どうやら記録によるとこのブログが前回更新されたのは6日のことらしく、まだあれから10日ほどしか時間は経過していないということになる。
……体感としては"かなり前"のように思えたり既に多くの時間が流れたような、かなり間隔が空いたように私には思えるのだけれど。
そしてその、
"かなり間隔が空いた"後に、
前回の自分ってどんなだっけか……???
とか思うくらいになった状態で、
それでも当然のように同一人物としてまとまりのわかりにくい話が再開されるような所にこのブログの味わいみたいな物があるのだろうなと、
客観的に思うのですね😌
そういうユーモラスとかユニークさなのかわかりにくかったりリアルでは全く披露する機会もないような心を解放させる遊びのようなことをするための場としてもこのブログは一定の価値があるのかもしれないなーと。
実際私は、探求者として志した物には一定の成果を得て、人生の折り返しというか方向転換みたいな物をした方がいい時期に既になっていたのだろうなという実感が追い付いてきているような
そんな感じもあるのですね。
まぁそういう意味では、
読み手がどう感じるかを予測してそれに合わせて書くなんてのは筋違い、とでも言えばいいような気もするのです。
そもそもこれはどちらかと言えば遊びのような物であり、どれほど真剣に必死に行われたとしても仕事ではないのですから。
まぁ、そういうのが私の人生だとか世界におけるリアリティーということになるのでしょうし、実際に放っておいても無意識に延々と思考されたり焦点が定まるようなキーワードみたいな物があるのです。
そして、そう、
何て言うか、
たぶん私みたいな感性の人間てのは同じような感性の者の表現を必要としないのです。
だって"間に合ってる"から(笑)
飽和してるから。
そうやって"時間"というか、
空間的隔たりじゃなくて、
時間的隔たり?みたいな感覚を進めてゆけばよいのですね。
それは何とも表現しにくいけど、
空間を移動するように時間的な距離みたいな物を進める か圧縮するような?
もしそれが変な表現だったり理解できないと言われたとしても少なくとも私が捉えているリアリティーなのですから。
私は自分に可能である範囲で最も相応しい表現を達成できればそれでよいのです。
最終的にそのすべてが内側に還元される物であるのなら最初からそれだけを見据えていられる状態こそが賢いのでしょう。
それを理解できている私なら思います、
私は基本的に言葉や表現できないような何かを感じて捉えている気がするし、たぶんそれらを体験して知ってゆくプロセスが好きなんだと思うのですね。
そのような感覚を持たない人間にとってはどちらかと言えば実際には派生系や副産物のような"作品"と呼べるような段階にまで落とし込まれてから初めて理解できるような物になるのかもしれないのですが、
それは私を通して可能になることで、
そして自分が本人であるのならわかりやすいキレイな結晶体よりもむしろややこしかったり全く一般的ではなくて尖っててマニアックで奥が深い面白さがあるような領域こそを大切にした方がよいのですね。
多かれ少なかれ物を作る、作り出すような人間てのはそんなもんだと思うのです。
それは最初から作ろうと思っていたわけではないとしても、何かよくわからないけれど感じ取っている物があってそれを追い求め突き詰めていく中で予想だにしない副産物のような物が完成したりそれが誰かに必要とされたり歓迎されるような物だったりする、
というのもこの世界の神秘のような物だと思うのですね。
そしてそのようにして完成された物にはある種の純粋さのような物が宿る……という表現でも間違ってないであろう何かが感じられたりするようなこともあると思うのです。
確かにこれは研究とも作品づくりとも呼べるような物ではないし、そのように考えると不都合があるような類の物です。
しかしまぁ、よくわからないけどなんとなく楽しいような気がする物ってのは結構悪くないむしろイイモノだと思うのですね。
さて、そのように一見して無秩序で意味を成さないように思えるような受信物を"検閲"せずに通過させるということもまたあるがままの肯定を示す状態でもあるような気もするのですね。
物は言いようですね(笑)
一挙手一投足に一喜一憂するようなやり方もあれば、今回の文章のような流れる物をそのまま流してゆくだけのような淡々としたようなやり方もあるのでしょう。
そしてどちらかと言えば、私という人間とは一喜一憂するよりも、とりあえず淡々と必要をこなしたり泰然自若とか超然とかそんな感じの表現の状態が本来的だったような気もしているのですね。
……ふむ、であるなら、
なぜ私はむしろ真逆とでも呼ぶべきような状態に陥っていたのでしょうか???
