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見えない統治機構DSの中枢にいる人たちの
「頭の中で考えていること・心の在り方」
を 勝手に推測してみた。
ディープステート:DSのことを語る
多くの人たちは、
DSを 簡単に 「悪」 とか 「悪魔」 と決めつけ、
自分を正義の側に置き、
DSを非難・攻撃しているように見える。
だが 私には、
そんな単純なことのようには思えない。
もちろん 悪いヤツもたくさんいるのだろうが、
中心にいる人たちだけでなく、
その手足となって
世界を統治・管理しようとしている
人たちを含めた みんなが そうだとは、
とても思えない。
「悪しき動機」だけで 多くの人が動いている
とは、とても思えない。
彼らは
「世界を統一するという思想」 に共感を覚え、
それが 「正しいこと」 だと信じているから、
その目的のために行動している
のではないだろうか?
他者からは「悪人」であると指摘されても、
そう指摘された本人は
自分のことを 「悪人」 などとは思っていない
のが世の常である。
自覚的にはどんな人も 自分を「善人」だ、
自分は「正しい」と思っているハズだ。
それが 私の「基本的な人間理解」 である。
だとしたら、DSたちの「善」とは何か?
彼らの「言い分」は、どんなものなのか?
それは一体、どういったものなんだろう?
現在のDSの思想には、
二つの流れが見られるという。
一つは、
ユダヤの経典タルムードの流れを汲む
イルミナティの思想の系譜であり、
もう一つは、
オックスフォード大学の美術教授であった
ラスキンの教えの継承だ。
[イルミナティ]
結成年は、1776年。
場所は、 ドイツのミュンヘン。
創設者は、アダム・ヴァイスハウプト。
そして 設立資金を提供したのは、
初代ロスチャイルドである
マイヤー・アムシェル・ロスチャイルド。
ロスチャイルドが
ヴァイスハウプトに依頼して、
イルミナティを作らせたようだ。
このとき マイヤー・アムシェルは
まだ 弱冠32才である。
[イルミナティの綱領]
世界統一政府の樹立によって、
世界の統一を目指す。
そのためには、
目指すべき「たった一つの統一世界」 に
対立する存在である 「国家や共同体」 を
撲滅する必要があり、 そのために、
① まずは、
共同体の基本単位である 「個人」 を支える
私有財産を撤廃し、
② その個人を束ねる 「最初(小)の共同体」
ともいえる 「家族」 を崩壊させるために、
一夫一妻の結婚制度を根絶し、
③ その家族をより大きくした
共通の価値観を共有する
「一族・部族・民族」
という共同体意識も根絶し、
④ その価値観の中心になる
「価値体系としての宗教」 も撤廃する、
ことを謳っている。
共産主義の根底には、明らかに
このイルミナティの思想が伏流している。
世界を統一するために
もっとも邪魔になるのは
特定の価値観に彩られた
いくつもの共同体の存在である。
したがって 別の言い方で
イルミナティの目的をいうなら、
「世界を統一するために、 共同体を破壊する」
ということになるだろう。
これこそが、DSの行動原理である。
これを知っていると、
彼らの行動がスッキリと理解できる。
イルミナティの思想の源流は、
ユダヤ人の生活・行動規範を書きとめた
タルムードである可能性が高いが、
それが多くの人の心を捕まえたのは、
それなりの理由があるのだろう。
イルミナティの綱領が実現されれば
世界は統一されるだろうが、
同時に、個々の個人の集合である
「共同体(民族)としての個性・多様性」
は 確実に失われてしまうだろう。
だが
「個人そのものの特性:人間らしさ」 まで
失われてしまうのか どうかは不明であり、
統一された世界政府の下で
「平等な個人」が
人間らしく暮らしていけるのなら、
それもアリかも知れない。
だが もしも、
統一政府による「強力な監視体制」が
個人の「人間らしさ」まで
奪ってしまうのなら、
その思想を容認することは到底できない。
統一された社会は
完全な管理社会であるハズなので、
統一政府の樹立にとって
強力な 「監視体制」 の存在は不可欠である。
したがって
その「監視体制」の存在自体が すでに
個人の尊厳を損なうことになるのであれば、
統一政府を作ろうという試みは
「悪」 であると断罪せざるを得ないだろう。
[セシル・ローズ]
19世紀の終わりに
世界のダイアモンドの 90%を支配した
セシル・ローズの死後、
