否定ではなく肯定を。
在るがままの自分を選ぶのなら、それを否定するすべての否定という概念と在り方を完全に消し去ってしまわなければならない。
それは少し、簡単なことではないように思える。なぜなら私はこの人生の半分以上を否定を原動力として生きてきたのだから。
そして、私が経験した出来事や今ある人生の結果とは、否定の先に作られた世界でもある。
でも私はもうそれを悔いてはいないし、それ自体を否定する気は一切ない。だからこそ私は理想の自分や人生のためにあるがままの自分や人生をすべて否定しようとしてきたことを認める。
それこそが私の願いだったのだから。
在るがままを否定する私が、一体どうして本当の自分として生きていられるというのか。私はそんな簡単なことにさえ気付かないほどに、否定の上に成り立つ世界と理想を必要としていた。
それなら、それを選ぶことで導き出された私とは本当の自分でないことは当然なんだよ。
そう、だから私は否定を必要としない自分の在り方や世界がどのような物か思い出せなくなっているのかもしれない。でも否定という在り方が何のために選ばれたのかを思い出せるのなら、それらすべての否定であった意思を、本当の意志とへと浄化し解き放つこともできるのだろう。
それは何も特別ではない力。
特別ではあったとしても誰しもが持ち得る、そんな神聖な力。
私がこのことをどれほど理解しているのかは大いに疑問ではある。でもこの先には否定を持ち込むことはできないと知っている。
だから私が願い叶え体験するという在り方をここまで残して後回しにしてきたのは正しい選択だったと確信している。私はそれがわかる自分になれたのだから。
そしてもうそれらは時効なんだよ。
だからしがみつくこともできない。
いつだってこの人生とはそのような流れの中にあるのだったと思い出させられる……その時こそ、偽りの自分と世界の終わりなんだ。それらはすべて一時的な振る舞いに過ぎなかったのだからね。
だから次の物のためにスペースを空けておこう。
それで完了だよ。