浦崎雅代さんのブログ(note)「タイの空に見守られて」の2018年11月1日の記事から引用
カムキエン師は、タイ スカトー寺の前住職
(【 】は やすみやすみのコメント)
仏教を学ぶ上で、「苦」 と 「苦悩」の違いを理解することは、決定的に重要なことである。
「苦」を否定しようとすることが まるでパラドックスのように 逆に「苦悩」を引き起こしてしまうのだから。
したがって 現実を生きる(日常生活を送る)上では、この「苦」への対処の仕方が 決定的に重要である。
カムキエン師の説法の中で そのこと(*)に触れているものがあった。
ただし、内容は「苦」 と 「苦悩」の違いを前提としているが、カムキエン師はそれを強調していないし、浦崎さんのコメントでも「知る:気づく」という違う観点からこの説法を解説している。
* 四聖諦の「苦」と感受の「苦」は違う。
四聖諦の苦は「苦悩」で、感受の苦は「当たり前のこと」
「はまり込み【行:サンカーラ 】」 から脱けだすためには、
まず
「はまり込んでいる」ことを知る【観る:気づく】ことがきわめて大切だが、
その前提として、
「苦」 と 「苦悩」が違うことを知っていることも 同じだけ大切だ。
なぜなら
「はまり込む」ことが、「苦を 苦悩に 変えている」のだから。
カムキエン師の「知らないを知るに変える」
知らないこと、の怖いのは
。。。。。。。。。。。。。。
知らないことの怖いのは、「はまりこんで、それになってしまう【 「行」と一体化する:想行識コンプレックスを形成する】」ということです。
知ることができると、タンマダー(法の現れ・普通のこと・珍しいことではないこと【当たり前のこと】)を観る事ができます。
それは ただそういうふうになっているのだ、とね。
四聖諦(ししょうたい)の中にある「苦」のその意味は、「はまりこんでいる」ということです。
【四聖諦の苦は「(三相や感受の)苦」でなく「苦悩」のことである】
ヴェーダナー(感受)はね、自然に沿って生じてくる【当たり前のことな】んです。
暑さ・寒さ【という感受の苦】は、自然に沿ってここにあるんです。
【ここで、四聖諦の苦と 感受(の苦)の違いを述べている。
四聖諦の苦は「はまり込む」ことで発生するが、
感受の苦は はまり込むのでなく自然に起こる と言っている。
感受の苦は、「三相(無常・苦・無我)という真理」の苦のことでもある】
でもね、それらに はまりこんでしまった時に、それを苦しみ【苦悩】と呼ぶんです。
【 「暑いのはイヤだ、寒いのもイヤだ、暑いのも寒いのも消えてなくなれ」と思うのが「苦悩」
暑さ寒さ(という苦)に 適切に対処した上で、「暑いのも寒いのも仕方ない」 と 「苦」のままに 放っておけばいい。放っておけば、「苦」は いつか勝手になくなる。
「真理」である「苦」に対して、「消えてなくなれ」と介入しようも思ってもムダだ。ムダなことを頑張れば「苦しむ(苦悩する)」ことになる。
「放っておけば いつか勝手になくなる」というのは、三相(無常・苦・無我)の中の もう一つの「無常」という真理のことである】
「幸せな人」にはまりこむ。
「苦しむ人」にはまりこむ。
これらはね、危険ですよ。
【幸(快)も苦(不快)も当たり前のことだが、
幸/苦を 追求/否定する(はまり込む:行)と
「苦悩」が発生してしまい、危険なことになる。
「幸せな人」にはまり込む とは、ずーっと「幸せ」なままでいたいと 望むこと(渇愛)
「苦しむ人」にはまり込む とは、ずーっと「苦しい」ままに違いないと 思い込むこと】
もし 自然に沿ってそれらを観れば、それらを「タンマ(法)」と呼ぶ事ができます。
【 「苦」は自然のリアルなタンマだが、
「苦しむ人」という「非リアルな苦悩」は 自分で創りだしているので、タンマではない。
「はまり込んでいる」ときは、「自然に生じて、ただそうなっていること」を 自分に都合いいように 無理に変えようとしている】
【四聖諦の「苦」は「苦悩」のことであり、
当たり前の真理(自然に起こること)ではなく、
人間が自分で創りだしている幻想・虚構。
だから
その苦(苦悩)は、なくすことができる】
。。。。。。。
浦崎感想
知らない、と何が怖いのか?
知らないことというのは、ここでは、何か知識を知らないということではなく、自分に生じていることを自分自身が知らない、という意味だと私は受け取っています。
【 「知らない」というのは、「行」が発生していることを知らないこと。自分の「行」が観えていなくて、気づいていないこと。
そして実は、「苦」と「苦悩」は違うことも知らず、観えていない。
マインドフルネスとは 自分(の行)を観る(気づく)技術であるが、実は「苦と苦悩の違い」を知る(気づく)技術のことでもある】
例えば、同じ「イライラしている人」でも、イライラしていることに本人が気づいて「いない」イライラしている人と、イライラしていることに本人が気づいて「いる」イライラしている人、周りから見てどちらが怖いかと考えたら、圧倒的に前者ではないでしょうか?
イライラが 表情や体の仕草でこちらまで伝わっているのに、「私、怒ってないわよ」と真顔で言われたら、めちゃめちゃ怖くありませんか(笑) 「今、ちょっとイライラしている」と本人から言われた方がまだ安心です。
自分に生じていることにはまりこんで【行を発生させて】 知らない【気づかない】ままで 苦しみとなるか、知って「法の現れ」とするか。
(最終改訂:2021年6月8日)