今日も走ることをした。日課にするつもりはなかったけれど、どうやら今の私は走るということをしたいらしい。
前日、聖なる関係というものに意識を向けることによって、家族や家庭に見ていた闇は薄れ、今日は少し、言葉を交わしたり関わる機会があった。
そして私は本を買った。聖なる関係について書かれているらしき本。
そして私はついさっきまでそれを読んでいた。そんなに多くは読めなかった……何しろ"聖者"の話というものを本でも読む機会はこれまで一度もなかったから。チャネリングで高次とか光の存在が語っている話は無数にある。それでも、一人の人間として実際にこの現代の地上世界を生きて見てきた聖者の言葉なんて知らなかった。
こんなことが書いてある。
私が常々導かれたり自発的に考えたくなったりするような、スピリチュアリティと呼んでいるのと同じものが書かれている。
愛と光という聖なる関係に根差した生き方だとか子供の教育の仕方だとか、そんなことが延々と記されている。
私はそれを読んでいて辛さを感じた。
さすがに聖母のアバターと呼ばれる人の言うことは違う。それに少なからず私自身もそのような認識と理解へと変容を見てきたから理解できることも多い……それでも、未だ決着がついてなくて納得もできてないような話がたくさんある!!
それらが正しいとわかる……でも、今の私にはそんなものは超人にだけ可能な理想論にばかり思えてしまうんだ。……それが辛いんだよ。
今の私はそれらを素直に聴けないし頷けない。
もちろん心ではそれらが自分の本質に一致したものだと感じられる。それでも、それらを否定したり恨み言を投げつけたりするような思考ばかりが出てくる状態なんだよ。
それが悲しいような情けないような……なんだろうね、でも慈悲ってそんな感覚だったかもしれないなってものを感じてることに気付き始めた所。
愛と光な言葉に触れると、いわゆる好転反応みたいなのが起きて、寂しさだとか嘆きだとか失望だとか怒りだとかが浮かび上がってくることがあるのだけど、まさにそれを感じたのだろう。
最初はとても心地よくそのエネルギーに触れているのだけれど、そのうちなぜだか不愉快な想いがこみ上げてきて、愛と光の言葉と思っていたはずのものに嫌な感じがしてきたりして。
今の私には時間が必要なんだ。
……究極のパートナーだからこそ信じられ越えられたと思っていたものを、家族にも当てはめるなんてまだまだ理解できないし何より認めたくない!
私たち二人の神聖な関係は特別なものであって、それを家族なんてものが入り込める余地なんてあるわけないし、それら2つが同じレベルにあるなんて絶対に有り得ないし私は認めない!!
……って潜在意識ではすごく強く思ってるみたい。
(  ̄ー ̄)
わかってる。それは、正しくない。
それは私が真に望むものでもないし、パートナーの本質だってそれを望まないものだ。
でも、その想いに私はまだ明確な答えを見出だしてはいないしケリもつけられてはいないのが現状なんだ。それを否定したり偽っても意味はないばかりか、それこそ望まないものを証明してしまうことになる。
だから現時点でできることは自身の心に従い、感じる想いを素直に表現し、解き放つことだけなんだ。
そのためなら偽りの自己だって"お前は何も理解していない"というそしりだって受け止めて進んでやろうじゃないか!
……偽りの自己を解き放つために、その偽りの自己を否定せずに受け入れること。それがどれほどに理解しがたく長い間ずっと受け入れることが困難なものであったことかを私は知っている。
でもだからこそ私はそれが自分にだけ可能となるものではなく、他者にも同じように見過ごし解き放つことが可能になるものだとわかるんだ。
それは、誰かが苛まれ悔いていたり怯え続けてきたものを、そんなものはどこにもないし私には完全に見えないと存在のすべてで教えてやること。
それが悪夢に取り付かれた人間にとってどれほどの救いとなることか!!!
