そうして私はいつしか自分をこの世界の外側にあるものであるかのように扱うようになったと感じている。
それはいい、それはわかるんだけど、
私はいつしか諦めグセのような物がついてしまったのではないか?
そのようなことを思わずにはいられない。
私には何ができるのだろうか。
世の中からコースアウトして、もう何かの目的や現実的な願いのために生きているようにもあまり思わない。
死んでないから生きる、
今日が終われば明日があるから生きる、
生きることが許されるから時を過ごす……
私は随分とわかりにくい人生になったものだと思うけれど本質的には非常にシンプルになっただけだとも感じられる。
……今さら、戻りようもない。
普通の人生とはなんだったか。
役割があって居場所があってそれが世の中との接点であり仕事だった時間、
今さらかつて見ていた人生観や世界観に戻ることなんてできるわけもない。
今ではそっちの方が非現実的で有りもしない可能性であり幻に過ぎないのだから。
そんな自問自答をしている私は、しかし過去に戻りたいわけではない。
過去に戻っても仕方ない。
この人生でそれは何の救いにも解決にもならない物だから。
しかしそう、
生きてれば思うことがある。
時間を生きる中で日々感じたり考えたりすることは無数にあるし、無駄なことは考えないで意味があって価値があることを私は考えたいしそのために時間を使いたいんだ。
あるがままを受け入れること、
それは状況なのか、
それは心理的な物なのか、
それらではない何かなのか。
私は自問自答を繰り返しいくつもの疑問にいくつもの答えを出してきた。
……しかしそれは日々繰り返されることだし話が進めばまた別の疑問が生じそれに対しての答えが必要になる。
わたしはそれを思わずには居られないし、
それを受け入れずその道を進まないことは自分には相応しくないと感じられる。
だから私は日々自問自答を繰り返すに違いないし、そのようにして進むことが可能になるのだとわかる。
私はそれを行うことによって、自分が繰り返しのような退屈な世界に閉じ込められているのではなく今を刻むように存在し生き続けているということを知ることができるし、簡単に忘れてしまう大切なことも思い出すことができるようになる。
……それなら、はっきりいって、
これを行わない私の人生には大した価値などないと言っても過言ではない……そのようにも感じられる。
私の人生は特殊な物ではない……私はこの人生それ自体は平凡で普通な物だと思っているけれど、自分の意識や思考の様式……メンタリティやスピリチュアリティといった部分が非常に扱いづらく面倒だったりその分だけ理解できれば面白い物だったりすると思っている。
だから、この人生を表面的に見るのなら特筆すべき価値はないし、私はそこに特別さ特殊さを見出だそうと思ってもいない
らしいのだ(笑)
それは自分の思考や感覚でありながらすぐには理解できなかったり受け入れられなかったりすることが多すぎるんだよ。
……なら調べたり探ったりするしかない。
私みたいな人間は言うだろう。
あなたも私と同じ人生だったら必ずわかりますよ、
とかそういうことを。
………………だからといって、そのような言葉が心なんだか頭なんだかに浮かんでくるからといってその言葉が意味する物が何であるのかもわからない。
わからないことばっかりなんだよ。
生憎と私は直感だとか感覚的なものだとかそれだけで理解し納得できることは非常に少ない人間なので、それらについて探り理解することを求めずには居られない性分らしい。
……だからこのような記録が生まれる。
なぜ自分はそれを行ったのか?
それは自分の意思なのか本物なのか見せかけの物なのか、
そこには何か意図があるのか、どのくらい連続的に仕組まれた物なのか?
……もうそんなことを考えずには居られないんだよ。
何か理解できない人間の動きだとか反応なんて物が現実として起こったりそういう出来事に直面したならその裏だとか内側だとかに隠されてたり秘められてたり意図されてることだとかを考えずには居られない!!
じゃないと意味不明すぎるんだよ!!
なんのために不調和が生まれるのか?
なんのためにズレや乱れが生じるのか?
それはなんのために?
それは一体どんな意味や価値があって選ばれた物だというの!?