彼の賛同者によって円卓会議が生まれ、
これを母体にして 1920年 イギリスに
DSの司令塔の基幹である
王立国際問題研究所(RIIA)が 発足した。
ここは、 チャタム・ハウスとも呼ばれている。
チャタムハウスルールとは、
このRIIAで採用されたものであり、
「会議において、参加者は
会議中に得た情報を自由に活用できるが、
その発言者や所属を特定したり、
他の参加者を特定したりする情報は
伏せなければならない」
というルールである。
たぶん
この メンバーを特定させない決まりは、
DSのすべての会議に共通する原則だろう。
RIIAは その直後の1921年 アメリカに
外交問題評議会(CFR)を設立し、
この 二つの組織が
DSの二大司令塔になっている。
セシル・ローズは、
イギリスの植民地であった
南アフリカの経済を支配し、
鉄道と新聞と通信を手に入れて、
政界に進出し 首相になった人物である。
[ジョン・ラスキン]
セシル・ローズの活動を支えたものは、
オックスフォード大学で学んだときに
聴いた、
ジョン・ラスキンという
美術の教授の思想であった。
ジョン・ラスキンは、
美術とともに 大英帝国と
その圧政に苦しめられた英国民について、
これらを道徳問題として論じることで
大学全体を揺さぶり、
オックスフォードの学生たちに
多大な影響を与えたという。
それは、どんな影響だったのか?
オックスフォード大学には、
当時の支配階級の子弟が多かった。
ジョン・ラスキンは 彼らに向かって、
「君たちは
教育・美・法の支配・自由・上品さ・
自己規範という
気高い伝統を継承している。
その良き伝統を
イギリス下層階級や
世界の大衆に広めない限り、
その良き伝統は 維持するに値せず、
いずれ失われてしまう」
と情熱的に語りかけた。
「良き伝統を 大衆に広める」とは、
大衆に その伝統を身につけさせる
ことではなく、
その伝統を持ったものが
大衆を支配することによって 自らの
「良き伝統を維持する」という意味だ。
すなわち それは、
「良き伝統を有する『優秀なエリート』が
『愚かな大衆』を支配する」
ということを意味していた。
その思想は、瞬く間に
優秀な若きエリートたちの間に広く伝播し、
彼らの心を鷲づかみにして 離さなかった。
この講義が最初に行われた
1870年を境にして、
イギリスの帝国主義の行動規範が
根本から変わったという。
それまでは
キリスト教の布教と資源の獲得
(という経済的理由のみ)を目的に
植民地支配を行っていたのだが、
このとき以来 目的が変わり、
(その経済の力を使って)
「エリートが大衆を支配する社会を目指す」
という社会改革運動に
変換させられたのである。
この社会改革運動が
現代のDSの活動に繋がっている、
とみなすことも可能だろう。
彼らは この使命を
「ノブレス・オブリージュ」と捉えた
のかも知れない。
セシル・ローズは、
この社会改革運動のための活動に
生涯を捧げた。
ラスキンの講義が行われたのは
イルミナティ設立の約100年後であったが、
このラスキンの思想と
イルミナティの思想が出会うことにより、
「世界統一政府樹立」という目的に対して
道徳的正当性(善という価値:正義)が
与えられることになった。
これによって
DSの構成員の「気構え」が確立され、
目的遂行のための
強力な動機づけとなったのだろう。
現在のディープステートと
彼らの手先となっている人たちは、一様に
「自分たちは 一般大衆とは違うエリートである」
という意識を持ち、大衆を見下している
に違いない。
その意識が、 彼らの 「支配」 を正当化している。
これは、
タルムードに見られる
ユダヤ教の選民思想とまったく同じものだ。
DSの一員である現在の英米企業のCEOが
破格の報酬を得て
贅沢な暮らしを楽しんでいるのは、
帝国主義時代のイギリスの支配階級だった
貴族たちと同じ、
このようなエリート意識によるものだろう。
「世界統一政府を樹立して
大衆を完全に支配する」
という夢ほど、彼らの
エリート意識を満足させるものはない。
それは
どんな贅沢より、 どんな性的な快楽よりも
激しく 彼らの心を捉えて離さないだろう。
それは まるで、自らを
「神」の地位に押し上げようとする試み
のようなものだ。
それこそが、
エゴが望む もっとも高貴なものだろう。
(あらゆる民族の中で、もっとも上手く
概念という 非リアルな虚構を使いこなした)
彼ら ユダヤ人たちは、
「一神教」という虚構を創りあげた後、
その虚構に現実を合わせるかのように、
