アドラー・岸見・古賀・やすみやすみ
新 嫌われる勇気
その1:縦の関係
承認欲求 → 縦の関係 → 苦悩
価値判断→承認欲求→比較・競争→縦の関係→対人関係の悩み
人は誰しも、
客観的な世界に住んでいるのではなく、
自らが意味づけを施した主観的な
【非リアル】な世界に住んでいます。
われわれは
「どう見ているか」という主観がすべてであり、
自分の主観から逃れることができません。
だから、
問題は世界がどうあるかではなく、
あなたがどうであるかなのです。
あなたは【あなたしかいない】この世界を、
つまり自分自身を直視することができるか。
あなたにその「勇気」があるか?
これは「勇気」の問題です。まず
自分のライフスタイルが「縦の関係」であることを認めることが「勇気」の第一歩です。
人生から逃避してはいけません。
「関わり」から逃げてはいけません。
人生とは(人間)関係のことです。
その「関わり」を妨げているものは、
「縦の関係」意識なのです。
哲人 なぜ あなたは自分が嫌いなのか?
なぜ ありのままの自分を受け入れられないのか?
それは あなたが他人から嫌われ、対人関係のなかで傷つくことを 過剰に怖れているからです。
あなたの「目的」は、
「他者との関係の中で傷つかないこと」
「不快な経験をしないための自己防衛」
「嫌われたくないこと」
「他者から見下されないこと」です。
そして その奥に潜む本当の理由は、
他者から高く(いいね と)評価されたい
という欲求【承認欲求】です。
この承認欲求のメカニズムを知り、
承認欲求を絶対的な地位から引きずり下ろし、
承認欲求を手放せば、
自己受容できるようになります。
「承認欲求」 が 「真の自己受容」を阻はばみ、
それを代償する「偽の条件付きの自己受容」をもたらすために
「縦の関係」が必要とされているのです。
対人関係のなかで傷つかないなど、基本的にあり得ません。
対人関係に踏み出せば 大なり小なり傷つくものだし、あなたも他の誰かを傷つけている。
それは 当たり前のことです。
孤独を感じるのは、あなたが一人だからではありません。
あなたを取り巻く他者・社会・共同体があり、本当はその中に居場所を見つけたいのに そこから疎外されていると実感するからこそ、孤独なのです。
関わりたいのに、承認欲求を満たすことができないので 関わることを避けている、逃げているからです。
アドラーは、「人間の悩みは、すべて 対人関係の悩みである」と断言します。
人間の幸福【の十分条件】は、
すべて 対人関係の幸福【愛】だからです。
その「愛」を阻はばんでいるものは、
承認欲求と それに基づく 「縦の関係」です。
すべての悩みは 対人関係の中にあり、
すべての幸福も 対人関係の中にあるのです。
もしも あなたが苦しんでいるなら、
あなたのライフスタイルは「縦の関係」であり、
それは 承認欲求に基づいています。
あなたには、それを認める勇気がありますか?
哲人 我々は 誰もが違っています。
性別・年齢・知識・経験・外観、
まったく同じ人間など どこにもいません。
他者との間に 違いはあります。
しかし われわれは、
「同じ」ではないけれど「対等」なのです。
その「違い」を 思考が判断【ジャッジ】して、
善/悪や優/劣などという
価値に変換してはいけないのです。
どんな違いがあろうとも、
われわれは対等なのです。
ところが「違い」を一つの軸で評価し 順位づけることによって、
「人間そのもの」が順位づけられてしまいます。
その順位づけは「人間」を縦に並べ、
縦の関係を創りあげます。
そして 縦の関係の中で、
人は他者より上位に位置しようと 頑張ってしまいます。
上位に位置したいというのが、承認欲求なのです。
人はなぜ、縦の関係を創って上位に位置したいと思ってしまうのでしょうか?
それが 社会の中で優位に生き延びる方法だと教えられ(刷り込まれ)たからです。
教える人々や 社会そのものが、
そのことを 信じ込んでいるからです。
教育とは そのためのシステムであり、
容易に順位づけ(縦の関係)と結びついてしまいます。
それ(承認欲求)は、
人類が生存のために採用した戦略であり、
個体の「生存維持」と 生殖による「種の繁栄」に有利だったからです。
それは たしかに、
生存という必要条件には有利でしたが、
「愛」という十分条件のためには、
逆に 障害となってしまったのです。
「種の繁栄」には有利であっても、
「個の幸福」には不利だったのです。
個人は、かならず死んでしまいます。
個体の生存は、かならず破綻します。
では、死を運命づけられた個人の幸せはどこにあるのでしょうか?
承認欲求が満たされた有利な状況で生存している、
そのときだけが幸せ ということでしょうか?
