愛する幻想ほど聖霊に差し出した方が幸せ。説 / 幻想じゃなくて本物を望む者はそうするのですよ。 | ついにノンデュアリティの恩恵や救いを得た私が実際に幸福で豊かな人生を目指してゆくブログ~

ついにノンデュアリティの恩恵や救いを得た私が実際に幸福で豊かな人生を目指してゆくブログ~

14歳頃に霊性に目覚めた私がマスターの魂と内なるビジョンに引きずられあるべき未来へ逆走してゆく聖なるストーリーを開くための記録だったものの続き。今ではすっかり玄人向けでノンデュアリティスピリチュアリティ要素や前提知識超多め注意★


以前2つの本を買ったと書いたけど、もう1つの方を昨日……今日寝る前から読み始めた。
この本です



2章くらいまで読んだけど、この表紙に書いてあることは正確だと思いました。まさしくこの本はスピリチュアリティを扱った本で、そうでありながら精神世界的な幻想の知覚……心の投影としての形あるこの世あの世のすべてについて簡潔に明快に答えられています。
これが読める状態になっていれば、これほどわかりやすく無駄のないスピリチュアリティの本なんてないんじゃないかと思えるのです。

この感じは9年前、二十歳の頃に読んだ神との対話と同質のもので、あちらを入門書とするならこっちではそれらを体験して修得したことを前提とした話ばかりが記されています。これが読めるようになる頃にはもう十分学びを修められて、来世とか前世とか次の人生とか卒業とかマスターとか、そういったものを人間として一つの人生を生きる間にどのように受け止め何を見て今この瞬間と人生を生きていけばいいのかという必然の疑問にわかりやすく答えてくれてます。


そんな中で思い出すことがありました。


手放すというのも概念であり、分離に基づいた幻想の一つなので、手放すということは本質的には不可能で、手放せるものなどないのです。それゆえに、幻想であるものを手放すことによって初めて既に持っていたものを思い出すことができるようになるのです。これはこの世界的には受け取るという言葉で表現されるもののことです。

だからスピリチュアルな意味で受け取るを意味する時には、同時に与えることだとか手放すことが必要だと言われるのです。それらは既に完全に与えられているという真実があって、それらを完全に受け取るためにはそれを与える天の主である神という実体が必要になるのです。別にそれをなんと表現してもいいのですが、そのような見方で既に持っているものであり、幻想ではない豊かさを受け取ることができるのです。

それゆえにこの世界で言われるところのお金と呼ばれる数字の並びや、丸い金属だとか紙切れである物は、それらの代替品となる空の器でしかないのです。それらを正しく扱う時にそこには実体が映し出されるのです。
そこら辺についてはこの本でも、すべての形あるものは心の投影として詳しく説明されています。でもこれらはすべて体験しなくては意味のない見えない世界の話。それゆえに私はこのようなことを正しく理解する必要はほとんどの人間にはないと感じています。

それでも私のように、真実であるものを知って、過去や未来である幻想も知って、それらの上で、今この瞬間にどのように自己を生きればいいのかを知ることを必要とする人間は確かに存在するのです。そんな人間にはこの本は役に立ちます。

どうしてエゴを選んで幻想を生きることが無駄になるのかについて簡潔に本の中でも説明されていました。特に極めて具体的な形でどのようにして学びが死後の世界や次の人生になる過去世や来世というものに引き継がれてゆくのか、それはどのような感じのものなのかが記されていることがとても興味深いと感じました。



そして私はこれらすべてをどのように扱えばいいのか全然わからないので手放して聖霊に完全に任せることにします。私がこれらを誰かに教えるという時にどうすればいいのかも、今これが書かれているのがなんなのか、どんな意図や連続性があるのかも知ることはできないのです。私には全然わかりません。

それに、確かに赦さずに否定したり裁く理由をいちいち考えるのは面倒で時間の無駄でしんどいだけだから、無条件に赦す方が本当に楽な生き方なのだと気付き始めています。幻想の存在する心の中以外のすべてが投影に過ぎないというのなら、いつかは幻想を見る心を癒さなくてはならないのですから。そしてそのいつかが私には来たとわかるので、根源となる幻想を赦すことを選ぶことが楽になってきたのです。



私はこれらを誰かに教えたいのかなど、ほんの少しでも考えようとするとわからなくなってしまうので、それは嫌なのでひたすら聖霊に質問してわかるようにしてもらいます。
私はそんな自分の在り方が本当に相応しいものかこの一年半ほどずーっと疑問だったのですが、自分以外の人間が喜んで聖霊に質問して信頼して答えを受け取る有り様を知ることができるのは本当に救われます。