自らを 「神」 に仕立てあげようとしている。
ローズが 1902年に死去した後、
彼の莫大な遺産は
二つの用途に使われることになった。
一つは、ローズ基金と呼ばれる
オックスフォード大学の奨学金制度であり、
これは
彼の目的の遂行にかなう学生を見出して、
学費・生活費を援助するためのものだ。
ビル・クリントンも この奨学金を受けている。
もう一つは、
ローズの活動を精神的バックボーンとして
英国と南アフリカの支配層が核になって
1891年に設立した 秘密結社である
「円卓会議」 の拡充に使われた。
それに続いて さらに ロスチャイルド家や
タイムズの社主 アスター一族が 出資して、
王立国際問題研究所に発展した。
そして、この
王立国際問題研究所の司令で動いているのが、
アメリカを牛耳る外交問題評議会なのである。
王立国際問題研究所(RIIA)と
外交問題評議会(CFR)は、
現在いくつもある DSたちの司令塔の
中枢的シンクタンクであり、
人材発掘・養成機関にもなっている。
(トランプ政権時代を除く)
過去100年間のアメリカの大統領や
主要閣僚の およそ7〜8割が、
外交問題評議会のメンバーであった。
以上に述べてきた「高尚な」目的を掲げ、
その目的達成のために、
各界の 優秀で有望な人物を
若い頃に見出してリクルートするのが、
DSの基本戦術の一つである。
実は、 このジョン・ラスキンの思想にも、
さらに
その基になった 古いにしえの思想があった。
それは プラトンの「国家」に見られる、
エリートによる 大衆支配の理想像である。
マルクスやエンゲルスも 同様に
プラトンの「国家」に 影響を受けていた
ことは、 広く知られている。
つまり DSの思想の原型は、
2500年前のギリシャの哲学者
プラトンが説いた理想社会なのであった。
この 「国家」 という哲学書は、 現在も
アメリカトップ10の大学生の必読書として
もっとも読まれている本だという。
では このプラトンの理想国家とは、
どんなものか?
それは 以下のような、
「賢い哲人という理想の人」が行う
「独裁による完全管理社会」 である。
社会の頂点に立つのは
宇宙の真理を会得して徳を備えた哲人
(知的エリート)であり、
社会は彼の指示によって動く。
その哲人の下には、
人々をその素質に応じて分けた、
統治者と軍人と一般民衆からなる
3つの階層がある。
これは何やら、
インドのカースト制に似ていないだろうか?
・この国家は一大教育機関を持ち、
すべての子供をここで教育する。
・生まれ持った素質を活かし、
子供を適正に振り分ける。
・理性が優れた人間は統治階級になり、
守護者として国政を担う。
・意志が卓越した者は戦士となり 国を守る。
・その他の人は物資の生産や商売に携わり、
国の経済を担う生産階級に属す。
・この振り分けを行うのは哲人の役目で、
一旦振り分けられたら
一生その道に専念することが求められる。
・私有財産を禁じ、核家族制を廃し、
妻 子供は共有財産になる。
子供を共有財産として
みんなで教育して育てていくというのは
まだ理解できるが、
妻が共有というのは
現代の感覚では到底理解できない。
この「感覚」の下で
「個人の尊厳」が維持できるのか、
はなはだ疑問である。
【と 初めに書いたが、
その後 「国家」 を学ぶことで、
妻子共有は 父子共有とベアであり、
これは 統治者層のみに適用され、
家族を持ち自分の資産を相続させることで
哲人政治が独裁政治に変質することを
防ぐための 方法論であり、
私有財産を禁じるのも 同じ目的のため
であったことが分かった】
以上のアジェンダを見れば、
その「思想」の中に、
「個々の人間を 尊敬すべき存在とみなす」
考え方がないことは明白だろう。
【と 考えると、それは 必ずしも
「個々の人間を 尊敬すべき存在とみなす」
考え方がない とは言えないようだ】
これがプラトンの主張した「哲人政治」
というものの正体である と思われる。
プラトンは頭の良い大天才であり、
後世に大きな影響を与えた
優れた人物であったのだろうが、
ここには
「思考能力:理性」を至上の価値と考える
「エリート主義」 の思想が如実に表れている。
DSたちも、同じように
「頭が良く」 「理性的」 な人たちなんだろう。
だから、現代社会における彼らの「力」 は
凄まじいものになっている。
その力を持ってすれば、
世界を統治するのも 「夢物語」 ではないだろう。
でも そこに
「人間らしい心」 は存在しているのだろうか?
