奇跡の存在は十分条件
広い宇宙の中で、地球は特異な星である。
その物質的構成・太陽からの距離・大きさ・
月の存在・海・大陸・大気・気温などなどの
組み合わせは、
唯一無二の 「特別なもの:奇跡」 に思われる。
その地球に「いのち」が生まれ、
気候の大変動や天変地異にともなう
何度もの大絶滅の危機を乗り越えて、
雌雄のある多細胞生物・脊椎動物・哺乳類
へと進化し、
20種類ほどの 人類の形(種しゅ)の変化の後に、
ついに
わたしたち ホモ・サピエンスが生まれた。
地球は奇跡の星であり、「いのち」 も奇跡だ。
だから わたしたちも 「奇跡の存在」 である。
地球・いのち・わたしたちは、皆んな
奇跡のネットワーク(因縁・縁起)である。
わたしたちは、その気の遠くなるような
奇跡の幾いく世代を超えて、 生き続けている。
わたしと・わたしたちと・いのちと・地球は、
一つながりの 奇跡の存在
【縁起ネットワーク】だ。
そのつながりの中に、 わたしは在る(I am)
それだけで 十分に素晴らしい。
それが 絶対的な意味だ。
だから あるがままでOKなんだ。
一般的には、
芸術的創造(作品)や仕事の達成(業績・成果)と
その過程の経験に意味があると思われている。
たしかに 社会で生きるためには、
最低限のパフォーマンスとしての
「仕事(作品・業績・成果)」 が必要だろう。
だが、その必要条件を超えた分は
単なる 「遊び」 に過ぎない。
超えた分は 単なる「プラスα 」なのに、
それを 「アイデンティティ・生きがい」などと
呼んで 探し求めたり 絶対視するのは危険だ。
それが、 「苦しみ」 のもとになることもある。
「プラスα」を 深刻でなく真剣に楽しめばいい
だけではないか?
(想→行→識という)エゴシステムは、
このパフォーマンス(カルマ・doing)を
褒めたたえるだろうが、
それよりも深く重要で より本質的なことは、
すべての人に平等に与えられている
人間関係における経験ではないだろうか?
業績や成果といった Doingは
「生きる」ための必要条件であるが、
「幸せ」のための十分条件は Being
(ネットワークとして ただ在ること)
なのではないか?
つまりは 人生という旅の中で、
どのように自分と他者を愛する
(慈悲を生きる)のかということの方に、
本当の意味があるのではないか?
それを アドラーは、
人生のタスクと呼んだのだと思う。
ティクナット・ハンは、interbeing
(存在同士の相互関係)という言葉を使っている。
ブッダが 縁起ネットワークと呼んだものも、
同じようなものではないか?
「Doing」という必要条件を満たしたなら、
それを超える分のエネルギーは
「Being」のために使うベキだろう。
「プラスαの遊び」感覚で
深刻でなく真剣に 人と関わってみるのもいい。
まずやってみれば、
それが「十分条件」であることに
同意してもらえるだろう。
いつまでも・どこまでも
「Doing」に拘っていてはいけない。
「プラスα」は、
人間関係のためにこそ あるものだ。
この地球の生きとし生けるものたちは皆んな、
ネットワークとして生きる「奇跡の存在」だ。
だから人間(ホモ・サピエンス)にとっても、
そのネットワークの一部を形成している
豊かでイキイキとした人間関係というものが
十分条件なのではないか?
「生きる」ための必要条件を
「幸せ」のための十分条件と、
取り違えていないか?
「生きている」という そのこと(奇跡)が
すでに「OKである」ということを、
忘れていないか?
「奇跡」 なんだから 「OK」 に決まっている
だろう。
わたしたちは「奇跡の存在」として
「いまここに在る」
だから
「いまここに生きている」という
そのことだけで「十分」だろう。
そのように考えるなら、
芸術的創造や仕事の達成よりも
愛することの方が 本質的で 大切なことが
分かるはずだ。
母親という役割を 仕事とみなすなら、
その達成・成果は、子供を
世間から見て立派な人に育てることだろうが、
それよりも
子供を 「どう愛するのか」 ということの方が、
ずっとずっと大事に決まっている。
当たり前だ。
愛された結果は、 自然に ついてくるだろう。
そして
愛した結果も、 幸せという形で ついてくる。
達成・成果などを考えずに子供の幸福だけを 願って
世話をすることが 愛だと、
賢明な母親たちは 知っている。
「母親」は 産み育てることによって、
母親とは
役割ではなく 「在り方:being」 である
ことを 否応なく知ることになる。
だが 一方の「父親」は、
父親という役割以上のものになるのが 難しい。
だから、 女は すでに 「愛」 を知っているが
男は それを学ばなくてはならない。
もちろん 子どもを持たない女たちも、
潜在的・アプリオリに それを知っている。
その「女たちの 母なるものとしての愛」
を発現させるためにも、
そのこと(愛)を
男たちが理解するのを手助けするためにも、
マインドフルネスが 有用だ。
(最終改訂:2022年9月24日)