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カンポンさんの説法 〜流れを超えて〜 13
思考の流れは、
苦しみへと 私たちを押し流していく
六道輪廻の世界。
昨日から続く、その話から続いています。
「流れを超える」という その意味を、
丁寧に語ってくださっている場面です。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
怖れもそうですよ。
ヤモリが怖い、トカゲが怖い。
怖れるに値しないものを、怖れる。
すると、修羅(阿修羅)の世界が生じます。
もし、
罪も徳も、 善も悪も知らない無知【想がない】
であれば、畜生の世界が生じます。
【罪 / 徳・善 / 悪という「思考」 は
人間に固有の 二元的価値概念であるが、
それは
社会生活を送る上では 最低限必要なこと。
畜生界とは、
人としての思考(想)がまだ生まれておらず
社会生活を営むレベルに 達していない、
つまり まっとうな自我が
まだ 確立されていない状態なので、
人間未満の動物(畜生)と同じレベルの世界】
【地獄・餓鬼・畜生という】
「悪しき世界【三悪趣】」 ばっかりですよ。
それがね、心に生じてくるんです。
【輪廻する六道とは、心の状態のこと】
何から【悪しき世界が】生じてくるか?
思考【五蘊の想】からです。
【思考というよりは「行という欲求:欲望」 が、
輪廻の世界を 心のなかに創りだしている。
そして その欲望を生みだす元になるのが
「二元的価値」 を生みだす「思考」 である。
「二元的価値」 を知らないのが 畜生だが、
その 「二元的価値」 を受け持つ自我によって
地獄 や 餓鬼 という世界が生まれるという、
一見 矛盾する真理に気づくのは難しい】
もし 今
そのような思考【ではなく行】が生じていたら
【そして、 それに気づくことがなければ 】
未来も そのごとくになっていきますよ。
そうした世界に はまりこんでしまう
ことは明らかです。
なぜなら、今 もう
その世界に 落ちてしまっているからです。
今を どのように生きるか が、
どのように死ぬか を決める のです。
もし 私たちが【畜生ではなく】
戒【という社会ルール】を守り、法を保ち、
法をよりどころにして 歩んでいるなら、
私たちは 人間として生まれたわけですから、
悪しきことをなすことを恥じ、 罪をこそ怖れる。
【 じゃ〜 天界・人間界ってなんだ?
天界とは、
受レベルの 渇愛 または
想レベルの より高次の快を追求する欲求である
◯◯べき という 取が 満たされていて、
(二元的)幸せを感じている状態。
こうあって欲しいと願う
条件が満たされているので、
今は「幸せ」を感じている。
しかし この条件は無常の原理により
かならず失われるときがくる。
そのとき 「幸せ」 は、 あっという間に
「不幸せ」 に 転換してしまう。
転換前の状態が 天界で、
転換後は 地獄(瞋)か 餓鬼(貪)の
いずれかの世界に 生まれ変わる【輪廻する】
修羅は【輪廻:転換しないように】その 「条件」を
必死に守り抜こうとしている状態である。
(バリアーを自分の周りに築こうとするのも、
この修羅である)
人間界とは、
社会生活を営むレベルには達しているので 畜生ではないが、
たんに 上記のいずれでもない 多くの
一般庶民が暮らしている世界のことだが、
そこ【社会生活を送る世間:此岸】でも
二元の視点しかないことに変わりはない。
したがって 条件いかんにより、
上記の 天 / 地獄 / 餓鬼 / 修羅の
いずれの世界にも 遷移し得る。
それら 輪廻六道世界を創りだしている
二元の視点から脱して
非二元の視点を持ち得たとき、
やっと 輪廻転生から 根本的に解放される。
(解脱できる)】
生じてくる【六道の】世界はみな、
思考【想ではなく、 その思考に対する欲求:行】
から生じてくるのです【参考:五蘊】
喜ばしい思考であれ 悪しき思考であれ、
【善/悪などの
意味・価値の概念(想)が 行を引き起こし、
さらに この行が引き起こす世界である】
それらは 心の中に生じてきますよ。
「私」 の思考【に対する欲求】として生じてきます。
それが 思考の流れ、なんです。
【 「思考の流れ」 とは、
その感情が再び思考を引き起こすという
悪循環する「思考・感情複合体」 のこと。
複合体(コンプレックス)状態のとき、
「わたしは」 「わたしが」という
「この私(エゴ)」も発生している】
思考の流れ【想行複合体:思考感情の悪循環】は、
私たちを心の苦しみへと押し流していきます。
もし 私たちが
思考の流れにしがみつく【複合体を創る】なら、
必ずや
苦しみが生じることは 間違いありません。
これですよ、これ。 思考の流れ、です。
悲しみを生じさせ、爽やかさを失わせ、
普段とは違うことが 生じてくるでしょう。
【現実でなく思考が 苦悩を生みだしている。
では 思考はすべて 苦悩の元なのか?
