文章を書くということは自分を甘やかすことだと僕は思う。


 学びの自分史を書こうとしたときに、「完璧」を求めたら、途端に書けなくなる。何も。どんなものも書けない。ろくでもないものすら、もはや書くことができなくなってしまう。「完璧」でなければいけないのだとしたら、僕は書くことに「無能」にならざるを得ない。それはたぶん誰でもそうだ。


 一般的に「文章が書けない」という人は、「完璧」を求めているから書けないのだ。書けるようになるということは、「完璧」を求めることをやめるということを意味している。それは、自分を最大限に甘やかすということを意味している。「なんでもいい」、「どんなものでもいい」、「独り言をそのまま書いていい」、そしてそれを「それでいいのだ」と受け容れることを意味している。一切の批判をしない。このとき、人は文章を書く能力が全開になる。いくらでも出てくる。無限に際限なく書けるようになる。


 だから、「いい文章」を書こうと思ったら、「完璧なものを書こう」とするよりも「できるだけ下手くそに書こう」とした方がきっと「いい文章」が書ける。どれだけ不味く書けるか。そう思ったら、怖いものなんかなくなる。そうだ。書くことは恐怖だ。しかし、誰にも責められないとしたら、そこに恐怖はいなくなる。恐怖がいなければ、文章を書くことは「最高の娯楽」だと僕は思う。書くこと以上に楽しいことってあるのだろうか。本当のところ。たぶん、ないだろう。


 文章を書くことが苦痛だとしたら、それは「完璧主義」に陥っているからだ。間違いを許せ、許容しろ、下手な文章でいいじゃないか。それを許容できる人間にだけ、文章は書けるし、その喜びは降り注ぐ。書くことが喜びではないとしたら、たぶん、何か間違った思い込みをしているんだ。好きなことを書いていいって、これ以上に楽しいこと他にあるだろうか?