個人セッションはこちら↓のNo.3をご覧ください。

 

 

 

 

愛は人を無欲にすると私が言ったら、

あなたは驚くかもしれない。

 

欲望は、もし自分にこれがあったら

きっと満足するだろうと考えて欲する。

 

だが欲望とは不満から生まれるものだ。

 

二つの中心が出会い、溶け合う時には、

ある新しい錬金術的な質が生まれる。

 

そこには充足感がある。

 

それはあたかも<実在>全体がストップして

動きが一切なくなったかのようだ。

 

そうなったら現在の瞬間が唯一の瞬間になる。

 

存在の新しい質だ

 

存在のこの質は言う

 

<神>は在る ーーと。

 

<神>は論議ではなく、ある充足

 

充足を感じとる感覚(フィーリング)のことだ。

 

 

愛をサダナ(修行)にしなさい

 

 

ー Osho

 

 

 

ある日の朝

 

眠りから目覚めでる

 

そのぼんやりとしたまどろみの中でやってきた言葉。

 

 

『サダナ(修行)にしなさい』

 

いつか何かの書籍で読んだフレーズだろうと、

やり過ごしたかった。

 

しかし...

それはぼんやり頭に浮かんでいた

『こと』に間髪入れずで、

 

『そのこと』を指しているのだろう。

 

そう... 

 

それらのガイダンスの大半はマインドには

不都合なことが教示される。

 

それは進もうとする反対のことがよくある

 

マインドには不都合でも

何かを手放す必要があれば

 

それらをハートで受け止め、

その聖なる導きに従ってみる。

 

そうしなければ見えてこない景色がある

 

 

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OSHOが提唱するZorba the Budda

ゾルバ・ザ・ブッダ

 

愛と覚醒

 

映画「その男ゾルバ」に称される

踊り・愛とブッダの目覚め

 

ー 半分でしかない人間が全体的にはなり得ない。

神聖さとは全体的である ー

 

どちらか一方、もしくはどちらも

少しずつかじって一生を終えられるのであれば、

それでも良かったのだが...

 

どうもそのような訳にはいかないらしい。

 

 

ゾルバ (流行りのワクワクもそう)だけでは人生に深みがないことを

今ではにわかに理解している。



その反対もしかり。

 

 

 

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1・2番目であればサダナは特に必要ないのだろうか?