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カンポンさんの説法 〜流れを超えて〜 3
私は 眠くなくても、
横にならなくてはいけないんです
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
気づき(サティ)を高めている時、
その中に正知せいちもあります。
私たちの心を導いて、
苦しみの流れを超えさせてくれます。
【正知とは 何を正しく知るのか?
・・・真理を 】
本当に 超えることができるんですよ。
それはもう、すぐれた車輪のようにね。
【真理を知ることが 正知という智慧。
正念正定 → 正知(智慧)
(戒) → 定 → 慧 】
「気づきを高める」ということが、
苦しみの流れを超えるように導いてくれます。
ですからね、
この「苦→苦悩という流れを超える」
ということ。
それに、本当に感動していますよ。
【瞑想で 気づきを高める
→ 正知(真理を知る)
→ 苦しみの流れを超える】
どのような修行の方法であれ、
「気づきを高める」 ということがあれば、
そこには、自分自身を振り返る
【自らの負の側面を知る、 そして 受け入れる】
ということがあります。
【気づきを高める瞑想の方法は、
個人個人 それぞれに合ったやり方がある。
しかし どんな方法であれ そこで行うことは、
「自分自身(の影)を振り返る」 ことである。
自分自身の影という 自分が守っているもの
に気づくことである】
気づきを高めるということは、
自分自身【の負の側面】を観るということです。
自分自身【のありのまま】から学ぶ ということ、
体のことを知り、 心のことを知る。
自分を感じる ということによって、ですね。
【気づきを高めて 自分を感じることで
名色分離智を確立し、
体のことと 心のことを キチンと区別し、
体験として 自分自身から学ぶ。
自分自身から学ぶ とは、
自分のなかに悪しきものが存在する
:自分が悪人である ことを認めること。
それを認めると、
善/悪とは 非リアルであり、
自分が創りあげた幻想であることが、
実感として 理解できるようになる】
自分を感じるという言葉は、自分以外の
外側のことを知ることではありませんよ。
感じるということ、 それは 「気づき」 です。
自分、それは 体と心です。
それ(体と心)を合わせて、
自分を感じる ということです。
【自分を感じる(気づく)とは、
自分の 内側(の体と心)を知ること。
そして 内側(要素)の
さらに 内側にあるもの(座)を知ること】
【自分の内側にある 悪きものの存在を知れば、
さらに その内側にある 真理(座)を知れる。
逆に言えば、
自分にある 悪きものの存在を知ることなしに
(善/悪などの)対立する概念を超越して
真理に到達することは不可能である】
気づきを持って 体を知る。
心に生じることに気づきを間に合わせていく。
【体(苦)から続く 心の反応(苦悩)は 素早い、
反射的な反応である。
気づかずに ボーッとしていると、
すぐに 遅れてしまう。
気を許すと間に合わない。 だから 要注意】
私は、立つこと 歩くこと、
その姿勢をとることができません。
立てませんし、歩けません。
座る姿勢も 長い時間はできません。
以前 私は、
1時間も座ることはできませんでした。
でも 今は、
1時間程度は 座れるようになってきました。
少しは長く座れるようにね なってきました。
私が ほとんどの時間 取っている姿勢は、
横になっている姿勢です。
例えば 今日でしたら、
私は この会場に10時頃に到着しました。
そして 控え室で横になって待っていました。
私は 眠くなくても、
横にならなくてはいけないんです。
横になるということが
私の人生の普通のこと、なのでね。
なぜなら 私の体は固まってしまいやすいので、
常に 伸ばすように
しなければならないんですね。
ティエン師の編み出された
動きを伴って気づきを高める方法。
それは、 どんな姿勢であっても 可能です。
私は、横になっている姿勢で
気づきを高める修行をしています。
横になっても、
自分自身に気づくことができます。
ティエン師の伝えてくれた方法は、
私に とてもよく合っていました。
私のような 障害を持った者には、
とても ふさわしいものだったのです。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
浦崎感想
「動きを伴う瞑想は、私のような
障害者には相応しいものでした」
体の動きに制限があるカンポンさんが、
動きを伴う瞑想が自分に合っていた!
と おっしゃる意味は??
(最終改訂:2024年4月28日)