そこに 「人間の幸せ」 はあるのだろうか?
「理性的」過ぎる人たちは、
冷たい不幸な人たちではないのか?
そのような人:哲人? に支配された民衆が
「幸せ」 になることなんか出来るんだろうか?
「理性」とは、
人類が生き延びるために獲得した
脳の特性である。
それによって「生存」は容易になり、
人類は地球上で大繁栄する
ことになったのだが、
だからと言って
個々の人間が「幸せ」になったのか
どうかは 別問題だ。
「理性」 は 「生存」 に役立つが、
「幸せ」 を保証するものではない。
むしろ ときには、
「理性」と呼ばれるものが
「不幸(苦悩)」を引き起こすことがある。
というより、
「理性・思考・認知」などと呼ばれるもの
こそが「苦悩」の原因であった。
私は このことを、
マインドフルネスの修行を通じて学んだ。
可能性としては、
理性的な 知的エリートであるDSの
支配する世界でも
個人が「幸せ」を追求することは
できるのだろう。
そうは思うが、なにか釈然としない。
やはり、そんな世界はイヤだ
という気持ちの方が強い。
結局のところ、
愚かな大衆が統治する 「民主政治」 がいいのか、
それとも
賢い哲人が統治する 「独裁政治」 がいいのか、
という問いかけなのかも知れない。
DSが
「賢い哲人」であるワケないじゃないか
という意見はあるだろうが、
彼らは自分たちのことを
「賢い哲人(知的エリート)」 である
と思っているのだろう。
でも 徳があるかどうかは別にして、
彼らが「賢い」ことは事実だろう。
少なくとも彼らの手足となって
我々を直接支配している人たちは、
頭の良い人たちだ。
DSは、
自らが「神」になることを目指している
ようにも見える。
とすれば、これは 究極の「傲慢」なのか?
それとも、
農耕社会:文明の「余剰の富の蓄積」が
「格差と階級」を創りだすという、
人類の歴史の必然なのか?
格差と階級の行き着くところは、
「神」 と 「神に統治されるもの」
の二極化であろう。
「民主」 と 「独裁」 の、
どっちらがいいのかは分からない。
それは 世界観という
「主観」 の違いに過ぎないのだろうか?
では 私たちは、
どちらの世界観を選ぶのか?
それとも 有無を言わせず、
選ばされるのか?
そもそも選ぶ権利など 存在しないのか?
賢い民衆が、
その代表であるもっと賢い人たちを選び、
その人たちによる 善き 「間接民主政治」
などというものがあるのなら、
そちらを選びたいものだが、
「そんなもの」は存在し得るのか?
「そんなもの」 が人類の歴史上、
本当に存在したことがあるのか?
私たちは、 「そんなもの」 があると ただ
「洗脳」 されていただけではないのか?
「そんなもの」は、
ただの 幻想(虚構)ではないのか?
民衆は、
自らを統治できるだけ十分賢いのか?
民衆に選ばれた人たちは、
自分のことをさし置いて、
民衆のことを第一に考え、
民衆のために奉仕してくれるのか?
我々民衆は、
民衆のために働くそのような
「賢い人たち」 を選ぶことが
本当にできるのか?
そんな 「賢い人たち」 は、「たまたま」
でなく「いつも」 存在しているのか?
そんなことを、信じられるか?
