「わたし」とは、何ものなのか?
: 勝義諦とは、どんなものか?
心の座と呼べるようなものがあって、
その座の上には 何かが 載っている。
心は、 心の座と その座を占拠するもの
から成り立っている。
この「座と 座の上の要素」という
「心の二重構造」を理解することが、
決定的に重要である。
心の座は 空っぽのスペースであり、
その状態は つねに 変わらない【非無常】
一方 座を占める要素(五蘊)は、
「因」と「縁」によって
生まれ【縁起・結生し】て、
その状態を一定期間 保ち、
そして なくなってしまう【無常】
要素である 「五蘊」 については、
参照していただきたい。
ここでは、主に 「心の座」 の方を説明する。
心の座は 空っぽのスペー(空くう)であり、
特定の形(色しき)は ないが
機能が ないわけではない。
空っぽだからといって、
何もない(無である)わけではない。
心の座の上では、
「色 →・・・→ 識」 という 五蘊の要素が
(この世間:社会を生き延びていくために)
様々な形をとって 複雑に変化しているが、
それを 観ているもの・認識しているもの
がある。 それが「心の座」である。
座の機能は、観る(認識する)ことである。
広大な空っぽさ故に何でも載せることができ、
その載せたものを観ている。
観えて(認識して)いるということが、
載せているという意味だ。
要素である 五蘊の「識(自我)」 は、
「色・受」 というリアルを
「想」 という非リアルな概念に変換して、
「あれは こうである」 と言い、
それが 「認知する」 ということなのだが、
その認知している自我を さらに
客観的な別の視点(もっとも深いところ)
から観て(メタ認知して)いるものがある。
それが「心の座」である。
想と行は 識と一体化しているので、
(識は想と行の出力結果を受け取るだけなので)
識からは「想と行」 を観ているつもりでも、
実は 観えていない。
だから、「わたし(自我)」は
(こうである という)想い【想】と
その想いに基づく
(ねばならない という)意志【行】に
よって 動かされているのだが、
「そのこと」が 分かって(観えて)いない。
だが「心の座」 は、
「そのような 想と行の状態」 も含めて
すべてを認識している。
「想と行」こそが
「わたし【識】」 を 動かしているものであり、
(わたしの行為:カルマを実現するものであり)
「心の座」 は それをシッカリと認識している。
マインドフルネスとは
六境(というリアルな感覚)を
繰り返し意識化する トレーニングであるが、
トレーニングしていくうちに
六境以外の 他の「非リアルな心の要素」 も
観えてくる。
【R リアル:現実の 非R 非リアル:現実でない】
そして 「心」 が 「要素」 として観えてくると、
それを載せている「心の座」という
もっとも奥深くにあるものも 観えてくる。
すると、さらに わたしの世界は
・ 外側の世界の[自然と 他者と 出来事]
・ 内なる自然(からだ)と心という要素
・ さらに内側の(要素を載せている)座
という三重構造をしていることも分かる。
外側の世界を 感覚情報から 「想」 を介して
内側の(要素である)識が 認知していて、
その内側の識を
さらに内側の座が メタ認知している、
という三重構造。
座は さらに、内側の識とは 別のやり方で
「想」を介さずに直接外側を 観ることも、
自らを 知ることもできる。
つまり 座だけが、三重構造の
すべての層を見通すことができる。
これが 三重構造に基づく
人間の「認識」の仕方である。
この三重構造の内側にある 中間層に展開する
五蘊の原理による世界理解が「世俗諦」
と呼ばれる真理であり、
この構造全体に基づく真理が
ブッダが発見したと言われる「勝義諦」
である。
マインドフルネスによって、
内側の「名色」の分離、 すなわち
R (リアルな からだ)と
非R(非リアルな こころ)が
区別できるようになると、
そのRと非Rも ともに
「座」の上に 載っていることが 観えてくる。
マインドフルネスによって
心が研ぎ澄まされてくると、
Rと非R、要素と座が 一つひとつ
混じりあうことなく クッキリと観えてくる。
マインドフルネスによって、
この 「三重構造と認識の在り方による勝義諦」
が観えてくる。
以下の 心の座の説明が、
勝義諦しょうぎたいの解説となっている。
内側の 識だけが
外側の世界を認識しているとき、
識は 自らの 「幸福」 のために
外側の世界を変えようとする。
だが もっと内側の 座が
すべてを認識するようになると、
内側の「識の在り方」を変えるだけで
「幸福」を手にできるようになる。
そして さらに、座は それ自身の
「絶対的な幸せ」 を備えているので、
すべては 「ありのままでいい」 ことが 分かる。
それ(座)は、
すべてを観て(認識して)いるもの である。
現象(要素)は 認識されることで
はじめて姿を現わし、存在となる。
