縁起ネットワーク(因果と因縁)スマホ版 | やすみやすみの「色即是空即是色」

やすみやすみの「色即是空即是色」

「仏教の空と 非二元と 岸見アドラー学の現実世界の生き方」の三つを なんとか統合して、真理に近づきたい・語りたいと思って記事を書き始めた。
「色即是空即是色」という造語に、「非二元(空)の視点を持って 二元(色)の現実世界を生きていく」という意味を込めた。

因果と因縁](私の縁起論から)



  ブッダの 「縁起論」 を、
   「因果論」としてとらえる向きがある。
「因果応報」という言葉もあるし、
「これあれば、かれあり。
                     これなければ、かれなし」
  という有名な言葉は、
  まさに 因果の説明であるように思える。
  しかし だからと言って、
  縁起因縁を 因果と同じ  
      と捉えるのは危険な間違い
だと思う。


因果は単純な非リアル世界の関係


  因果とは
  原因と結果の一対一の関係のことである。
  Aという出来事によって
  Bという出来事が生じたとき、
  AがBの原因である、
           というのが因果(の論理)である。

  これは 非常に単純で
     (エゴ)には分かりやすい話である。

  この世には、
              そんなこともあるかも知れない。
  たしかに、
  因果関係といえる出来事が
                             あるのかも知れない。
  しかし それがあったとしても、
  それは リアルな世界の 
               ごくごく一部でしかないだろう。


因縁は複雑な リアル世界の関係


  だが、現実の世界は複雑である。
           一対一の単純な関係など
                          ほとんど見当たらない
  あるように思うのは、
              よく観ようとしていないからだ。

  安直に世界を理解したいと思っていて、 
  かつ 

  理解できると思っている無明】からだ。

  因果は
  因縁という 関係性全体の中の 
                             ごく一部分に過ぎず
  現実の世界は
        因果関係だけで語れるような
                             単純なものではない


  一般的には、
  Aと Bの 二つの出来事があって 
               Aが Bの 原因と思われるとき、
  Bの原因となる要素はAだけに留まらず、
  本当は 数限りなく
                    沢山の要素が存在している。

  その沢山の要素を見つけて 言語化し、
                 列記することもできるだろう。
  一方、隠れたまま 
  理解の光に照らされることのない要素も、
                         また 数限りないだろう。
  そして、 それらの数限りない要素も また 
         無数の他の要素の影響を受けている。


  そのようにして 世界は限りなく延々と

  果てるところなく繋がっている
  たった一つのもの:大いなるものである

  空間的にも 時間的にも繋がっている
        網の目のようなネットワークである
  そして、その網の目の形を変えながら
                   絶えず変化して 流れている

  現実は そのようになっている、
       というのが ブッダの世界理解であり、
  それを 縁起と呼ぶのだろう。

  原因となる因縁の「 
  その中の中核的要素  直接的原因であり
 その他の周辺要素条件であるが、
  多くの場合、結果を引き起こすものは 
      何が「因」で 
      何が「縁」なのかも分からないだろう。

  その因縁のネットワークの
           結節点に現れるのが

                  わたしでありあなたであり
                          さまざまな 状況である

  焦点を結び 結生けっしょうしたかと思うと、
  あっという間に形を変え、点がほどけ、
            また 別の場所に結生するだろう。

  縁によって起こる縁起とはそのことだ
  縁によって起き、 そして消えていく無常】 
  その延々の繰り返し が世界である。

  そのようにして 世界は 続いて来たし、
                  これからも 続いて行く。


再び 因果関係について


  因果関係は 分かりやすく
     人間の「知」が もっとも好む論理だろう。
  エゴが 「分かりやすさ を求めている

  因果関係とは、複雑な縁起の世界から、
  分かりやすい たった一つ関係を抽出した
  論理(概念)であり、非リアルである論理とは

     現実ではないもの現実の解釈である



  たとえば A・B二つパラメータ存在し、
  正の相関でともに変化するとき、
  人は容易に 一方を 原因にし、
                  他方を 結果としてしまう。

  ひょっとしたら、
          その因果関係は 逆かも知れないし、
  別の原因の
     異なる二つの表現であるかも知れない。
  また、
  たまたま相関があるように見えただけで、
    実は なんの関係もないのかも知れない。