実際に私はそのような愛と光の使者を強く求めていたし助けられたことも何度もあるし、自らもその役割を果たしたことがあるということにも気付いている。
それなら、一時的な偽りの自己としての振る舞いも一連のものとしてその先まで見るのなら、残されるものは愛と光である神聖さと本質だけになるということは当然のように理解できること。
私がこの10年ほど、何度も挑み敗れてきたものが偽りの自己をただの影として見過ごし繋ぎ止めずに解き放つという叡知。
もし私が、それを完全に理解するのなら、それをまったく同じ意識の中で、自分以外の他者に対しても示すことができるようになるのだろう……。
それはきっと聖者としての基本的な一つの在り方に違いないのだ。すべての幻影に過ぎない不完全さを見過ごして、本質の愛と光の神聖な存在として誰かを見つめることができるのなら、その人間はきっと聖者であるに違いないのだから。
きっと私はミスもなく完全さを失うこともなくここまで進んできたのだろう。でもそれを知ることができるのは、完全な自分だけ。
それでも、状況という幻にとらわれずに本質だけを見続けることはきっと可能なんだ。それだけが不完全さと違和感に苛まれ続ける悪夢のような世界から抜け出して本当の自分と世界を生きてゆく術に違いないのだ。
ただそのためにはすべての偽りの自己として当然のように現れ表現されるものを見過ごして、その先にあるものだけを見なきゃいけない。更にそれが呼吸をするように可能になるまで、一つ一つ、本質を表してはいないすべての幻を解き放っていかなきゃならないんだ。
それが本当のわたしに覚醒した時からずっと取り組むことになるもの。
私はそれをブログとして長い間記録に残してきている。果たしてそれらを私自身が使う時が来るのかはわからない。
でも無駄じゃないのだろう。
私にはこれが必要だから。
このような時間の中で得られた理解や叡知へと引き上げられたものが誰かにとっても価値あるものとして使われることになるのはまだまだ先の話であったとしても、私にはこれが必要なんだ。
私が願う、至福の世界を愛する誰かと共に生きられるという意思を現実とするためには、こういう下積みとか下準備みたいなものとか、自分自身のカルマみたいなものに取り組まなきゃならない。
その先にある本当の私となった私こそが、願い続けてきた世界を生きてゆくのだから。
だから私はこれらもまた、自分が願う至福の世界の一部なのだと気付いているんだ。偽りの自己として振る舞いその影を解き放つことと、そんな私を表現し誰かに伝えること、それらのすべてが私が望む世界を顕現するためには必要なことで、だからこそ今の私の行動も経験も、本当に願う現実に相応しいものなんだ。
だから必ず私はそのことを思い出して喜び感謝するようになる。その時こそすべてが報われ私は救われるのだから、すべては同じ時の中にあるのだと気付いていることだって可能なんだ。
もしそこまで到達できたなら、私は未来を待たずに今この瞬間に救われることができる。そしてそれこそが本来の私の姿であり生得の権利ってやつなんだ。
だから私はその意思を顕現する。
そう、それこそがかつて私が神聖なる光の意思と呼んだもの。
それを知っていればこそ、私は私のために浮かび上がる道を光の下で歩いてゆくことができるのだから。そのような私は神聖な存在であるに違いないし、そんな私が見るもの生きる世界もまた神聖な存在と輝きで満たされているに違いないのだ。
これを祈りとして導きとして私は進んでいこう。
そういうことを一貫して存在レベルで示せる人間は聖者と呼ばれるのだろう。
私は闇を解き放ってる段階でブレブレなのでそれを肯定して乗りこなせるようになるところから始めていくのです(笑)
それもまた強さであり完全さであり光の証明だったりするんだよ。そして私はその段階までなら光の使者として役割を引き受け機能することもあるってわけなのです。
だからそこまでならマスター的な感じで説明しても大丈夫なはず(笑)
そこが私が望む世界。
それを一瞬でも思い出せるのなら、このブログは本当に私にとって喜ばしいものだしそれゆえに愛しているものなんだよ。
ヽ( ・∀・)ノイェー☆
あー、もう4時過ぎなのか。
そうなのかー。
……風呂入ったら明るくなってるやつだよね、コレ。
おかげで家族とは生活のリズムがまったく合わないのだぜ、それもあって色々、かなり困ってるんだぜ(っ´ω`c)マッ...