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カンポンさんの説法 〜流れを超えて〜 11
体は 心ではなく、心は 体ではありません (リアルな)体と(非リアルな)心は 違うもの:名色分離智
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以前は私も、 体を観ることなんて関心ありませんでした。 やってみたことなんて、 なかったですよ。
でも 気づきが どんどん高まってくると、 体からの学びが いかに多いかがわかってきました。
体のことを 理解するようになりましたね。
体とは ルーパ(形あるもの)
気づきによって、 【さらに】ナーム(形なきもの)も知る。
【誰もが ナーム(自分の心)のことなんて知ってる と思っているが、
実は 正しくは観えていなくて、
「気づき」 によって 初めて 自分の心の 正しい姿を知ることができるものなのだ。
多くの人たちは 体のことも知らないし、ましてや 心のことは なおさら知らない。
知ってる 「つもり」 なだけで、実は「知らない」 人たちが ほとんどだ。
人は「知らない」 ことを 「知らない」 】
ルーパとナーム。 【五蘊という】同じ場所にありますが、役割が違います。
【 ルーパ(の受:快 または 不快の感覚)は アラームとなり、
ナーム(の想:思考:判断)は それに意味・価値を与えて アラーム機能をさらに強化している。
ルーパは、感覚器官を使って リアルな外側の世界を反映しているが、
ナーム(の想)は、 その反映された ありのままのリアルな現実の情報を非リアルな概念に変換し、
それに次いで ナーム(の行:欲求)は、 その概念を 追求/否定しようとする。
そして、 想と行の主体:主語として ナーム(の識:自我)が生まれた。
これが、「五蘊の流れ 」 の 在り方である。
ルーパ(体)は[環境に反応して 生存に有利な行動をする]物質として 生きていて、
ナーム(心)は
精神(想・行 / 思考・欲求・感情)として[その生存確率を高めようとして]生きている。
ナームの欲求(行)は ルーパの「生存」だけ を求め、
五蘊という 要素を載せている 本質である 「座そのもの の欲求」 を忘れてしまい、
それが 苦悩を生みだしている。
「座そのもの の欲求」とは、
「愛する」ことが最も大切であると知りつつ いまここを 自分らしくイキイキと生きること。
「わたし」という全体は、要素と座の 両方から成り立っている。
したがって「全体としての わたし」 は、「ナーム(要素)の欲求」 だけでなく、
「座の欲求」 にも従わなくては「生きている」ことにならない。
「わたし」 が 座でもあることを忘れ、要素だけであると誤認して、
要素の欲求(行)だけ に従うことが、苦悩を創りだしている。
行の欲求に「過剰に」 従うことが 執着であり、この執着が「欲望という名の煩悩」 の正体である。
存在の在り方そのものである「座の欲求」 を忘れてしまったことが、苦悩を創りだしている】
* 「要素と座」 については、 心の構造と状態シリーズの わたしの唯識論を参照して下さい。
ナームを知り、 ルーパを知る。どこにも行ったりしませんよ。
同じ場所にありますからね、でも 同じ場所にいても、同じものではありません。
【 「ルーパとナーム」のことを 何度も 繰り返し話している。
カンポンさんにとって、
ルーパとナームを観分けること:名色分離智が どんなに大きなことだったか…】
これ【名色分離智】ですね。
これ【名色分離智】が「障害から さよならする」ことになった 大切なポイントです。
【名色分離智が、 「障害」 をさよならさせた】
ルーパあるところにね、 役割としてナームもいるんです。
【ナームは、本来 役割・機能。 サバイバルのために 人類が採用した 戦略】
【ナームには】ルーパを知る
【ルーパが伝える「受」の感覚を 評価する:概念に変換する】という【役割がある】こと。
【役割としての】ナームはね、 ルーパにしがみついていない心のことですよ。
【 ナームは しがみつかないこともあるし、しがみつく(執着する)こともある。
ナームが役割(想だけ)に留まっていれば しがみつかないし、
しがみついて(行を引き起こして 一体化して)しまうと
役割を超えて ナームが 「わたし」 になってしまう。
ナーム(名)のなかの 「想」は、ルーパ(色)に付随する 「痛い・暑いなど」 という 「受」を評価して、
「痛い・暑いは 悪いこと」であると 意味や価値に変換することで、 生き残る確率を高めようとした。
ところが その変換された意味・価値に 固執・執着する(しがみつく)ことで、
たとえば 「痛いのは悪い」 と 「しがみつく」ことで、
本当は、痛みの原因を諦あきらかにして その原因に適切に対処すべきなのに、