もちろん
承認欲求がすべて悪いわけではありません。
それもいいでしょう、必要(条件)でしょう。
でも、それだけではないのです。
違う幸せもあるのです。それが「愛」です。
幸せの「十分条件」 は 「愛」なのです。
「愛」とは、自己受容のことであり、
他者受容(信頼)も また同じことであり、
自分を愛せることが自己受容であり、
他者を愛せることが他者受容である。
「愛」とは、
生存している限り・生きている間ずっーと
「わたしもあなたも世界も すべてはこのまま:ありのままでいいんだ、OKなんだ、なにひとつ欠けているものはないんだ」という感覚のことであり、
その感覚を持っていられることが「幸せ」なのです。
したがって、
「自己受容」とは 無条件に
「自分はこのままでいい」 と思えることであり、
「他者受容」とは 無条件に
「他者もそのままでいい」 と思えることである。
「自己受容」 が 「他者受容」を可能にしています。
ですから 他者を本当に愛そうとすれば、
その過程で 自己受容が成立するのです。
自己受容をなくして 誰かを愛することはできません。
「ありのままで大丈夫」というその感覚を得るためには、承認欲求を 必要条件に留めておかなくてはなりません。
承認されることを、まるで十分条件のように
いつまでも追求し続けてはいけません。
承認欲求が 愛:自己受容を阻んでいるのです。
「このままでいい」と思えないのは、
承認欲求を創りだすのと同じものであり、
それは、
「このままでは良くない」という価値判断を行う思考【想】のせいです。
思考は、人類が採用した便宜上のもの【方便】であると理解できれば、
承認欲求の呪縛から自由になれて、
「このままでいい」という感覚を手にすることができます。
この「思考という非リアル化機能」こそが、
縦の関係を支える 承認欲求の大元おおもとにあります。
思考(価値への変換)→(価値を求める)承認欲求 → 縦の関係 → 苦悩 と考えると、
分かりやすいでしょう。
ほんとうは 非リアルな価値などなくても、
価値という概念で裏づけしなくても、
ありのままで大丈夫なのです。
すべての存在には、
はじめから・無条件に(概念ではない)価値があるのです。
そのことを「愛」と呼ぶのです。
そして、
思考・価値観【想】と承認欲求【行】から成り立っている「わたし」が、
自我【識】と呼ばれるものです。
「わたし」と自我を 同一視しているとき、
「もう一人のわたし」 が忘れ去られています。
瞑想修行は、その
「もう一人のわたし」 に出会うための旅です。
どんな人の中にも もう一人のわたしがいて、
そちらの方が「愛する」主体なのです。
どんな人も、
その「二人のわたし」の協力体なのです。
瞑想が進めば、
その協力がうまく出来るようになります。
ですから、
瞑想修行は「愛」を知るための旅でもあります。
承認欲求に基づく幸せは、条件に依存します。
条件が失われたとき、幸せも失われてしまいます。
そして条件とは、
いつか必ず失われるもの【無常】なのです。
一方、「愛」は無条件です。
どんなときであろうと、どんなことが起ろうと、
生きている限り けっして失われることはありません。
青年 いま「生きている限り」とおっしゃいましたが、では死んでしまったら、愛も失われてしまうのですね?
哲人 より正確に言えば、死んでからも「愛され」続けることは可能ですが、「愛する」ことは生きているときにしかできません。
ですから 生きている間に わたしたちのすべきことは、愛することなのです。
そういう意味で、死を、
「いつかかなず死ぬ」という事実を、
忘れてはならない【メメントモリ】のです。
わたしたちにできることは、「愛する」ことです。
個人としてのわたしは死んでしまいますが、
わたしの愛は 縁起ネットワークの中で、
永遠に生き続けます。
「業績(doing)」 によって 自我(エゴ)も
同じネットワークの中で生き続けますが、
愛(being)によって生き続けるものは
自我ではなく、もっと本質的なわたし自身です。
「わたしを超える全体を生きる」とは、そのようなことを言うのです。
哲人 それと、もう一つ。
自分が自分であろうとするときも、
承認欲求に基づく優/劣意識と それから派生する競争(意識)は、かならず邪魔をしてきます。
承認欲求は、
愛だけでなく 自分らしさも阻んでいるのです。
他人よりも優れていることを目指して
勝者になることを優先していれば、
自分らしさが後回しにされるのは 当然ですよね。
優/劣というのは、限定された ある一つの価値軸においてのみ成立するものです。
全体としての人間が、全体として優れている とか劣っているということは あり得ませんよね?
ですから「人として」誰かが優れていて 誰かが劣っているというのは、まったくの幻想【非リアル】なのです。
承認欲求は 限定された部分の中でのみ成り立つものですが、
全体の中では いつも愛が成立しています。
全体がちゃんと見えているのなら、
そこには 愛しか見つからないはずです。
青年 ところで、そもそも
「すべての悩みは 対人関係の悩みである」ということと 承認欲求の話は どうつながるのですか?
哲人 それは 「比較・競争」 を介してつながります。
比較・競争によって 「縦の関係」 が成立します。
ですから 対人関係の軸に「競争」があると、
人は 対人関係の悩みから逃れられず、
不幸から逃れることができないのです。
青年 なぜ?