冷静に考えられるなら、かなり謎です。
謎なのですね。
なんで、
どうして、
そんな感じになってたんだっけ???
という感じで、
大きな"時間的隔たり"ができたような、
体感的には既にかなり多くの時間が流れたような、
そんな状態の私は思うのですね。
研究や調査、みたいな物は悪い夢に取り憑かれたような状態の私によってこの上なく進んだことでしょう(笑)
そんな物を見ないのなら私はそれらにほんの少しのリアリティーも見出ださないし、それらがあっても無くてもどちらでも構わないと答えることでしょうから。
まぁそういう意味では一喜一憂する神経質な私の方が人間らしいと言えるのですが、当人としては悪夢のまっただ中だから何も楽しくないのですね。
(……話をとばして……)
たぶん結論としては、
私はその時間的な流れの感覚とかリアリティーという物を消化して過ごすのが望ましい人間なのだろうと思ったのです。
たぶんそれが時間の流れに縛られるのではなくて逆にその流れに乗るというか有効活用するような方法論なんじゃないかと。
……
究極的に、
時間は打ち倒すべき敵じゃないし、
闘うのも不毛な類の物なのでしょう。
そして"時間"という物が自身の体感とリアリティーに合わせて展開されたり圧縮されたりするような物を意味するのなら、
実際の時計や天体でカウントするような時間の流れというのは無視して、自分が体感している時間の経過やリアリティーを時間として扱えばよいのです☆
何て言うのでしょうか、
たぶんその言葉の意味がわかったなら私は時間に縛られずに生きることができるようになるし常に何をすればいいのか存在する条件に迷う必要も無くなるのです。
私はそういう人間だったのです。
自分が存在するための条件とリアリティーを探し求めて生きてきたというのがかなり正確な表現なのでしょうね。
それがスピリチュアルなのかスピリチュアリティなのか精神世界なのか科学的説明に由来すればいいのかは知らないけど、
形としては絶対に抜け出せない時間の牢獄に囚われておきながらそんなリアリティーを全く捉えることもなく"普通"に生きることができる
んじゃないかと。
私の探し物ってのはそれです。
なんでそんなことになったのかはアレヤコレヤ言葉を尽くして説明することはできるのでしょうし既にこのブログでは済まされていますね(笑)
時計の針みたいな時間の流れが遅くてしょうがないってんなら、自己のリアリティーの領域で時間を極限にまで加速させるor圧縮させるor境界を薄れさせるみたいなことをすればよいのです。
その記憶とリアリティーこそが苦悩の原因なのですからリアリティーが変わればそれで全く問題ないのです。
外側の世界を変えようなんて発想はファンタジーとしてだけあれば良いのです。それを本物にしてはイカンのです。
これをそれらしく表現するなら、
"時間は心の中にあるから大丈夫"
という感じになりますか。
……そしてその簡単な言葉に辿り着くまでのあれやこれやな積み重ねられた想いや経験が何かしらの影響力を持つようになるとかファンタジーなことを考えたっていいじゃない。
その過程が無駄なまでにしんどくて苦痛に満ちていたなら今度は快感で楽しさに満ちている捉え方をしたらバランスがとれるってもんでしょう?(笑)
外側の時間が問題なんじゃない、
それが自分の手の届かない物だと信じていることが間違いなんだよ、
ってゆー感じのことなんだと思うの。
たぶんそれは、
"外側"つまり自分の力の及ばない領域にある物だと思ってるから一挙手一投足を管理しなきゃいけなかったり一喜一憂しなきゃならないってことになる。
そしてこれらは正しく理解されたのなら出典だとか所属分類なんてのもどれでも違いは生み出さない物だとわかる。
そうなったら、
スピリチュアルでもスピリチュアリティでもそれ以外の何かでもなんでも構わないってことになる。
ただ特定の表現や形が必要になった時に目的に相応しい形を選べばいいだけで、
そうなった時にスルッとその形を使いこなすことができるのかってのがどれだけ実力があるのかってことになる。
そして私たちってのは、
そういう時にスルッと涼しい顔をして無理をしなくても当然のこととして実現することができると示すためにひたすらに下積みと修練を重ねるような者なんだよ(笑)
そう、だからそれが当然のようにできるまでに経験を積み重ねられたなら一挙手一投足を監視したり一喜一憂するような状態を必要としなくなるわけで、
そうやって"マスター"になってゆけるということなんだね👌✨
というわけでその成長過程においては器が大きくて泰然自若な人間よりも、自らの器の小ささを恥じていてそれを何とかしてやろうという意志のある人間の方が"よく学ぶ"ことができるというわけ。
だから私は器の小さい感じの人間で、
やたら神経質で反逆的で偽悪的で、
なんか本来とはむしろ真逆だよね?