主体(座)によって認識されることで、
客体(現象)が 「心の現実」 となり得る。
説明のためには 主体と客体という
二元の言葉を使わざるを得ないが、
純粋に主体が客体を認識しているときの
経験(マインドフルネス)においては、
すべてが一つで、
なにかが 他のなにかを観ているという
感覚はなくなっている。
このときの感覚が ワンネス【梵我一如】だ。
空であり、非二元だ。
この認識の主体(座)は、
生きとし生ける
すべてのものの中に息づいている。
すべての生きものは、
たった一つの認識の主体を持ち、
それ(座)は まったく同じ構造をしている。
わたしのなかの「それ」と
他者のなかの「それ」は、
まったく同じものだ。
ウリ二つで 観分けがつかず、 区別できない。
まったく同じものなので、
比較することも 競争することもできない。
そもそも、比較・競争のもとになる
判断:想も 評価:想も 成り立たない。
「それ」は 「何ものでもない 普遍的なもの」
であり、
個々を隔てる観分けがつかないなら、
「同じ たった一つのもの(ワンネス)」
と言うこともできるだろう。
もしも それが 「一つのもの」 でないのなら、
それらは
たがいに 仲間・味方と呼ぶべき存在だろう。
敵であるはずがないのだから。
では その主体は、 はたして
わたしの 物質的な肉体に依存している
小さなわたしに限定されているものなのか?
それともすべてに遍あまねく行き渡っている
全体として
この世にたった一つの 普遍的な存在なのか?
たった一つのものが、
個々の生命個体に分配されているだけなのか?
それは 死んでしまうのか? 死なないのか?
でも そんなことは分からない。
どんな方法を使ったところで 証明できない。
だから どっちでもいい。
小さなわたしは 死ぬが、
大きなわたし(大いなるもの)は
生き続けるのかも知れない。
「分離され 限定された ひとは 死ぬ」
だが 「全体としての ひとは 死なない」
「ひとは かならず死ぬ」 だから
「自分は けっして死なない存在でもある」
ことを思いだそうとする。
それが 適切な表現なんだと思う。
どちらか一方だけを断定するのは
間違っているだろう。
「ひとは死なない」 などと断定する言い方を
触れまわるのは危険だなことだ。
死後の存在・永遠のいのちが
「いまここ」を生きるのに必要なら、
そんなストーリーを創ればいい。
なくても「いまここ」を生きることに、
なんの不都合もないが…
みな同じひとつの大きないのちを生きている。
そういう言い方で 十分ではないか。
その主体(座:リアル)は 本来
名づけようのないものであるが、便宜上
涅槃・青空・空くう・仏性・
わたしの中の ブッダや イエス・
歳をとらない 少年少女のままの わたし・
神かみ・それ( I t ) などと
様々な名前で呼ばれてきた。
精霊・スピリット・魂たましいという言葉も、
同じものを指し示している。
一神教のGod は 外側にいるように見えるが、
神かみは 内側(のもっとも深いところ)に宿っていて、
「わたしは ここにいる( I am )」と
呟つぶやいている。
もしも God が
内側にいる(内部からの投影)なら、
それは同じもの(リアル)だろうが、
そうではない。
一神教の(非リアルな)God を
日本語の神かみと訳してしまったのは、
大きな間違いであった。
日本語の神(心の座)とは
万物の中に宿っていて、
その表面に現れる現象を
もっとも深いところから支えている
神聖な存在であり、
非リアルな God とは 正反対のものである。
日本仏教には、
「すべての存在は 仏そのものである」 という
山川草木悉皆成仏
(さんせん そうもく しっかい じょうぶつ)
という言葉があるが、
ここでいう 「仏ほとけ」 とは、
上記の 「神かみ」 と同じものを
指し示している。
「神道の神と 仏教の仏が 同じもの」
であったから、
仏教は簡単に日本に溶け込み受け入れられた。
ギリシャ哲学者のプラトンの言う
「イデア」も、同じ意味であろう。
マインドフルネスの主体として
瞑想しているものは、
この 名づけようのないものであった。
「わたしという自我」が
瞑想しているわけではなかった。
それ:I t は「わたし」のすべてを知り、
「わたし」を守り、導くものだ。
わたしは「空」であった ことを知ることで
それは 姿を現し、
「わたし」に直接 語りかける
ことができるようになる。
守護霊と呼ばれるものも、 同じものだろう。
「わたし」 が いまここにいる・在る( I am )
ということは、
それ: I t に 愛されている・
受け入れられているということ。
だから、
ありのままで 絶対的に大丈夫・OKなんだ。
それを 「愛」 と呼ぶこともできる。
「愛」 とは座の特性である。
大切なものは、外側にはない。
大切なものは、
内側の さらに もう一段 深い 内側にあった。
その大切なものに 自分を任せよう!
