それは わからない というわけではない話。 | ついにノンデュアリティの恩恵や救いを得た私が実際に幸福で豊かな人生を目指してゆくディバインマスタリーなブログ~

ついにノンデュアリティの恩恵や救いを得た私が実際に幸福で豊かな人生を目指してゆくディバインマスタリーなブログ~

14歳頃に霊性に目覚めた私がマスターの魂と内なるビジョンに引きずられあるべき未来へ逆走してゆく聖なるストーリーを開くための記録だったものの続き。今ではすっかり玄人向けでノンデュアリティスピリチュアリティ要素や前提知識超多め注意★

……「何か、気付かなければならない何かがある」気がする。これが書かれる理由はそれだけで十分だったのだろう。




それまで点に過ぎず意味も理由も意図もわからなかったものが、ある時を境にまとまりを見せ、関連性が明かになり、別々のものに思えていたものはすべて必然であり全体像を知るためには必要なものだったのだとわかるようになる。。。
そのような「理解不能」だと思っていたものに意味も価値もあるものが見えるようになるのもまた、夢の中の光というものなのだろう。


なぜか「なるかな」をプレイしたくなるもwindows10では起動しないから、そのためにosがxpの仮想pcを構築することになり、インストールするまではいいものの、プラグインやらプログラムデータの書き換えやら互換性やらバージョンやらコマンドプロンプトでデータ解凍しなきゃいけなくなるとか、、、一体どうしてそんな面倒な難解なことになっているのかもわからず、どこから理解してどこを変えて改めて調整していけばいいのかもわからず何時間も続けてみては、
最終的に無理だと理解し諦める。

一度は諦めるも時間が経ってみたら、構成分を読むことも慣れないプログラムらしき文字列を打ち込むのにもそんなに苦ではなくなっていたりして。


一体、どれほどの時間が流れたのだろうか?
そう思わずにはいられないほどの心境の変化を感じられたりする。。。。。


それまでバラバラでまったく関連性もなく無秩序無軌道に並べられ放り込まれているだけのものにしか思えなかったものが、確実に意図も目的もあり、そのために寸分の狂いもなく仕組まれていると理解することは、自分に与えられるすべての出来事に意味と価値があるのだと確信させてくれる。




それを知るのなら、ただ平坦に続いてゆくだけの時間の流れに縛られた世界が、常に最も相応しく素晴らしい価値ある経験の連続なのだと思い知らされることになる。
それなら、今の自分が経験している出来事や状況にはどのような素晴らしい計画が隠されているのかとそれを知る時が楽しみにさえ思えてくるようになる。

攻撃を予期する者は攻撃を受けるように、喜びを予期する者は喜びを受け取るようになる。それは喜びを先に与えることで受け取ることになるから。
予め感謝があるのなら感謝を見ることは容易い。予め喜びがあるのなら結果に喜びを見ることはとても自然なことだ。それは確信であるがゆえに完全に成されるのである。





……シズル解放記念の記事を書いたけど公開されることはなかったと前の記事に書いたけど、ここにきて遂にシズルの声優の人の名前がわかったのです!!
(一体どうしてそうなったのだろうか。)

というのも、なぜかプリコネのwikiを読むことになって、なぜか、そうなっていたのです。

もはや謎だらけです。それが何に繋がっていくのか実にまったくわからないです。理解しようとすると理解できないのでしょう。


……この記事もそう。「何かがある!」と最初は思って書き始めるも、終わる頃にはそれは消えてなくなるのです。それは間違いではないしむしろ真実というものなのでしょう。


……………………………………………………混乱、みたいなものを捨て去るかどうか考えていました。それじゃないことを思い出したので「それ」丸ごと捨て去りました。



さて、このようにそうだと思って書き綴ってゆくと、ある時にそれはダミーだったと気付き認識を改める機会に遭遇します。
しかし、それを済ませてしまうと、そこに見ていた形やら与えていた意味を失うので、

もはや言葉にすることもなくなってしまうのです。


幻想を見るなら真理は見えず、真理を見るなら幻想は存在できないという話は本当だったのでしょう。このひどく透明で何かだけが見える知覚こそが正常なものなのでしょう。


これに気付いてしまうとアレなのですよね。「何もしなくていい」ということが全時空間的に理解されてしまうので、これをまったく続ける必要がなくなってしまうのですよね。
その時、私という者も消えていると言っていいのかもしれませんね(笑)




身体とは愛により生み出されたものではなく、制限を与えるために生み出された概念なのだというのは恐らく本当なのでしょう。そんなものはないけれどそれを見ようと望むのなら体をそのように使うことはできるのですから。
この、ずっと有ると思っていたものが認識されなくなり確かにその存在が見えなくなり消え去ってしまうという感覚は非常に妙なものです。


しかし、身体は心に従うものだと理解することはそれが理解された時には自明の理なのです。それはそうでありそれ以外は有り得ないのです。


……この幻想と真理の間で揺れ動く感覚とは非常に混乱したいものだと思いたいような気がするのはとても扱いにくく理解しがたく難解なものだと思っていると思い込んでいるに過ぎないだけなのだろうなと、
そう感じるのです。

しかしそれではないのです。数秒……程度あればそれはまやかしに過ぎないと思い出されるのですから。ただしそれは自らの力ではなく内にある力によって成されるということを自覚していなければならないのです。


…………私がいつも書いてある文章が不定形で具体性のないものであるのは、真に見ているものはすべて形ではないし肉眼で見ることのできるものではないからなのかもしれません。
……少なくとも、私はその意味をよく理解できるような経験をひとより重ねているのでしょうから。




わかったことがあります。
私は「それ」を求めています。
そして心の奥深くではそれだけを求めていることを知っているのです。だから、それを見ることができたのなら、それと相容れない形あるものなどすべて吹っ飛んで消えてしまってもいいのです。それが見える時にはそれ以外のものは見えないので、その瞬間に知覚されるすべては真に求めていたものであり、文字通りそれ以外のものなんて何も要らないし見えないし知らないのですから。


だから私がこれを行う本当の意味があるのだとしたらきっとそれは、思い出すことができるからなのでしょう。つまりそれが愛なのですね。愛とは限界のないものなのです。それが愛なのですね。

それを思い出すシンボルを今の私は愛しているのでしょう。しかし、真に何を見ているのかわからないながらも、そこに愛を見ているのだと気付き始めていることも確か。
果たしてどっちを見ているのかわからないけれどそれを見ている時に幸せだということはわかるのです。

だとしたら、きっと自分が思うような形ではないからそれは理解できていないということなのだと思い込んでいて、そのような形があってほしいと望んでいるということなのでしょう。
それなら、


私が思うようなわかる、わからないというものなど、実にまったく無意味なものなのでしょう。おそらくそれは事実だと知る時も来るでしょう。
それなら私はわからないものなど有りはしないのですから。そんなものは有り得るわけがないのです。


きっと、ここにすべて書かれているのでしょう。
私が思う形ではわかりません。しかし、それがわかると感じられるのです。だとすればわからないと思えるものこそが幻なのでしょう。