って状態だった、
という説明も筋が通るってことなんだね~。
それが
"器の小さい自分"の価値だね。
私はそのやり方しか知らないんだけど、
赦し、なんて物を本気でやろうってんなら世の中のすべてを憎み呪った後にそれらを自ら裁くことを取り止めてそんな悪夢である世界と自分のすべてを忘れ去るような状態になってゆくことが相応しいと思うんだ。
まぁ、
まぁね、
実際にその理屈で実践してみると私が生きてきたようなリアリティーを体験することになるとしたら、
そりゃアレだけどさ?(苦笑)
そしていつしか、
神聖さだとかスピリチュアリティだとかそんなことをいちいちいちいち語らなくても誰が見ても見てなくても見せても見せなくても当然のように存在の流儀みたいな物として身に付いたなら、
どうなるんだろうかね?
(笑)
もしかしたらそーゆー時期かなーって。
そうやって考えてくと自分の使い方もかなりよくわかるようになったんだなーって。
コツとしては、それを外側に見出ださなくてよくなるってことなんだと思う。
外側にあるように見えるから外側にあるであろう何かをなんとかしようとするってのは信じられないぐらい難しく、
ってゆーか不可能だし💥
そしてその不可能な理由が"幻"だっていう言葉の意味であるならその幻の枠組みの中で正解を証明するに相応しい方法論やそれを可能にする技術をコツコツと学び獲得していかなきゃならないってことになる。
それが私のしてきたことだし、
私がここに書いたことが理解できるようになったことこそがその成果というもの。
それらは完了され熟達するほどに単純化され特定の形を必要としなくなってゆく。
こうやって長い文章を書く、ということもやがては必然ではなくなってゆくという必然に気付くのなら、そういう時期ってのも悪くない体験だったのかもしれないなって、
そんなことを思うんだね。
そう、
最初は呪い嘆いていた何かが気付いたら全く別の物に感じられるようになっていたというのが私の言う時間的なリアリティーを圧縮して進めるってことなんだね。
いつかどこかの未来で必ず気付くであろうことに今気付けるならそのレッスンのための時間は必要なくなるし、それにリアリティーを見ないのなら時計の示す時間の流れが変わらなくても何の問題もないってわけ。
それこそがいつでもどこでもできること。
自分が存在するための条件として十分に相応しい物なのです。
ありもしない幻想の悪夢に取り憑かれてしまった人間(この表現はドラマ的だけど)ってのはありもしない悪夢に対処し最初から無かったはずの悪夢を消し去る術を学ぶことが必要になるんだよ。
そーゆーことなんだね♨️┐(´∀`)┌♨️
だから"そんなの"を見ない人間には意味を成さないし究極的には外側に違いを求めなくていいってわかる頃には何も気にならなくなるってわけ。
つまり"業"だねカルマだね(笑)
そして私はこれを外側に示しても示さなくても淡々と取り組んで進めていくというわけ。それが私に必要なことだし、理解するほどにその価値もわかるようになるし、
結果的に、誰かに対して合理的な説明をしなくても調和を保つという秘技を会得できるようになってやや特殊な生き方をする自分でもそれらが他人にも自分にも全く問題視されないあるがままで自然に幸せに生きられるという可能性が見つかるわけ。
私みたいな人間にはそれこそが何よりも重要な生きるための知恵というわけ。
だって、それだけあればいいんだもん。
それさえあれば外側がどうだったとしても常に必要としたリアリティーを保てる
……という解答であってるかな?