とにかく 痛みをなくそうと 痛み止めを使うことだけに目がいってしまい、
肝心な(痛みの)原因から 目を背け、表面的な 対症療法から 先に進むことができなくなっている。
そして いつまでも「本当に大切なこと」 に 「気づく」 ことができない】
【ルーパは】「この私【五蘊】」 を 構成するものではありますがね。
障害のある この体【ルーパ の快/不快】に、執着する必要などないんです。
【ルーパの快/不快に対しては 執着しないで、適切なケアだけしていればいい。
適切なケアとは、「痛み」に対して 原因を諦らかにして、 その原因に対処すること。
いま対処できないときは 諦めて待つしない。
「痛み」 は 「悪い」困った問題ではなく「ただ」対処すべき課題である】
体は 心ではなく、心は 体ではありません。 別のもの なんです。
【体と心は】別物。 でも、同じ場所【五蘊のなか】にはある。
このように はっきりと この点が観えてきますとね、
「障害を持つということから、さようなら」 することができるわけです。
もう 心はね、【体の障害(苦)に 執着しなくなったことで】心の障害【苦悩】は もう、 ありません。
仏暦2538(西暦1995)年から現在まで 感じている事は、
私は もう「障害者」 ではない、 ということです。
【それまでは 自分で自分を障害者とみなし、 苦しんでいた】
もし私たちが、はっきりと 何が 何かを 分かっていければ、
それらから 「さよなら」 することができるのと 同じことなんですよ。
何か 特別なものを【自分の外側に】探し求める必要など ありません。
ただ【内側の】体を しっかりとケア【対処】し続けていけばいいんです。
【 「健常者」 の場合は、体でなく 心をケアしてやる必要がある】
そして、 動かせる体の動きを感じて、 そこに気づきを向けて行けばいい。
ただ それ【気づき】だけなんです。
体を使って、自分自身に有益になること【気づき】をしていくと 同時に、
他の人にも役に立つことをしていけばいい。
【自分の マインドフルネスの修行は、 結果的に「他者貢献」 につながる】 ただ それだけなんです。
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浦崎感想
「障害にさようなら」 この言葉もまた、カンポンさんが よく語られていたフレーズです。
体に障害はあるけれど、 「【心の】障害者」 ではもうない 【体の苦はあるけど、心の苦悩はもうない】
ただ 体に必要なケアを続けていけばいい【苦に対処していけばいい】のだと、
障害 「者」 としての「何者か」 にしがみつくことなく、
心の自由を得た実感を 率直に伝えてくださっています。
【問題となる困った・悩ましいこと:苦悩 はなにもない。ただ 対処ケアすべき課題:苦 があるだけだ】
体と心は別物と はっきりと知る【名色分離智】
【体と心は】別々の役割があって、 同じ場所にある【同じ場所にあるが 別物】
これって【知識として】知っているようで、
私たち いざ何か 自分に不都合なことが生じると、 見分ける力が 途端に弱くなってしまいます。
あー、 頭が痛い 【痛いのは 悪いこと。 悪いことは すぐに否定しなくては】
→ やばい、 仕事どうしよう → あー、 さっきより痛い
→ やばい、 何か大きな病になっちゃったかも?【不安】
→ あー、 もっと痛くなってきた → やばい、 明日まで続いたら耐えられないかも
【もっと大きな不安:恐怖】と、
体の痛み【苦】に端を発して、 どんどん勝手な思考がくっついてきて【思考と感情の悪循環が起こり】
「大変」 「大きな事」【という問題・悩みごと すなわち 苦悩】になってしまうのですね。
【しがみつくと、悪循環(複合体:コンプレックスの形成)が 起こる】
そして、「私は ○○な人」 という 「この私」の誕生。
カンポンさんは、1995年の年に、 「障害者である この私」 に 完全に 別れを告げられたのでした。
【カンポンさんも また、
「障害」 があることを苦しみながら 同時に「障害」 があることが 特別なことだと思い、
「障害」 に 「依存」 していた】
しっかりと 知って【観分けて】しまえば、 さよならできる。
これは 体の障害の問題だけではない と、私は 訳していて感じました。
何かともう お別れしたい。
そんな時は 目を背けずに、 ちゃんと知ろうと心がけると、丁寧に お別れできるのだと思いました。
体は 体。 心は 心【わたしの中の 別のもの】 ともに、 いつも お世話になっていますね。
そう見えてくると、
「いつもご苦労様」 と 自分を構成してくれている 体と心をねぎらいたくなってきました。
【体も心も、「わたし」 という全体を支える 大事な要素。
そして、体と心という要素の他に、わたしの中には「座」 も存在している】