浦崎雅代さんのブログ(note)「タイの空に見守られて」の2018年9月29日の記事から引用
パイサーン師は、タイ スカトー寺の住職
(【 】( )内・赤文字・太字・アンダーラインは、やすみやすみのコメント・他)
パイサーン師の説法
この私・この俺はいない【無我】
。。。。。。。。。。。。
あるインドの方が、このような言葉を伝えています。
私が内側を観るとき、「私は何ものでもない」と観えること【わたしはいない:無我】
それが智慧【色即是空】です【目覚め】
私が外側を観るとき、「私はそれらすべてである」と観えること【わたしはすべて:梵我一如】
それが慈悲【空即是色】です【悟り】
外側を見て、私はそれらすべてである【みな同じである】と見えてくる。そうなると他を慈しみ、支え合い、ケアする気持ち【愛】が自ずと湧いてきます。
【人間を含む すべての生き物は、生老病死の苦しみを共にする、つまり 同じ「エゴ」という機能を持つ仲間である。
わたしたちは、「空」であり それゆえに「自由」である と同時に「エゴ」という機能を持ち「苦しむ」存在である点において、みな同じである。
「みな同じである わたし」しかいない。どこもかしこも、みな同じくらい優しい「わたし」だらけだ。
そして「愛」のためには、他者がどうであろうと、まず わたしが感じ、わたしが決意し、わたしが始めるしかない】
この私・この俺に執着しているとき【わたしが何ものかであるとき】 私たちは 本当の真実を見誤ってしまいます。そして 苦しみへと導かれてしまうのです。
仏教では、「この私・この俺というのは、ただ仮なるもの【空・無我】である」そのことを教えています【色即是空】
この私・この俺というのは 本当の真実ではない、ということ。本当の真実であれば、不変であるはず【無常ではないはず】です。でもみなさん、よく見てください。この私・この俺は、変化します【無常です】よ。
例えば、親にあったら、「子供である私」が生じますし、今度は子供にあったら、「親である私」が登場します。
先生に出会えば、「弟子である私」が登場します。弟子に出会えば、「先生である私」が登場します。
外国人、例えば日本人や西洋人に会えば、「タイ人である私」が登場します。バンコク出身の人に出会えば、「チャイヤプーム県出身である私」あるいは「イサーン(東北タイ)出身である私」が登場です。
この私・この俺は、いろいろ変化するわけです。
【わたしは、関係性(being)の中で立ち現れてくる(結生する:生まれる):縁起】
何かに出会えば、この私・この俺も変化するわけですね。
【関係性には、「比較・競争の縦の関係」と「対等な横の関係」の二つがある。
縦の関係性では「わたし」は変化するが、横の関係性では「わたし」は変化しない】
この私・この俺というのは、ただ親子や師弟、その他 国の違いを表す存在だけに限りません。
私は歌手である、私は音楽家である、というものも入ります。これらは、別に誰かと比較してそうなる、というものではありません。
何かを行うことによって「何ものかになる」 そうした存在もまた、この私・この俺になりえます。
【わたしは、行い(doing)を通して立ち現れてくる(結生する:生まれる):縁起】
先週、スリン師の説法の中に「黄金の丘に登る人」の話が出てきましたね。
ある学校の先生がいて、とても悩みを抱えていました。そして彼はある日、バンコクのプーカオトーン(黄金の丘)に登りました。登ってみると、すごく気持ちが良くて、それまでの悩みが晴れた気がしました。そうして彼は朝・昼・夕とプーカオトーンを登るようになりました。毎日、毎日、何ヶ月も、、、何年も登るのを続けました。
その様子をあるライターが気づいて、彼のことを記事にし、テレビでも紹介されるようになりました。彼はいつしか「黄金の丘を登る人(ナック・クン・プーカオトーン)」と言われるようになったのです。
その先生は自分のことを、「黄金の丘を登る人」などと意識したことはなかったのですが、そう呼ばれるようになって意識するようになりました。