飽くまで自分を"わかってる自分"として扱わない。
それも私の方針です。
それを理解するのはもっと"先"の話。
そしてそれは時間の上にある世界の話。
そして自身としては確信をリアリティーとして実感できてるなら過不足なし。
今それをわからないのは自然なこと、
今それをわかってるのも自然なこと、
そしてそれは表現され得ないのも必然。
そーゆー何重にも折り返しがあるというか勘違いさせる罠が張り巡らされているというか(笑)
それが辿るべきプロセス。
それらの嫌がらせとか罠だと思ってた物があればこそ初めて真の姿(?)が理解できるようになるってゆー仕組みなわけ。
どんな何が見えたとしても一時の錯覚な悪夢でしかないとわかるなら見えるままにして進み続ければ正体が明らかになる。そーゆーブログを自ら書かされることによって私は延々とそのような経験を積み重ねてきたというわけなのです。
うん、だからね、とりあえずどれだけ混沌としてても進めばちゃんとした説明と答えがもらえるんだよ。
未知を恐れ立ち尽くすのか、
その中にあって知るために進むのか、
それが私に示されてる基本メニューです(笑)
正解は進む方だね。
現実が動かないなら心の中で進めばいいじゃない。そして心の中が変われば現実もそれを証明するって体験はファンタジーでとても楽しいのですね👌✨
いつだってそこから始まるのです。
だって迷い込んでしまった悪夢から抜け出すためにはそれが夢幻だったとしてもその中から始めなきゃいけないでしょう?(笑)
そしてそれは立派な"挑戦"なのです。
だからそれが数分や数秒毎に私に示され続けるのだから私は常に"やること"があるということなのです。
悩む時には必ず選択肢があるし、
悪夢を見てない時にはそんなの必要ない。
なんだろうね、
その"絶対に慣れることはない"悪夢が蘇る瞬間にどれだけ挑み続けられるかってのが重要なのかもしれませんね!!
結局なんの解決にもなってなくて草w
既に答えは出てるのに全く理解されてなくて延々と話が続いて草www
騙されてはいけない!!
それらもすべて紆余曲折のプロセスなのですから!!
実際の所、
延々と出てくるごちゃごちゃした思考が消え去るのが正解なのです。
それがまだ残ってる限りは"ここに書かれるはずのこと"として書いていかなきゃならんということなのですね。
……これをなんのためにやるのかって?
"次の展開を持ってくるため"だよ!!
それさえ達成できれば、
そのために途中で書かれた物なんてただの詠唱文みたいなものだからその意味をこまごまちまちま考えなくても良いのです。
どんなに長ったらしくても完成してしまえば1つの物なのです。
そう思わなくてもどうでもよくなればそれで終いなのです。
別にリアリティーを見出だしたいわけじゃない物に認識や注意が持っていかれなくなるだけでも素晴らしい解放じゃないですか。
なんかそういう霊的な法則的な自分が知りたいと望んでるらしい秘術を見つけ出したりそれを学び取ってゆくためには必然である物以外の判断や反応を省いて書かれるべきことが全部書かれるまで続けた方がよいのですね。
なるほど、
……という感じで
"とある"シリーズのアニメを見終わった私はそんなことを感じているらしかった。
一番影響を受けたのがパーソナルリアリティーという考え方。外側の世界を変える必要がない(不可能)なら重要なのは自身の内的な実感とリアリティーという考えに至るのは超自然なこと。
あと科学サイドの方が闇深いんだなーって思った。
たぶん今回はそういう話はあまり出さない類の記事なんだと思うんだ。この記事は趣味的な楽しさはほとんど無いけど学術的な楽しさというか面白さはあるんだね👌
そしてそう、
時間を操る術も持たず、
もはや自分を含めた外側の現実に干渉をしたり判断することが役に立たないのだと知るのなら、
実際の所このような形でも"進める"チャンスを逃す手はないということになる。
自分のリアリティーを進んでいけばいいというだけのことなら、何も理解が難しいということは無いし少なくとも常に挑戦権と判断する権利は自分にある。
たぶん、実際はそれだけあれば十分だったはずだと感じる。
ただ、外側にあるように思える物の根源となる物が内側にあってそれだけが本物だとかって感じの概念とリアリティーはすごく捉え難く理解しにくい。
まぁ、だからこそ1つも逃さずにあらゆる違和感や不快感に反応するような感性という資質を持つ小さい自分ってのが役に立つんだろうねぇ。
あれ、この記事の中では気付けないのかもしれない。。。
………………確か既にどこかで答えが………………
……
…………
………………
今それをわからないのは自然なこと、
