ぜんのうのかみ / バロス | 取り戻すべき本当の自分と真の世界の可能性を求めて~最果ての聖なるストーリーを私に~

取り戻すべき本当の自分と真の世界の可能性を求めて~最果ての聖なるストーリーを私に~

14歳頃に霊性に目覚めた私がマスターの魂に引きずられ内なるビジョンの顕現者となり聖性までをも呼び覚ましあるべき未来へ逆走してゆく形而上学的な修練や内なる闘いであり聖なるストーリーの記録だったもの。今ではすっかり玄人向け★

幻はそれが現れた所で消える。
これを大原則として考えるなら、幻が現れる時にしかそれを消し去ることはできないということになる。

過去と同じものが現れていると感じるのなら、それは過去ではなく今この瞬間に起こっているものなのだという。であれば、それまでと違う選択をすることによって、違う結果にたどり着けることは頭ででも理解できることだろう。

時間なんて幻だという。それを完全には理解できずとも、過去ではなく今この瞬間に起こっているがゆえにそれは同じく今この瞬間に解消されるものだという経験を重ねたなら、過去は過去である必要はなくなるということなのだ。
時間が時間である必要がなくなるのなら、それはなくなるのだろう。その概念が消え去るのならそれは認識されなくなる。消えてなくなることのないもの以外はすべて消え去ってしまうし変化するのだから。


これは時間の法則、とでも呼ぶべきものだと私は現在感じているけれど、それはやがて超越されるものであるのだとしたら、どのように扱うのが望ましいのだろうか?
……果たして、この問いは意味を成しているものなのだろうか?

私の判断は極性に依っている。全体を知らないのに何かを判断できると考えることも結局は自らを縛り苦しめることになるのなら、それも手放すことになるのだろう。
なぜなら私は、自分自身を苦しめたいわけではないのだと気付いているからだ。これがすべての選択の基準になる。

もし知らぬ間に自らを縛り苦しめる選択をしているのだとしたら、それは自身を苦しめる選択をしていることに気付いていないからなのだ。もしそれを知っていたなら誰も自身を苦しめる選択などするわけがないのだから。
それさえもわからないと言うのなら、その知覚は歪んでいるのだと言われてもわからない。わからないのだ。

新たな選択肢を選ぶ理由にも『わからない』というものがある。知っているのなら、既にわかっているのなら、それを変える必要などあるわけがない。それを確信しているのならそれ以外のものなど有り得ない状態になるのだから。それが幻でも起こる。


自らを苦しめるものがあればそれを手放す。自らを苦しめるものを手放さないということは、自らを苦しめることを選んでいるということなのだ。必死にコントロールし支配し安定させようとしているそれは、どうやっても調和することもなく混沌を生み出さずにはいられない何かなのだ。

どうして、手放すことによってそれを解き放ち解消することができるのに手放さないのだろうか?



この問いには意味があるのだろうか?
……これ、マインドで最近の流行りの言葉みたい(笑)


きっとこの問いは答えを出させない問いだ。
そのような問いがどこまでいっても答えにたどり着かないものだと知ったなら、それを捨て去ることを決意することは自然なことになるだろう。

それが、袋小路であり、手詰まりであり、進路の変更を余儀なくされるものだと知ることができたなら、その時初めて別の道を選びたくなるのだろう。それはとにかく自然なことだ。不自然さを極めることによって自然であるものが見極められるようになる。
そうして見極められたものを見続けられるようになったのなら、いつでも見える実体となる。

必要なのはそのような訓練なのだ。 
何を見るか選ぶことはできる。ただしその選択肢を見つけ出せるまでは無数の幻を掴もうと手を伸ばしては空振りを繰り返すことになるだろう。しかし幸いにしてそれも永遠に続くものではないのだ。幻とはそれを生み出すものに気付いた瞬間にも消し去ることが可能な幻に過ぎないものだから。


既に目の前に改めるべきものがあると気付いていられるものは幸いである。気付いたその瞬間に選び直すことによって望まぬものを手放し解放されるのだから。

さて、その状況に自身を縛り付け、他人をその協力者として働かせているのは誰なのだろうか?


そこには、誰がいる?


無数の幻と一つの真実。
どちらが価値があると感じられるだろうか?

たくさんあるから、無数の幻か?
一つでありすべてである真実か?

数の多さで選ぶなら間違いなく幻になる。
意味を知ることができたなら真実を選ぶだろう。


幻の価値とは、それが様々な姿形をしていて、より多くの可能性と価値あるものを与えてくれると思えることで成り立つものだ。しかしもし、それが本質的にはただ一つのものでしかないと知ったなら、それを選ぶことができるだろうか?