ただ、私はまだ完全に心を定めてはいないのだとわかります。だから私は迷い葛藤します。それがほんの一瞬であっても、完全ではないのです。
やがて私も聖霊の目的だけを自分の意思と実体と証明として受け入れるのでしょう。それらが必ず実現されると気付きながら、喜んでそうなるまで分離に基づく時間の幻想を赦していきたいと思うのです。

……そうやって使えばいいのですねこれは。
究極的に、ひたすらに赦して赦して赦しをひたすらに繰り返していくだけになるのでしょう。それは以前ほど必ずしも虚無な生き方だとは思わないけれど、私はまだそれらの価値と喜びをあまり知らないのです。だからそれだけで生きてゆくに値するのだろうか……などと思うのです。
そしてこれらもまた、完全な確信ではないので、幻想の投影なのでしょう。だからこれらも赦させてもらいます。私は正しくその意味を理解してはいないけれど、赦しを与えることで私は赦しを与えられ受け取り、幸せに生きてゆくことができるようになるのです。
たぶん、神聖な神の子としての本当の自分に相応しい体験をするためにはたった一つの幻想と無限に思える投影の世界を赦すという在り方だけで十分なのでしょうね。だからこそ見るもの見るものを赦して生きるのです。それは投影された結果ではなく、原因となった幻想を癒すものだからこそ本当に癒されるのですから。


本当に癒しを求める者にはこのことを知ることはまさに救いとなるでしょう。




いい加減に私でも、幻想というのは神から分離してしまったという錯覚なのだと理解できるようになってきました(笑)
だからこれまで私が言ってきた幻想という表現は適切なものではなかったのです。なぜなら私は、いわゆる幻想を見ている心が映し出された形あるものでありこの世界の姿形を幻想と呼んでいたからです。だから私は幻想は一つだけだと言われる意味が理解できなかったので、無限の投影であるものをわからないまま幻想と呼んでいたのです。


でも、幻想は神から分離したというたった一つのの思い込みだという表現は正しいのでしょう……なぜならすべての幻想の投影であるこの世界に見る問題や罪は本当にその心にある幻想と罪悪感を実在しないものと知って赦すことによって消え去ってゆくと私自身が体験しているからです。

この意味に気付いてしまったなら、あたかも無数の幻想があるという振る舞いは決してできなくなってしまうのではないでしょうか?
この本の中には、見ることが思考することだという話があったのですが……残念ながらそれはまだ私には言葉で説明できるほど理解は得ていないし、むしろ現状では全然わからないくらいです。

でも多分、そのような理由から自分が何を見るのかというものによって、幻想か実相かを証明することになるのです。私たちは見るものに基づいて考え、それを信じます。だから幻想と気付かずに投影を見るのなら、それに基づいて必ずエゴが見るように反転した望まないものを信じる幻想の世界を体験することになるのです。


正しく学ぶためには聖霊を選ばなくてはならないのです。無意識にでもそれができるようになるまでは、本当の意味では癒されず、学び損ねた経験を次へ次へと引き継ぐことになるのです。
聖霊なんて得体の知れない者を頼るのは嫌だと感じられることがあったとしても、それでも幻想の中を何も見えずに歩き続けるのは嫌なのです。


聖霊なんて得体の知れない何かを頼るのは嫌!

……そう感じるのも、神から分離したと信じているがゆえの罪悪感というたった一つの幻想が本当の原因なのだと言うなら、私はそれが知りたいと感じるのです。たとえ私にはそれが理解できないのだとしても私はそれを知りたいと感じるのです。そしてその意思が本物となりそれらがすべて本来の自分のものだったと気付く時、その幻想は赦されたと言えるのです。

きっと私はこの人生を過ごす間に、無限にも思えるけれど、たった一つの幻想の投影となるものに遭遇し続けるのでしょう。私にはそれは理解できないとしても、それでも私は苦しみを握りしめたくはないし、救われたいのです。だから私は基本的にこれらのプロセスを繰り返すでしょう。赦しが当然となるその時まで、私は何度も葛藤しながら幻想を手放すことを選び、赦すことを繰り返していくのです。。。


もちろんこれだけでは無意味で無価値で色のない世界の話にしか思えず退屈に見えます。でもそれも幻想のバリエーションの一つ。
実際には受け取るという概念で説明されたように私が与えられていないすべてを手放すことによって、私に与えられているらしい完全さを思い出してそれを証明して受け取ることができるのです。そしてそれらは神より与えられるものであり、それこそが自分のソースとなるもの。それを否定するのであれば自己の実体も否定されることになってしまい、結局完全に与えられているはずの豊かさも受け取り損ねてしまう。。。

それは私の願うものではありません。だから私はそれに気付く限り必ず選び直します。


そして私は自分にどれが本当に神より与えられた豊かさであり実在するものなのかがわからないのです。だから知ってる聖霊に教えてもらいます。そしてそれは、幻想と思えるすべてを手放してゆく中で結果として残ったものこそが私に与えられた現実であり、それこそが私のためだけに与えられた特別な神聖な幻想とでも呼ぶべきものなのですよ。