それを知らずには居られないんだよ。
だってそれは、正しく理解できたなら不満や怒りや恐怖や欺瞞を見なくてよくなる物だったとしても、正しく完全にできるまではよくわからない曖昧で不明瞭な物なんだから。
私は心安らかな想い以外を自分が感じていると気付くならそれを無視できないし、自分の中に何か知るべきだと感じる疑問があったとしてもそれを無視できずにこのようなプロセスを通して知ることを選ぶ。
それはもはや習慣になってしまった。
もはや無視できないんだよ。
なにがあなたをそのような行動に突き動かすのですかと問われるなら、
無視できない何かしらの感覚があるから
って答える。
それだけなんだよ。
気付かないならそれでいい。
でも勘づいて気付いてしまったのなら無視することはできない……それは不可能だと知ってしまったから。
だから疑問には答えを出さなきゃならないんだよ。そうしないと心穏やかでは居られないのだから。どうせいつかそれをやらなきゃいけなくなるんだからそれなら今すぐにそれを行った方がいいんだよ。
後回しにすることに意味はないし、
その本質が外側の現象による物ではなく自分が感じ取っている無形の領域にある物だと知るからこそ後回しにできないんだよ。
……強いて言うのなら私にはそのような物に気付くセンスがあったのだろう。
それゆえに私は無視できない疑問や違和感に非常に多くの機会で直面することになるんだけれど、それでも1つ1つに決着を付けていくのならやがて終わる……とは限らなくても疑問は減ってゆく。
その果てしない自問自答の果てに分離の幻想という1つの枠組みでそれを一掃できるようになるのだとしたら、それは確かに才能でありギフトと呼べるもの。
……正直その使い道はわからない……というよりもすっごく理解しにくい。頭では直接的に理解することは不可能である物を結果的に実際にどうやら理解したらしい状態にまで持っていくにはそれなりのやり方が必要になってくるものなんだよ。
欲しいのは手段であり結果なら、
やり方は重要じゃない。
唯一、望んだ結果が実際に得られる方法こそが正解と呼べるものであり、その方法こそがコレということになる。
目的のためには正しく手段を選ばなきゃならないし、望んだ結果が実際に得られるのであればそれは間違いなく正解なんだよ。
だから本当は何を望んでいるのかということを知ることこそが何より重要になる。
その結果として、
このような果てしなく長そうな思考のプロセスを辿ることも、一時的な混乱や混沌とした想いをトリガーとして積極的に受け入れ活用することによってその答えを得るというやり方も必要になる。
どうやらこの世界の構造というのは非常に面倒くさくて遠回りで複雑で混沌としている物らしいので、その中を生きる自分もある程度そのやり方とかルールに沿うことが必要になるらしいんだよ。
だから最初から賢明にやれないし、
最初から答えにも行き着かない。
長く長く紆余曲折することもあるし、
一度は完全に騙されて間違えるということだって起こってくる。
しかしそれが正解のルートだったりするしそのような紆余曲折が無ければ成り立たないようなストーリーだったりする(笑)
この世界は現実としては最低だと思う。
でも、ドラマとしてなら上出来でアップダウンも必ず入ってきて退屈な物ではないというのも間違いないと思える。
私はきっとそのようなことを考えずには居られない人間なんだと思う。リアル中2の頃にも延々と世界の分岐や運命論について考察し考え続けていたことも思い出したし🌠
私にとってはそのような世界観や人生観というのは当然のものなんだよ。
分岐も分離の幻想も最高最善の概念も通用しない世の中の視点なんて知らんよ。そんな物は舞台に過ぎないし私の人生ではリアリティーの薄い世界観に過ぎない。
たとえどれほど混乱していたとしても構わないしどれほど落ちぶれて無様な自分だったとしても構わない。そのような認識を通過することこそが必要であり済んでしまえばそれらは一時の夢に過ぎないのだから。
だとすれば私は、そのような性質を持っている自分としてどこに何に対して価値を見出だすのだろうか?
