文章のみならず、分かりやすく話すためには「結論から言う」という話がよくあります。
が、結論だけ言われたって、訳わからんのです。実は。


「右がいい」

って、結論だけ言われても、

(  ゚ ▽ ゚ ;)なんのこっちゃ

でしょう。


文脈ってもんがありますからね。ものには。
文脈をちゃんと共有できないと言葉は通じません。


おっと。脱線した。
最初に書きたかったことと中身が違ってきていますが、
とりあえず、まぁ、いいや。

それで、「結論から書く」ということはどういうことかというと、

「それを読んだ人がどう思うか考えてから書け」

ということだ! ということです。


ハッピーエンドで、「ああ、よかった」と思ってほしいのか、
バッドエンドで、「うぇ~、なんか悲しい」と思ってほしいのか、
それをきちんと考える。

きちんと考えるってのは、

V ヴィジュアル:読者はどんな表情? どんな風に見える? 喜んでる? はしゃいでる?

A オーディトリー:感想をどんな言葉で、どんな風に言ってる? 

K キネシティック:何を感じてる? 鳥肌たってる? ガクガクしてる? じわーっとしてる?

読者の体験をデザインする、具体的にイメージする。


結果として、どうなるのかってことを設定してから書き始めると全然違う文章が書けるようになります。
というか、うんうんうなって、一文字も書けない人がかけるようになります、よ。たぶんね。

お試しください。
新しいノート術を開発した。

マインドマップより、口述筆記より、スゲェ。
これは、大変なノート術だ。

と、最近、自分でひどく感心している。

名づけて・・・まだ名づけてないんだけど。
アナロジカル・ノートまたはマンガノート術。
(どっちにしようか迷い中。)

ノート・手帳・メモが変わる「絵文字」の技術/永田 豊志
¥1,365
Amazon.co.jp

たとえば、こういう本もありますが、全てを図化するとか、
絵文字ノート術とか、ちょっと惜しいけど違うんだな。
この本は、似てる、似てるけど、根本的に違う。

「絵文字で分かりやすくなる!」って、そんな安いレベルじゃないんだ。
「図化することで思考が広がる」とか、そんなどうでもいい話じゃないんだ。

アナロジカル・ノートの肝は、

インプットとアウトプットを同時にやる

ということなんだ。
これは、どんなノート術も到達していない。

インプットとアウトプットが同時にできるということは、どういうことか。
「ノートを読み返すのが苦痛にならない」ということだ。
これは、本当に画期的。

ノートはどうしたって、思考の断片になる。
全体としての話のまとまりは、断片化されてノートに記述される。
だから、読み返すときには「苦労」する。

「これ、何を言いたかったんだっけ? 」と文脈が分からなくなってしまう。

ぎりぎり「口述筆記」をすれば、文脈を保存することができる。
しかし、常にそれをするわけにもいかないし、仮に、全てを記録したとして。
とてつもない量のノートになってしまうので、これもまた「読み返せない」。

アナロジカル・ノート術では、思考の断片に絵をつける。
「箇条書き+絵」 これが基本セット。

箇条書きする。
絵を書く。
箇条書きする。
絵を書く。
この繰り返し。

1センテンスに要約して、それを象徴する絵をノートに描く。
箇条書きした内容を絵というアナロジーで表現する。
このアウトプットをしておくことで、読み返すのが100倍楽になる。

本当に、めちゃくちゃ読みやすいノートになる。
試してみて欲しいというか、このノート術、ちょっとヤバイ。
たぶん、マインドマップを超えてると思うんだよなー。

商品化したいな。

 文章を書くということは自分を甘やかすことだと僕は思う。


 学びの自分史を書こうとしたときに、「完璧」を求めたら、途端に書けなくなる。何も。どんなものも書けない。ろくでもないものすら、もはや書くことができなくなってしまう。「完璧」でなければいけないのだとしたら、僕は書くことに「無能」にならざるを得ない。それはたぶん誰でもそうだ。


 一般的に「文章が書けない」という人は、「完璧」を求めているから書けないのだ。書けるようになるということは、「完璧」を求めることをやめるということを意味している。それは、自分を最大限に甘やかすということを意味している。「なんでもいい」、「どんなものでもいい」、「独り言をそのまま書いていい」、そしてそれを「それでいいのだ」と受け容れることを意味している。一切の批判をしない。このとき、人は文章を書く能力が全開になる。いくらでも出てくる。無限に際限なく書けるようになる。


 だから、「いい文章」を書こうと思ったら、「完璧なものを書こう」とするよりも「できるだけ下手くそに書こう」とした方がきっと「いい文章」が書ける。どれだけ不味く書けるか。そう思ったら、怖いものなんかなくなる。そうだ。書くことは恐怖だ。しかし、誰にも責められないとしたら、そこに恐怖はいなくなる。恐怖がいなければ、文章を書くことは「最高の娯楽」だと僕は思う。書くこと以上に楽しいことってあるのだろうか。本当のところ。たぶん、ないだろう。


 文章を書くことが苦痛だとしたら、それは「完璧主義」に陥っているからだ。間違いを許せ、許容しろ、下手な文章でいいじゃないか。それを許容できる人間にだけ、文章は書けるし、その喜びは降り注ぐ。書くことが喜びではないとしたら、たぶん、何か間違った思い込みをしているんだ。好きなことを書いていいって、これ以上に楽しいこと他にあるだろうか?