【その結果、それを維持するために】「黄金の丘を登る人」という存在【何ものか】が生じたのです。
仏教用語で言えば、チャート(Jati:生)が起こった【結生した】ということ【縁起】ですね。ここでのチャートというのは、一般的にいう、この身がこの世に生まれたという意味ではありませんよ。この私・この俺が心に生じた【意識するようになった:自我が生じた】ということです。
なぜ 生が起こったか。それはポップ(Bhava: 有)によってです【 「有」とは生存のことであり、有り続ける・維持すること(十二縁起:有 → 生 → 老死/苦悩)】
仏教の教えを学んでいる人は、五蘊と十二縁起をご存じでしょうね。
先ほどの先生の例では、何度も何度も黄金の丘を登るという行ないによって、「黄金の丘を登ること」という状態が生じたわけです。そして記者が「黄金の丘を登る人」と名づけたこと【想:無明】によって、【それを維持するために】黄金の丘を登る人という、この私、この俺【識】が生み出されたわけなのですね。
【名づけたこと(想:無明)で、その名前(概念)に執着する(行)ようになり、わたし(識)が生み出された】
何度も楽器を奏でる人もそうですよ。何度も何度も奏でていたら、「演奏家」という「ある状態のもの」が生まれます。
この私を、ある状態のもの【何ものか】にするということ。これがチャート(生)です。行ない【doing】によって生じるものですね。
演奏家でも、スポーツ選手でもそうですね。その状態にふさわしい行ないをし、着るものを身につけ、「演奏家」や「スポーツ選手」という、この私、この俺を作り上げます【役割を演じる】
そしてこのチャート(生)が生じるとどうなるか。
【必ず いつかは維持できなくなって】老・病・死と続いていきます【有 → 生 → 老死/苦悩】
先ほどの黄金の丘を登る人も、それが生じたら、その状態を守ろう【維持しよう】とします。
しかし、それらの状態を真似する人が現れ、自分がかつて名づけられていたポジションに別の人がなってくると、不満が生じたり、苦しみにはまりこんでしまいます。
以前は、黄金の丘に登ることが ただ好きだっただけなのに、その先生は、「私は黄金の丘に登る人なのだ!」という、その状態を 守りたいがだけに登るようになっていきます。
「黄金の丘に登る人」も、生じれば、老いて・病んで・死んでいくのです。「何らかの状態であるこの私【その状態ではあり続けられないわたし:無常のわたし】」 これらが生じると、私たちは苦しみにはまりこんでしまいます。
【「◯◯の人」にはまり込むと「苦しみ」が生まれる。「はまり込み」とは 無常を否定しようする「行」のこと。
「変わっていくもの」 を 「変えたくない」 と思って、それにこだわると(無常を否定しようとすると)「苦しみ」が生まれる】
【想:無明 → 行 → 識】
想とは「名づける」ことであり、
名づけるとは「思い込む」こと。
その思い込みに「囚われる」と
行が心の中に形成されてしまう。
そして識とは、行の主語である
何ものか (この私・この俺) のこと。
【内側の 変化する「この私・この俺」のさらにその奥にあって、「 I am 」と呟きながら、「わたしがすべてである」と宣言している「わたし」がいる。それが(少年・少女のままで)変化することのない(歳を取らない)「わたし:何ものでもない 心の座(本質)」である。
「この私・この俺」を感じながらも同時に、その奥にあってそれを支えて(観て)いる この「心の座」をも感じることが可能だ。正念正定(マインドフルネス)を実践し続けていれば、いずれ わたしの中の 変わらない「心の座(本当のわたし)」に出会う日がくる。
「この私・この俺」のさらに内側の「心の座」から観ると、「この私・この俺」は外側に存在している。もっとも内にあってコアなる心の座のことを変化しない本質と呼ぶなら、「この私・この俺」は本質ではなく、仮の現象に過ぎない。
そして「現象」は、必ず変わっていく「無常」なるものだ】
(最終改訂:2021年6月5日)