私が求める物は外側に現れる物であるのかもしれないけれど、それを感じ取り見つけ出すことができるのは私の意識であり心であることは間違いないんだよ。
それを知ってるから私は現象を見るんじゃなくてそこに映し出されている自分の想いだとかを見ているんだよ。
実際それしかできない。
私はもうそれを忘れることはできないから。
自分の感覚や意識という内側を認識せずに外側の現象を見ることはできないんだよ。だってそれらを知覚し感じ取っているのは私の意識なんだから。
だから今の私の思考は標準設定でそこら辺の領域を見ているんだろうよ。
なぜそうするかと言えば、
気になるから。
そしてそれを無視すべきではないとはっきりと理解しているから。
だから私はその生き方を選び続ける。
もはやそれを変えることはできない。
それは私にとって呼吸をするくらいに自然なことになったのだから。
だから私はそーゆーことを延々と無意識のレベルで思考し続けるわけ。そして時間の経過に合わせて確実に理解を深めてゆく。
どんな人間でも、どれほどの才能があったとしても、それに興味を持たなくてはその力を生かすことはできない。
逆に言うのなら、好きではなかったとしてもそれを忘れられず無視できずに放っておいても無意識に考え続けてしまう何かがあるのだとしたらそれは類いまれな才能と呼べるものに違いないのです。
それに興味を持ち続けより深く知るために時間を使うのなら、限られた時間の中でそれを行わない人間よりも圧倒的な成果を得ることができるのは必然。
だから私もこれを延々と考え取り組み続けられることを才能として受け入れようと思い始めている。それは名前も付けにくいし説明することを考えると非常に面倒な気分になったりするものだけど、当然のように自分の一部みたいに共存してゆくようなものであるのだからなるべく気分よく望ましく価値ある物として受け入れ活用してゆく術を模索することこそが賢明で現実的だと言える。
実際わたしはそれを成し遂げていると言えるし継続中でもある。
そう、ただ1つ、
それを誰か他者に対して説明したり理解させたりすることを考えなければ、自分の内側で完全に調和し永遠に循環する輪のように完結させることができるのだから。
あぁ~、うん、
私みたいな感覚や思考をしてる人間てのはたぶん世の中に存在しているだろうし有名な人間として過去にも存在していたに違いないと思うんだよ。
彼らはどうやってバランスを取ることができたのだろうか、そもそもバランスを取ることができたのか?
どんな分野やジャンルにそのようなセンスを持つ者は現れやすいのか?
スピリチュアルという物を良くも悪くも特別視する必要がなくなってそんなことを思い始めている。
これを行うには何より無意識の抵抗感みたいな物を越えてゆくのが難しいし、幸いにしてこのような意識や取り組みやセンスというのはスピリチュアリティの領域では実に有用で価値ある資質として役立てられるのです。
そんな私は理解するのです。
そもそも私が理解していることよりも全然わかってないことの方が多すぎるんだからうまく説明できないのは当然です。
という立ち位置を取ること!!
人間の能力なんて限られてるし、
知るべきことしか知れない。
それは不備なんじゃなくて意図され仕組まれた制限なんだからどうにもならない。
それは事実。
……これは全く無駄じゃないし、連続して積み重ねてゆくことに意味がある。ただそれは生涯取り組み続けるような物だから今の私みたいにすぐに結果が出たり自分でも理解できるようになったりして欲しい人間にとっては持て余すようなもんなのです。
だから偉い人は言うのですね。
理解しなくていいから、
今はそれを続けなさい。
やがてわかるようになるから。
……そーゆー時に師という者があれば導き守ってもらえてよいのですけどねぇ。
本質としてはそれを教えるのが他者でも自分でも全く変わらないんだからもう教えてもらうという形にこだわる必要ないでしょ、
とか言われそう
そうなんだけど、
そうなんだろうけど、
そうなんだろうけどっーー!!
……なんてゆー、愚かしい~感じの思考だとか想いだとかってのは、いつかどこかで満たされて卒業してゆくからこそ初めて必要としなくなって現れなくなる物だから、
その"いつか"こそが今なのだと、
……そう知ってゆく時期なんだろうなって。
もしも私がなにか賢く霊的に進歩した人間に見えるようなことがあるのだとしたら、既に人並みの過ちや勘違いを経験し終えているからそのような体験を必要としない状況にまで進んできたからこそなのです。
そして私は今も無用な苦心を終わらせるために一生懸命なのですよ。今やるか後で済ませるかの違いだから今終わらせてしまいたいと思っているのですね(笑)
ってわけで無様で愚かな自分は全部ここに置いていくんだぜ👍️✨