失うものは何もない | ついにノンデュアリティの恩恵や救いを得た私が実際に幸福で豊かな人生を目指してゆくブログ~

ついにノンデュアリティの恩恵や救いを得た私が実際に幸福で豊かな人生を目指してゆくブログ~

14歳頃に霊性に目覚めた私がマスターの魂と内なるビジョンに引きずられあるべき未来へ逆走してゆく聖なるストーリーを開くための記録だったものの続き。今ではすっかり玄人向けでノンデュアリティスピリチュアリティ要素や前提知識超多め注意★

タイトルは保留



命運尽きて、人生を投げ出すとか手放す感じで帰省をしたのが2月の半ば。


雪と透明な空気に守られた冬も終わり、春が来ようとしている。春は、色々なことを思い出す。。。


毎日を耐えるように生きているとばかり思い込んでいた学生時代も、よくよく振り返ってみれば、挑戦だったり成功だったり喜ばしい経験も重ねていたのだ。


そして私はまた、たくさんのものを失ったような気でいるのだが、それはこれまでにも何度も感じてきたこと。そしてそれはもしかしたら、自分が感じやすい感覚というものなのかもしれないと感じるようになってきた。
哀愁?
生まれ変わるような感覚?

まぁ、それが何であれ、その感覚があるからこそ生きる力が湧いてくるのも確かなこと。なにかが足りない手に入れたい出会いたいという感覚があるからこそ私はここに存在していると思える。アイデンティティーみたいなものなのかもしれない(笑)

今の自分は、これまでに手に入れたと思っていたたくさんのものを失ったような気がしているけれど、それと同時に解放されたとも感じられる。
それは、強迫観念のようなもので、自分という存在を束ねる意志のようなもの。それに抗うことはできず、否定しても呪ってもその力に呑み込まれ流されてゆくだけなのだ…

究極的にはそんな人生から逃れるためにスピリチュアルだとか真理や知恵を求めた。それらを知れば、こんな望まないなにかに振り回される人生を変えられると私は信じていたからだ。


だがしかし、真理だとか真実というものに気付いた今となっては、そんなものは存在しないのだとわかる。
これは何もすごいことでもなければ偉いことでもない。1と0の違いがわかるようなもの。その間にあるものは理解していないのだ。

その真理…から有用な知識を引き出し活用するというのが霊的な知恵と言うのだろうけれど、なんていうか結局はそれも幻想だわね。

それも幻想
あれも幻想
じゃあ無意味じゃね?


という1と0の極端な思考を越えるまでにかなりの時間を必要とした気がする。究極的な真実なんて知ってても知らなくてもほぼ関係ないし、何にも役に立ちもしないのだから( ̄ー ̄)


だがしかし、私はそのようなことに意識が向いてしまうのだ。それがいわゆる本質というものなのだろうと思えるようになってきた。

すべてが幻想だと、
ではそれをどのように活用するのか?

意味がわからない?
奇遇だな、俺も意味がわからな(以下略)




だがいくつかわかることはある。

私の命運は尽きてはいないし、
真理も真実も喜び楽しみながら人生に取り入れてゆく道は必ずあるんだ!!


話は変わるけれど、

やっぱり家族と話をしてても生活してても、スピリチュアルなんて言葉も概念もまったく出てこない(笑)
もう笑えるくらいに(  ̄▽ ̄)



でもさ、たまに、すべてを手放したくなる時ってさ、あるよね?
そうしたらさ、何が手に入れられるのか、なんだか楽しみになってくるじゃん?
だってもう、失うほどのものも持ってないんだから。

失うものが何もないという感覚は、本当に人間を強くすると俺は思うんだよ。それは決死の覚悟とも違う、確かな確信と信頼なんじゃないかなって。喜びや感謝にも近い原初の感覚。


そうそう、
喪失という恐怖や悲しみを越えることで、人生はまったく違う景色になるんじゃないかなって話を最初は書こうとしてたんだけど、違う話になっちゃった(笑)
そんな予感があったからタイトルはないのです。



終わり