Let It Be!
リアル(自然と身体)も 非リアル(観念)も、
この存在(座)の上に載っている。
そして、 座の上では様々なストーリーが、
因縁によって勝手に展開している。
ストーリーは生まれて、
一定期間 維持され、消えていく【無常】
ストーリー(の中身)は 様々に 異なっているが、
ストーリー(仮のもの)であるという点において、
みな同じだ。
喜劇も 悲劇もあるだろうが、
同じように楽しめばいい。
しかし、
ストーリーを支える 「この存在」 だけは
変わることなく【非無常】
沈黙を保ちながら、在り続ける。
そのような構造を考えれば、
唯一の変わらない実在( I t )は、
要素(現象:ストーリー)ではなく、
「座」という存在の方である
ことが分かるだろう。
リアルと呼んでいたもの(身体)も、
要素に過ぎないことに変わりはない。
実在ではない(仮のもの)という意味で、
それは「幻想」である。
「わたし(自我)」だけでなく、
自然も肉体も含めた
すべてが 変化するものであり、
「座」 によって 認識された 「幻想」 である。
【わたしは いない】とはそういうことなのだ。
(観ている)
わたしが すべて【わたし:座 しかいない】
座とは 「いまここ」 のことだ。
「いまここ」 こそが 唯一の実在であり、
生ずることも滅することもなく、
増えることも減ずることもない。
すべてが繰り広げられる場【ここ】であり、
時間のない永遠【非無常の いま】だ。
「いまここ」こそが 生きている真実で、
わたしの本来の居場所だ。
心の構造と この座の特性を知れば、
座の上で起きている
要素の変化(人生の形)に
適切に対処することが 容易になるだろう。
湖の表面の波(要素)は 様々な形をとるが、
湖底深くでは 変わることのない
静寂と沈黙だけが存在している。
この静寂は
けっして傷つけられることのない、
完璧な存在だ。
表面でなにが起ころうと、
楽しかろうと苦しかろうと、
ただ それを味わい、 受け入れ、 観ている。
わたしとは、いったい 何ものなのか?
わたしとは 「座の上」で繰り広げられる
要素の集合体ではなく、
要素が展開する場としての
「座」そのものである。
わたし とは、 何ものでもない 「座」 である。
観ている この唯一の実在は、
何が起ころうとも まったく大丈夫だ。
これが 究極的な「受容」であり、
「愛」とは このことだ。
だから、
この実在の もう一つの機能は
「愛」なのである。
実在を「愛」と呼ぶのは、このためだ。
わたしたちは、
最初からずーっと「愛」の中にいた。
ずーっと続く「いまここ」で、
愛され続けていた。
「観ている」ということは
「愛している」ということで、
「観られている」ことは
「愛されている」ことだ。
観るものも 観られるものも同じで、
そこに 主客の区別はない。
ただ 愛の中にあり、 ただ 愛だけがある。
愛もまた ダルマであり 当たり前のことだ。
心の構造が観えてきて、
その座の上でなにが起きようと、
座そのものは まったく影響されないことが
理解できたら、 もう それでいいだろう。
だから すべてがそのままで いい。
それだけのことだ。
では 「わたし」 とは、 この実在のことなのか?
実在は、
機能・特性を持っているが 形を持たない。
実在は、自我という形をとることなくして
この世に存在し得ない。
だから
「わたし」とは 自我と実在のどちらかではなく、
その両方なのだ。
「わたし」とは、「何ものかである」 と同時に
「何ものでもない」 ものである。
「何もの」かに成ろうとしている
「何ものでもない」ものなのである。
二重構造とは そのことで、
わたしたちは 「色」と「空」という
二つの次元を 同時に生きているのだ。
大切なのは、 「わたし」は
自我という 一つだけのものではない
と知ることである。
自我(色)は 実在(空)に
支えられている(愛されている)のだ。
「わたし」 は愛していて、 かつ 愛されている。
そのような在り方で、 愛の真っ只中にいる。
それを知ることが、 自己受容なのだ。
自己受容された自我は もう苦悩とは無縁だ。
実は、 苦悩と無縁の自我も 存在したのだ。
自我を おろそかにすることなかれ。
修行者たちよ、 自我を滅尽しつくして
「実在」 という 一つのものだけを
観ようとしてはいけない!
(最終改訂:2024年4月10日)