今それをわかってるのも自然なこと、
そしてそれは表現され得ないのも必然。
………………自分を通して出てくる言葉だからって意味を理解してるとは限らないし、最終的に理解できるようになるって意味で本来のそれとは真逆の理解をしてることだってある。
ちなみに今回は"完全に認識されてない"って感じですね(笑)
仕方ないよね"みえない"んだから。
視界に映ろうが自らスマホをタップして入力してようが意識の表面には上がって来なかったんだよ全く(*ノ・∀・`)
……この話はそーゆー面倒くささがあるし
そーゆー親切さがあるとも言える。
だってその、既に答えである物が示されてるとしてもそれに気付かなきゃ知らないのと同じなんだから、
そしてその事実が明らかになるのはもっと話が進んでからのことなんだね。
確かにね、
そろそろ終わんねぇかなぁ、
話も長くなってきたし、
なんかまだおわってないような気がしないでもないけどとりあえず終わりにして寝たい所なわけで、
って思ってた。
今も思ってる(笑)
……外側の現実を変えない判断しないってことは今回これを完全に書き終わってから寝ることの方が優先されるってわけで、
もうそろそろ寝た方がいいんじゃない普通に考えてみたいな話は通用しない幻想ってわけだ/(^o^)\
そこにこの人生の難しさがある、
あったわけで、
しかし何やら心のリアリティー(?)を扱う術をマスターすることで条件に依らない調和みたいな物があるとか。
うーん、
てゆーか、
そんなに理屈をこねなくても
"何かさっきとは違う物がみえる……"って状態になれば成功だし、逆に言えばそうならなきゃ途中ってことなんだよねー。
だんだん投げやりになってくるというかテキストが消化されて素の自分に戻ってくるというか(笑)
あー、うん、そう、
今は秋から冬な時期なわけで、
この時期は色々と過去の記憶が蘇ってきたりするんだねー毎年。
思えば、20歳の始まり頃に夢見て憧れた生き方みたいな物ってのは相応に挑戦されて必要なだけ叶えられたし必要なだけ敗れたんだなーって思うんだ。
であるなら、30代のメインとなるであろう生き方みたいな物ってのが31歳である今の時期から見つかって定着してゆくってことがあっても何も不思議がないと思うし、
今さら考えてどうにかなるような物だとも思えないわけで(*゚∀゚)
"外側の現実"だし?
こうやって自分が次の状態に移行するために必要なすべてを文章としてこの場に残し、最終的にそこに見える物は完成品だけの状態にまで進ませることができれば私の役割は全うされたということになる。
最終的に私が示し受け取るべき物ってのは霊的な法則のリアリティーや実感みたいな物だから私がそれが見える状態になってればそれで完成なんだね。
それ以外の話ってのはドラマのシナリオ通りに解釈されて活用される手筈になってるから私が一時的な判断でその流れを変えるわけにはいかないってわけでそのままテキストとして用意された言葉がここには必然として記されていくというわけなんだね。
でも私は悔しい 気がするのでそれをこの場で明らかにしていくんだね(笑)
いや違うんだよ、
私が個人的にそういう考えをしているのではなくてここに書かれてることに限って言えばすべてシナリオに沿った物なんだよ。だからそれらに関して私は一切の責任を持たなくていいしほんの少しの判断もしなくていい。
言ってしまえばこれらは遥か昔の未来に既に完成された記録の再現でありそれゆえに今さら変更できない物なんだよー。
だからこれはわたしのせいじゃないんだよ
どれだけ回りくどくて意図的に罠にかけるようなわかりくい表現が採用されるからってそれは別に私の計略ってわけじゃないんだよー
って感じの裏事情みたいなことを説明できるだけで随分と気が楽になりますね😃
そしてそれはわかる者だけわかればいい。
わかるのもわからないのもシナリオ通りってことなんだから。
そして私みたいに悪夢を隅々まで見て回るなんてことをした物がその世界において聖なるなにかとして認識される本来は普通である物を知ることになるのも必然。
まだまだかなり認識のズレとか調整が必要な所はあるけどだいぶ理解は進んでるみたい。
でもこれは趣味の話でもなんでもないから別に覚えていたいとも思わないだから終わったらこの記事のことは忘れてしまおうそうしようと私は思ったのだった。
ここら辺って延々と言葉遊びになりかねないんだね。人の数だけ表現が生まれる類のやつなんだね。
……であるなら、
むしろ最も自分らしいお気に入りの表現を探して楽しむくらいの余裕があってもいいんだろうなって思いました😌
しかしこの記事ではそこまで辿り着かないのである。