日本を除く ほぼすべての文明の歴史は、
もしくは
ユーラシアのほとんどの地域の 歴史は、
気候の大変動による
飢餓や餓死から逃れようとして
大量の民族・部族が
平坦で 遮るものの少ない大地を
大移動することで引き起こされる
部族・民族・国家単位の 「征服と非支配」
の繰り返しであり、
掠奪や大量虐殺・民族の入れ替わりなど
日本人には どうやっても想像できない
「悲惨の連続」であった。
戦闘で敗北した民族は
殺戮され 完全にその姿をなくす場合も、
勝者が支配者となって
敗者が被支配者となり、
一部は奴隷化されることもあった。
血は混ざり合い、
血統的には混血がが進んで
姿形は平準化しても、
多くの国々で 支配者層が固定的であり、
統治者と統治される側が 敵対的なのは
そのためであろう。
ヨーロッパでは、
それが 帝国の植民地支配という形で、
近代の国民国家の時代まで 続いていた。
それが、 二度の世界大戦の根底にある。
長い人類の歴史の中で、
それは つい最近の出来事である。
そのような人類の在り方が、
そう簡単に変わるわけはないだろう。
もちろん 日本にも戦いの歴史はあった。
が、その 規模と 頻度と 程度において
そのレベルの違いは、圧倒的だ。
彼の国の悲惨さは 筆舌に尽くし難く、
私たちは その悲惨さを想像できない。
日本を除く すべての地域の都市は
高い城壁で囲まれていたのだが、
それは
そのような歴史を証明するものだろう。
一国の中であっても、
支配するものたちと 支配されるものたちが
互いに敵対関係にあったのが、
世界の歴史である。
そうでない
日本の天皇と民衆のような関係は、
他の国では見られない。
日本だけが、
統治するものと されるものの関係が
「縦」ではなく「横」であった。
日本は 他の地域のスタンダードとは違う
特異な歴史を歩み、 それ故に
特異な共同体と文化・心性を築いてきた。
それは何も
日本民族のDNAが賢く優秀であった
からではなく、ひとえに
日本列島の風土と 地政学的な条件
によるものだろう。
列島の豊かな自然に基づく
豊富な食料があったこと。
その自然災害の多さによって
助け合いの精神が涵養されたこと。
さらには
大陸から 適度な距離だけ離れていたため、
古代中国の文明を取り入れながらも、
他国に侵略される歴史を持たなかったこと。
これらの要因が
横の関係の共同体を作りあげ、
その共同体の在り方は
「稲作」によって さらに強化された。
これらの条件のもとで育まれた
日本という国家の歴史と
その共同体の在り方は、
日本人にとって
とても素晴らしいものだと思う。
だが その在り方は、
世界統一を目指すDSにとって、
邪魔な存在の一つだったのだろう。
だから 明治の開国以来 日本という国家は、
DSによって 徐々に破壊され続けてきた。
そして これからも、
この流れは確実に続いていくだろう。
私を含む、
「日本」 という揺りかごの中で育ってきた
普通の日本人には、
他の地域の 過酷かつ悲惨 過ぎる歴史と
その歴史に培われて生まれた価値観を
感覚的に理解(共感)するのが、
とても難しいことなのだと思う。
DSの「頭の中」を形創っているものは、
そのような価値観に違いない。
そして、
以下のような見方もできるかも知れない。
掠奪や虐殺を繰り返し
「征服と非支配」 を行ってきた地域では、
その 「紛争」の過程で 繰り返し、
短期間に 大量の人々の命が失われた。
一方 日本では、
戦闘による死亡ではなく
地震・台風・洪水や火事など の
自然の 「災害」によって
より多くの人々が亡くなっている。
前者の「紛争死史観」では、
自分たちと同じ「人間」 が その原因であり、
その人間に対処することで
生き延びようとした。
それ故に 紛争相手を何代にも渡って
「憎み」続けることが
生存をかけた 重要な動機になった。
一方 日本の「災害死史観」では、
相手が 自分たちには
到底立ち向かえない「自然」 であり、
「水に流す」しかなかった。
DSの主体となっている ユダヤ人たちは、
自らの国を持たないが故に
差別され 虐げられ、
ときには ポグロムなど
大量虐殺の憂き目に遭ってきた。
彼らDSも また
「紛争死史観」の持ち主であり、
2000年以上に渡って
民族が受けてきた「迫害」の歴史を
決して忘れていないのだろう。
だとすれば、DSによる
世界統一政府の樹立という目的は、
それなりの意味があることになるというか、
歴史的必然である とさえ言えるだろう。
自由だが 秩序なき 「争いの世界」と、
自由はないが 秩序はある 「平和な世界」と、
どちらを選ぶのか?