苦悩の元は 貪瞋という感情を伴う思考であるが、
すべての「思考」 が 感情を伴い
苦悩につながる わけではない。
感情を伴わない 理性的な思考は、
人間が 「自然と社会」 のなかで生きていく
(サバイバルの)ために必要な機能だ。
苦悩の大元おおもととして思考を指摘するとき、
このように
「思考の内容」 を キチンと区別して
説明してくれる
スピリチュアルティーチャーは非常に少ない。
情報・知識(という思考に関わるもの)なしには
この世を生きていくことができないだけでなく、
自らの感性(本性)に照らし合わせながら
能動的に考え(思考し)
それを 咀嚼・消化・吸収 することにより、
「知識を 智慧に 転換する」こともできる。
苦悩の元として気をつけるべきは、
「意味や 価値の 概念」を生みだす
思考の方である】
心の自然ということ。
それは、思考にはまりこんでいない心
【この心は 「ナーム」 ではない】
という状態があるんですね。
【カンポンさんのいう
「思考にはまり込んでいない心」には、
思考が発生していない状態と
思考が発生しても
それに囚われていない状態の 二種類ある。
「心の自然」とは 前者であり、
人類が思考(言葉・想)を発達させる前の
心の状態と同じ、純粋なリアルだけの状態。
「輪廻」 しない 「心の自然」状態になると、
世界の神秘が 驚異的に輝きだし、
心は イキイキ・ウキウキする】
本当の心【座】ですね。
ポカティ【当然の・ありのままのこと】が、
すでにもうあります。
でも 思考の流れにはまりこむと、
もうポカティ【リアル】ではなくなります。
なぜなら、
その思考には 随煩悩ずいぼんのう
【心に追随している煩悩:貪や瞋のこと】が
つきまとっているからです。
【その(苦しみの)思考(想)には、
貪瞋という煩悩(の感情)が くっついている】
心に悪いお客さん【行による貪瞋という感情】が
まとわりついてるんです。
その 悪いお客さんがいるのは、
短い時間だけですよ。
【自然に任せておけば】来たら、去っていきます。
お客さんは 来たら、去っていきます。
でも私たちは
お客さんが来たら 喜んじゃうんです。
お客さんが 好きだから。
【わたしたちは、 感情に浸るのが好きで、
すぐに 感情的に反応してしまう。
日常だけでなく 政治的にも・経済的にも
感情で 反応していることが多い。
感情は、意味や物語という
「思考」 と強く結びついている】
お客さん【思考 or 感情】が去ろうとすると、
引き止めようとします。
帰ってほしくない、とね。
お店に飾ってある千客万来の人形のようにね。
お客さん来て来て! と 言わんばかりです。
【その思考や感情も また、
本来は サバイバルのために発達させた
ものであったが、行き過ぎてしまい
コントロール不能になっている状態が
貪であり 瞋である】
思考というお客さんが 来て、
去ろう としているのに、
いろいろと 飾り立てて、
お客さんを去らせないようにしていますよ。
【無常という真理に逆らっている】
【本来 思考も欲求も感情も
二元の世界:世間の存在は すべて無常であり、
時間とともに消えてなくなるものなのに、
思考と感情が(複合体になって)それを強化し
(飾り立てて)
執着して(悪循環を形成して) 引き止めている】
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
浦崎感想
私たちの心の中に生じる【輪廻の】世界。
それは「思考」から 始まっている。
【想 → 行 → 識。 そして
行の在り様が、 六道のパターンを決める】
その思考の流れ【思考・感情複合体】に
気づけずに 流されると、
どんどん 苦しみへと押し流される。
皆さまも、
何か過去に苦しんだ経験を振り返る時、
そこに 何らかの思考に執着していた
【そして 感情を伴っていた】ことを
思いおこすことが
できるのではないでしょうか?
何度も何度も同じパターンで生じる思考たち。
勢いよい 流れに押し流されるような
あの圧迫感【として感じる 感情】
流れは 止められない、
どうしようもない と嘆いてしまう。
自分には どうしようもできない
という感じから、
「気づく」「自分を感じる」 ということを
少しずつ始めていくと、
その流れが 観えはじめる。
【マインドフルネスができれば】
そんなプロセスが始まっていくように思います。
今日のカンポンさんの、
お客さんのたとえは 面白いですねー!
私たちは、お客さんが 来たら、
お客さんに 去られないように、
いろいろ 飾りたててしまう。
【無常にストップをかけてしまう】
思考が生じて、
【それに伴う 感情に引っ張られて】いろいろ
分析したり 考え込んだり【悪循環】すること、
ついつい やってしまいますが、
それって ある意味、
【無常の原則に無理やり逆らって】
お客さんの気を惹こうとする
かなり「イタイ」行為だ、
というふうに みえてきます。
参考ブログ記事
(最終改訂:2022年5月26日)