無数にあるものに見えるものが、ただ一つの実相でしかないと見抜くことができたなら、そこには違いや差などというものは存在し得るのだろうか?
どれを見ても同じものだとわかるとしたら、どうやってそれを無数の幻だと思うことができるだろうか。


それに気付いた時に、極性の正体を知ることができるのかもしれない。一つの実相と、もう一つの存在であるもの。
この段階ではどちらも実在するものに見える。しかし、その2つしかないことは理解しているのだ。この段階においては常にどちらかを選ぶことになる。何しろそれ以外に選択肢など見えないのだから。

マジックの仕掛けに気付いてしまったものを、どうやって本物だと信じることができるというのか。恐らくこれは物質であるものも非物質であるものも変わりはしないのだろう。

案外、魔法なんてのは、そのように見た目を変化させる幻術でしかないのかもしれない。その判断基準とは目に見えるものや触れられるもの、つまり物質を変化させる力なのだろうから。


魔法がマジックであり奇術でしかないと知る者ならばそのようなものに価値は見出ださないかもしれない。もちろん、それを娯楽として楽しむことは可能だが。
そのようなフェイクであり見せかけでしかない力を操ったとして、肉体や物質を幻と見抜く者にはそれ自体には何一つ意味のないものと映ることだろう。。。



私がかつて夢見た全能の神 のような力とは、物質的であり形あるものを変化させる力だった。そしてそれは本質的には幻であり、幻の世界で幻を操る奇術というものだったのだ。
これを知るなら、奇術師も魔術師も変わらない。幻を操る術者なのだから。


私はこの意味と理解だけで満足だろうか?

幻を自在に操る力を得るために、自らに苦しみと犠牲を強いられることを受け入れられるだろうか?



重要なのは見た目の形態ではなく、そこにある意味なのだという。これを知ることができたのなら、数々の幻を一つに束ね、それを超越することもできるようになるのだろう。
それを選択するなら今この瞬間にもそれは成されていると知るべきだ。知らずとも知っていても真実は変わらないというのなら、知ることを望むことは自然なことだろう。



私が求めているものが奇術でも幻術でもないのだとしたら、魔法を求める必要もない。

しかし私は未だ、それら幻の対となる力を知り得ていない。もしそれが奇跡であり創造の力だと言うのなら、完全なる力である光を求めることが自然だ。
そしてその完全なる力である光とは、愛として表現されるものと同じものなのだと理解しつつある。。。

愛とは完全なる力である光でもある。


愛は力や創造を含む概念だったのだ。それならそれを選ぶことになんの問題もない




ちなみにタイトルのぜんのうのかみとは「全納の紙」のことです。一括で納付することができる払い込み用紙のことなのです!!(笑)


重要なのは形態ではなく意味なんだよ。
だから、その言葉の真の意味を教えてもらうと滅茶苦茶完全な表現なんだろうと思うよ。

わからないなら判断とコントロールを手放す。全納の神な力が発現されるにはその力を妨げる力を完全に手放さなきゃならない。その時完全な力である創造力であり光である性質を自身も受けることになるってわけで、そう考えると確かに肉体は器ですね。


この身体はあの身体より強いとか、
この身体の脳はあの身体の脳より賢いとか、
紙切れや金属の塊を命のように大切にしているとか、


見も蓋もない表現てほんとすごい!!
そんな時こそ言ってやろうじゃないか。さあ、万感の想いを込めて「バロス」と(笑)


ぜんのうのかみとかバロスw
スピリチュアルなんてネタみたいにして楽しむためにある概念なのじゃよ。


魔法が奇術と同じで幻の力だったとは……それに憧れるこの気持ち、ほんとうに中二の時のままなのですよ!!
人間て成長しないんだよ(笑)


完全である者が成長するわけがない。
そしてすべての幻と意味は吹っ飛ぶ。


でもそれじゃつまらない。だから私は言ってやろう。「バロス」と。
そしてバロスだけが残された………………


そういう壮大さと下らなさを両立させる絶妙な言葉がバロスなんだよ。俺はそう感じる(  ̄▽ ̄)

俺がマスターになった時に、それを唱えることによって壮大さと下らなさを同時に想起させるマントラとして愛用する予定。。。
しかしそれは真の意味を知るまではただの魔術に過ぎない。



あぁもういいです十分ですほんとうにありがとうございました