そこで私がこれまで一人の人間として追い求めてきたものが返されたり、幻想として消え去ったりする様を見てきました。私はどれが本当に自分が生きるに相応しい現実であるのかを知りたいのです。唯一の実体である神が意思するものは今も完全なままで、それゆえに今も私に意思される完全な在り方と実像としての自分が必ずあると感じられるので、それ以外では決して満足することはできないと知っているからです。


だから私は幻想では決して満たされないと知っているので、ひたすらに赦しを繰り返すのです。



これを知った者は分離の幻想の投影ではなくこの世界でも実像を求めるし、神と分離してしまったという幻想ではなく今この瞬間にも完全な一体のままだと知らずにはいられないのです。


これがスピリチュアリティを学ぶ理由のすべてとなるものでしょう。そしてこれこそが輪廻転生の中で見出だされ気付かれ悟られ、そこで卒業してゆくというものなのですよ。
私もマスターだからわかるのです。


もちろん私はマスターだ、ということも自我の私には本当かどうかはわからないし、それをどんな風に扱えばいいのかも全然わからないし、そんなこと考えたらビビってしまうので、それらもまた手放して聖霊に預けるのです。そして自分がマスターだというものが本当にこの人生で相応しい実像であるのか、有りもしない幻に過ぎなかったのか知ってゆくのです。

うん、だから正確には聖霊と共に生きる私はマスターだということになるかもしれません(笑)

それを自分のものにしようと奮戦してみたけれど無理です。幻想の自分には過ぎたるものだし、何より神聖さとは恐ろしいものですから(ヾノ・∀・`)ムリムリ










もんのすごーく個人的で現実的なレベルでは、今の私は晩ごはんをどうしようか考えているのですが、当初は買い物に行こうと思っていたのですが結果的にはこれを書いててそのタイミングもなくなりなりそうで……それも幻だったのかなと感じているのです。
というのも、買い物にいかないと十分な食材がないような気がしていたのですが……いやでもそれもつまり、私には完全に必要なものが与えられていないという意思でもあるし、それは更には、神が意思されたままの完全なままの自己でも世界でもなく不完全さを自ら選んでるというわけで……。


…………晩ごはんどうしよう問題とでも名前が付けられそうなこの日常的なレベルの思考一つとってみても、赦しの機会と学びは与えられているのですよ。

………………マスターとして生きるって、具体的にはそういうことだと思うよ。今ある経験を通して何かわからないものを見た時に、必ずエゴから抜け出して聖霊と共にあることを選んで、それから当然のように赦して神聖な神の子として相応しい在り方を保ち続ける。
その素晴らしさとか価値とか絶対性とかはやればわかること。っていうかそれがわかるなら遅かれ早かれ訓練してマスターになるってことだから。

究極的には誰もがそうなるわけだし。
……それもあって私には持て余すものなんだよ、自分がマスターって話は。あぁでも聖霊と共にあるなら誰もがマスターなんだろうよ、その瞬間には

ブレずにそれが保てるようになってるからマスターなんだっけ???


いずれにしろそれは正しく扱えないと危険な刃物みたいなものだから、聖霊、必要。



ってわけでわからないボクはそれを喜んで差し出すよ。どうか祝福と共に私へとお返しくださいってね。そうやって聖霊と共にあるマスターに相応しい私が受け取れるわけだからね。
だからなん~でも聖霊に喜んで差し出して識別してもらうといいよ。特にお気に入りの幻想であるものが、本当に神に意思される自分の生き方に相応しいものなのかがわかるからね☆


私の場合はマスターって言葉以外にはツインソウルとか無限の豊かさってものになるかな。それらは本当にお気に入りの愛すべき幻想だから実像であってほしいと心から願うよ。きっとそれゆえに私がそれが本当に自分のものとして相応しいギフトとして最初から持ってるって気付いてゆくだけなんだと思うんだ。形ある世界ではそれは時間がかかるけど、スピリットのレベルでは既に持っていると知っているならそれを見つめて生きていけばいいわけだから。確かそれこそが真の豊かさだった気がする。

形があろうがなかろうが既に完全に自分が持っていると知っているなら、それを体験しないわけがないんだから。状況には関係なくそれがその人には見えるってのだけは間違いないし。

あ~、それ以上のことはわからないから進歩したマスターに聞いてください(笑)










実はスピリチュアリティとか本質を見ている時には文字も色分けしなくていいという事実に私は初めて気付いた!!
なぜなら色を付けるのは私の嗜好であるところが大きいから、余計な分離の幻想を差し挟むような余地を増やすことは望ましくない、という理由から今回は自粛されました

ヽ( ・∀・)ノ祝、自粛!!