結局は そういうことなのかも知れない。
「虚構」 を生みだして
その虚構に意味・価値を付与し、
その価値・正義の下にまとまって
社会を形成するという
人間の 「脳の特性」 に基づく習性
を考えれば、
自由であり かつ秩序ある
平等で 平和な世界など
考えられないような気がする。
虚構の内容は、
個人・集団において様々に異なっていて、
相容れないものだからだ。
「理性」とは この
「虚構」を自由自在に操る能力
のことであり、
「理性」において
とりわけ優れたDS:ユダヤ人たちは
そのバラバラの「虚構」を統一して、
全人類に普遍的な
「たった一つの神話」を創りあげよう
としているに違いない。
それをベースにして構築された
「世界統一政府」の下では、
「自由」はないものの
支配される大衆の間の
「格差」もないのだろう。
「格差」がないということは、
「差別」がなく つまりみんな「平等」だ
ということだ
だから、DSが世界政府を目指す
標語(スローガン)は「平等」なのだろう。
「監視」の下に 真の自由はないのだから、
標語は「自由」ではないハズだ。
「自由な人々」を統一した制度は、
人類の歴史上 フランス革命以後の
「国民国家」のもとでの「帝国」と
それに続く現在の先進国だけであるが、
それもまた 「見せかけ」に過ぎず、
過渡的な一過性の制度でしかなかった
のかも知れない。
複数の 「主権国家」 が並立している限り、
自分の正義(という虚構)を
主張してやまない
「脳の特性」に支配された
人類の 「争い」 は避けられないのだろう。
二大虚構とも言える 「自由」 と 「平等」 は、
リアルな現実社会では両立し得ないもの
かも知れない。
「自由」な市場の 競争(比較)社会で、
人々は「平等」になどなれないであろう。
自由な社会では
「結果」の平等はないものの
「機会」の平等は存在するという考え方
があるが、 それは 本当のことだろうか?
それは、 ただの「観念」ではないのか?
であれば 世界政府の下では、
支配者と非支配者の不平等を棚に上げて
支配されるものの間に限れば、
「格差」がなくなり「平等」が実現する
可能性が、たしかに あるだろう。
社会主義が目指す「平等」とは、
実は そんなものなのかも知れない。
ソ連においては ノーメンクラトゥーラ、
共産中国においては上位共産党員という
支配的官僚層が存在し、
大多数の人民は その下で 貧しいながらも
「平等」 であった、 もしくは 「平等」 であるようだ。
ソビエト連邦や 中華人民共和国という
「共産主義帝国」は、彼らの目指す
世界統一政府を模索するための「実験場」
だったのだろう。
ソ連の国民や 中国の人民は、
ツアー時代の農奴や 清朝の大衆と比べ、
まだ「まし」だったのかも知れない。
中共の
IT技術を駆使した「監視システム」は、
DSの世界政府が統治する手段として
格好の「たたき台」になるだろう。
「監視」 された 不自由の中にあっても、
それに 気づかず
「自分は自由」 であると思えれば、
それは 「自由」 なのかも知れない。
「DSという神」 の支配下にあって、
その神と とんでもない格差があっても、
その神は見えず
見える仲間とは 「平等」 なら、
それは 「平等」 なのかも知れない。
そうやって 「DSという神」 の下で、
私たちは 「自由」 と 「平等」 を手にする
のかも知れない。
DSは
「自由」 と 「平等」 という虚構(思い込み)
の「思想」 を構築することによって、
我々を 統治・支配しようとしている。
ただし、
世界全体の秩序を築きあげるため、
そのためにDSが取ってきた、 そして
これから取ろうとしている「手段」は
余りにもおぞましいように思えるが、
それは仕方ないことなのか?
「目的」のためには
「手段」は どうでもいいのか?
「社会主義」 という 「目的」 のために
ソ連や 中共が 取った 「手段」 を考えても、
それは やはり仕方ないことなのか?
それ以外の方法(手段)で
世界を統一することは、出来ないのか?
と、ここまで「見えない統治機構:DS」
の中枢にいる人たちの
「頭の中・心の在り方」 を、
想像力を最大限に駆使して推測してみた。
今のところ このくらいが、
私の推測の限界である。
この思考トレーニングをしてみるまでは、
DSのやってきたことは
「とんでもない・許すことのできないこと」
だと思っていたが、今は
それは「それなり」 のことなのかも知れない
と思えてきた部分もある。
とにかく もう少し、
DS(国際金融資本家)のことを
勉強してみようと思う。
(最終改訂:2024年1月8日)