそのような果てしない取り組みに思えるような体験の中でほんの少しずつ現実的な状況だとか目に見える形とは全く関係ない認識や普遍的な霊的な理解を得ていくことが可能になるのです。







いいじゃないですか、

そんな状態にまで仕向けられなければ一生かけてもほとんど自ら取り組む機会なんて選ばないのが普通の人間なのですから(笑)



珍しく不幸なことにor幸運なことにそのような状態に仕向けられてしまった自分の人生や現実を本当に無意味なものにしてしまわないために全力を尽くせばいいじゃないですか。


そうすれば意識と認識の上で形に全く依存しない完全性を自分のものにすることができるというのですから。スピリットに選ばれちゃった人間として全霊を尽くしてみれば思ってもなかった所にまで行ける人生だったりするかもしれませんよ?(笑)









……っていうような“責め苦”を正面から受け止めて昇華し続けてきた自分であればそのくらい当然のように扱えるようになっていたとしても別にそんなに不思議に感じなくなったりするものでしょう?



それもまた恩寵であり、その意味が喜びと共に実感できるようになった時には過去のすべての認識も純化され祝福の記憶へと再生されるのですから。







誰しもその道が閉ざされているというような物ではないのです。どのような形や方法論や役割の違いがあってもスピリットの計画の1つであり協力者であり体験者であることは違いないのですから。


そのような超完全で神聖な世界観を人間として生きながらに体験することができる喜びや幸運をもっと喜んでそういうものこそを分かち合っていけば、もしかしたらそういう生き方や計画が自分だということの素晴らしさを他の役割を引き受けている誰かに教えてもらえるようになるかもしれませんよ?



そしてそのようにして誰かに親切に何かを教えてもらえたり与えてもらえる理由とはその誰かが自分に対して何かとても素晴らしいものやありがたさみたいなものを感じたからなのだと知ることがあるのだとしたら、


既にそれを自分を使って分かち合っているのだと知ることできるじゃないですか!




だからどんな闇に思えるものでも隠さないで見ることができるようにしておくことはとても素晴らしい貢献なのですよ。だって人間はそういうものこそを他者には隠したいのだと本能的に考える者だと理解するなら、


どんな理由でもそれを可能にした人間ってのは貴重な情報源であり豊かさのバラエティーの1つのサンプルとして見るだけでもスピリット的には素晴らしい仕事を果たしていることになるのですから!!






だから隠さずに示していきましょう☆

そうすることで自分が探し求めているものと自分を探し求めているものという形で少なくとも2倍見つりやすくなるのですから!!






そして内なる恐れに直面して正面突破して解放してゆくという実例は実にスピリット的には愉快で爽快で素晴らしい表現であり見せ物であり娯楽のようなものなのですから!!




もっとスピリット的な楽しみや喜びの実像をたくさん結んでいきましょう!

いつしか信じられないほどの恩恵となって目に見える形になることもあるかもしれないしもしそうなったとしても既にそれらも神聖な幻想の1つであり神性に由来するものだという基礎であり奥義を見失うこともなくなっているのですから!






世界がその素晴らしさに気付くまで自分だけでもそれを楽しんでいればいいじゃないですか。自分が認識するものこそが世界のすべてなのだと知るのなら自分の認識のすべてを喜びと祝福で満たすことこそが地上の天国を生きるわかりやすい方法の1つだと









 


……どうやら伝えたいことは、



内なる恐れに直面してあらゆる出所を持つ感覚感情を体験して心が豊かになり自己が拡大することは、それこそがスピリットにとっての神聖さと悪夢が入り雑じる本来有り得ない奇跡そのものみたいな至高の達人芸であり何度見ても楽しく飽きないマジックだと、





なんかそういうことらしいです。



内なる恐れを自分を使って体験しそれがなんであるのかを理解してゆくことは苦行ではなくてスピリットの娯楽であり全霊を尽くすに相応しい至高の遊びなんですよ?




……ってことらしい。




これは“光が怖いと感じられるというような状態にある人間”=内なる恐れを認識している状態の人間にとっては恐怖するべき悪夢に感じられるようです。



理解したら、意味不明(笑)

理解できないと、恐ろしい!!





そしてそれがスピリットな自己として認識されると至高の娯楽なんだって。





私はそれにワンネスの愛と光を見ているのだということがわかりました。そしてワンネスの愛と光ってのが見た目にもわかりやすいいかにもな感じの愛とかピンクっぽい色として表現されてなくてもいいのだということがわかったのでした。






ちなみに、何かの閃きで色相をズラしてみたらこんな感じになるらしい。



イメージとしてはこれとか?

“色の違う同類”ってのが居たらこんな魂の色のをしてるということなんだろうか……


(自己の属性色じゃないと理解できてビビるくらいの鮮烈的で衝撃的なビビッドカラー!)

まず一番最初に思うのは
すごい色濃いっ!!ということ。

……他属性色の人間には黄色いのもそう見えるものなの???(゜Δ ゜)



なのでたぶん私はこの属性を自己に呼び覚まし獲得することができれば極性をマスターしたことになるんじゃないかと思った👍️✨

(どういうこと?)



ちなみに反対色はこういうの。

反対色っぽい!

(でも実際には圧倒的にこういう意識状態で居ることが多い気がするのですね)




……あれ、この技術を使えば存在するかもしれない理想のアンダラクリスタルの色をシミュレートできるということなのでは?



……そうなった時って、全く違う属性やエネルギーが見えるんだろうか?



ただの電子的な処理の違いにより生み出された文字通りの架空の産物幻想の極みみたいなものなのにそこに“力やリアリティー”を見ることができるのだろうか……?




もしそれが可能になるのだとしたら……?



精神世界超ヤバい!(*゚∀゚)💥
















今回は書き終わったのは

4時半過ぎでした(*ノ・∀・`)