哲人 承認欲求は 競争を引き起こします。
そして 競争の先には、勝者と敗者がいるからです。
競争や勝ち負けを意識すると 必然的に生まれてくるのが、
他人との比較における優越感/劣等感です。
つねに 自分と他者を引き比べて、
あの人には勝った この人には負けた、
と【意識の奥底で】考え続けることになります。
【比較・競争を引き起こさない承認欲求は健全なものであり、
ここで言う「承認欲求」とは別のものである】
さてこのとき あなたにとっての他者とは、
どんな存在になると思いますか?
青年 さぁ、ライバルですか?
哲人 いえ、単なるライバルではありません。
いつの間にか、人は
他者全般のことを、ひいては世界のことを「敵」だとみなすようになるのです。
人々は いつも自分を小馬鹿にしてせせら笑い、好きあらば攻撃し、陥れようとしてくる油断のならない敵なのだ、世界は怖ろしい場所なのだと。
だから自分を守ろう【自己防衛】とします。
競争の怖ろしさは ここです。
たとえ敗者にならずとも、たとえ勝ち続けていようとも、
競争の中に身を置いている人は 心の休まる暇がない。
敗者になりたくない。
そして 敗者にならないためには、
常に 勝ち続けていなければならない。
他者を信じること(他者信頼:他者受容)ができない。
社会的成功をおさめながら 幸せを実感できない人が多いのは、
彼らが競争に生きているからです。
彼らにとっての世界が、
敵で満ちあふれた危険な場所だからです。
しかし 実際のところ、
他者は それほどにも「あなた」を見ているものでしょうか?
あなたを 24時間監視し、隙あらば攻撃してやろうと、その機会を 虎視眈々と窺っているものでしょうか?
そんなことはないですよね。
他者が いつも自分を見ているように感じるのは、自分にしか関心がない(self interest)からでしょう。
承認欲求を支えているものは、
この「self interest(自己中心性)」 でもあります。
self interest(自分のことにしか関心がないこと)は、
他者や世界への関心(social interest)を失わせ、
その結果 自分の世界を貧弱で
ツマラナイものにしてしまいます。
でも 他の多くの人々もまた 自分のことにしか関心がないのですから、「あなた」のことなど、誰も 大して見てはいません。
そして 本当にあなたに関心を持っている人は、決して あなたのことを冷たく見ることはないのですよ。
哲人 では、あなたが対人関係を「競争」の軸で考えなかった場合、人々は どんな存在になると思いますか?
そのとき 人々は「敵」 ではなく 「仲間」 になっていくはずです。
「幸せそうにしている他者を、心から祝福することができない」のは、対人関係を競争で考え、他者を敵と見なし、他者の幸福を「わたしの負け」であるかのように捉えているからです。
他者が仲間なら、幸せそうにしている仲間を祝福するのは当然ですよね。
しかし、
マインドフルネス 【捨】 によって
一度 競争の図式から解放されれば、
誰かに勝つ必要など なくなります。
「負けるかもしれない」という恐怖から解放されます。
他者の幸せを 心から祝福【喜】できるようになれるし、
他者の幸せのために 積極的な貢献【慈】ができるようにもなるでしょう。
その人が困難に陥ったとき、いつでも援助【悲】しようと思える。
それは
あなたにとって 仲間と呼ぶべき存在です。
大切なのは ここからです。
「人々は わたしの仲間なのだ」と実感できていれば、世界の見え方は まったく違ったものになります。
世界を危険な場所だと思うこともなく、
不要な猜疑心に駆られることもなく、
世界は安全で快適な場所に映ります。
対人関係の悩みだって激減するでしょう。
比較・競争がなくなると、
(捨に支えられた) 慈・悲・喜、
すなわち「本当の愛:慈悲」が、
ごく自然に湧き上がってきます。
比較・競争が、
「対人関係の悩み」という
不幸を引き起こしていたのです。
哲人 最後に もう一つだけ、
お話ししておきたいことがあります。
いくら自分が正しいと思える場合であっても、
それを理由に 相手を非難しないようにしましょう。
ここは多くの人が陥る、対人関係の罠です。
人は、
対人関係の中で「わたしは正しいのだ」と確信した瞬間、
権力争いにまで踏み込んでしまいがちです。
「わたしは正しい つまり 相手が間違っている」
そう思った瞬間に、「正しさ」が
「勝ち負け」 や 「競争における優劣」に変換されてしまいます。
「主張の正しさ」 が 「対人関係の在り方」に移ってしまいます。
自分の正しさを証明することに囚われ、
ときに 議論が感情的になってしまうのは、
このためです。
正義は 暴力とともに、
人類が攻撃と防御のために しばしば利用する、最強の武器でもあります。
「正しさ」を競うことは、縦の関係に陥ることです。
だから、
「正しさ」 も 人類の生存戦略としての方便に過ぎない ことを理解しておかなくてはなりません。
「正しさ」は、
ある限定された部分の状況でのみ 成り立つものです。
全体が正しいとか 正しくないとかいうことは あり得ません。
そもそも「正しさ」 も 非リアルな概念(観念)に過ぎません。
わたしたちは、
「正しさ」という幻想【想】からも
目覚めるべきなのです。
観念の怖ろしさに気づいて、
「正義」 という呪縛からも解放されましょう。
(最終改訂:2021年10月15日)