  それなのに まあ、なんと安易に
因果関係がある 断定されていることか。
  それが 世の常のようである。

  だから、
  因果関係には   注意しなくてはならない。
  ほとんどの場合、 知らないということに
  寛ぐことのできないエゴが
          知りたがり 解釈せずにはいられず、
  習慣的に 
    無理やり因果関係をでっち上げている

  エゴは、ことの原因が分からないと 
                               不安でたまらない。

  普段の人々の会話を、
       ちょっと注意して聞いてみるといい。
「こうだから、ああなった」
                  という内容の話で
       溢れかえっているのに気づくだろう。

  自分たちは(因縁としての)複雑な
  縁起のネットワークの中に生きているのだ、
                  ということを意識している人が、
  一体 どれほどいるだろうか?


  わたしたちの世界では、 何故と問われても

     実は 答えようのない事柄が 大半なのだ。

  それに答えているのは、

                   「知ったかぶり」に過ぎない。

  エゴは いつも 知ったかぶりたがるものだ。



脳が ネットワークとしての世界の姿を
                           理解するときの やり方


  本当のところ、
  現象としての世界の在り様は、
                        とてつもなく複雑である。
  (思考)は その複雑さを
  そのまま
(ありのまま)では理解できない
  分割し単純化しなくては 理解できない

  したがって わたしたちの理解とは
  分離され限定された単純な状況下での
                       仮の理解にしか過ぎない。

  わたしたちが 知り得るのは、
  この巨大で複雑怪奇な
        (因縁の)ネットワークの網の目の、
  限定され 分離された 

                    ごくごく一部の経路であり、
  繋がりのいくつかのパターンに過ぎない。

  その ほんの一部の理解が 
  人類の大繁栄をもたらしたのは

                                      事実であるが、
  だからと言って 

                    それに執着してはならない。
  わたしたちが執着し 手放せないものは
  まさにその繁栄を支えているものなのだ

  現代社会は ずいぶんと
  複雑なことを知っているように見えるが、
  これは
  単純な(仮の)理解の複雑な組み合わせ
                                         に過ぎない。
  その(組み合わせの)複雑さを増すことで、
  一見 現実に近づいているように見えるが、
  結局ところ この方法(論理的思考)では、
  最終的現実姿(ネットワーク全体)
                  にたどり着くことはできない。

  理解(できること)に執着することで
           その組み合わせの複雑さを増し、
  そして その複雑さに絡めとられ
  人類は ますます
    「苦悩を深めているのではないか? 

「思考」の複雑さは、
  なにかを隠す(逃避・抑圧する)のに丁度いい。

  このような理由から、
「想(思考)」 は複雑にならざるを得ない。
  複雑な想を手放せば(考え過ぎなければ
  なるようにしかならないという
     ありのままのシンプルな世界が現れる。

   「世界はシンプルである」とは、
                              そういうことだ。
     シンプルな方が
     な生き方が できるのではないか?

  証明(といってもやはり不完全なものだが)
  ができなくとも(エビデンスがなくとも) 
  全体を感じる感性を大切にして、
  その 「感じる」 という要素を
                 もっと重視すべきではないか?

  現象としての世界は複雑だが
  その原理(本質) 驚くほどシンプルである
「思考」を形成する組み合わせの複雑さが、
           世界を複雑に見せかけているだけだ。

(リアルを)感じることは  シンプルである。

感覚はシンプルであり「思考は複雑だ。
思考 取り払えば  世界シンプルになる
  そのシンプルさを、
  なんとか 社会持ち込めないものだろうか。


ブッダの縁起論


  ブッダの説く縁起論とは、
  そんなもの(因果論)ではないだろう。

  なにか一つの出来事が起こるとき、
  その状況を生みだしたものは 
                                   無数に存在する。
  状況に影響を与える因子は、数限りない。
  そして それは、
  人間の理解と支配の

                 およぶところではないだろう。

「わたしがこうしたから、こうなった」
                              と人はよく言うが、
「わたしのしたこと」は「こうなった」

              結果の ほんの一部でしかない。
「因」なのか「縁」なのかも分からない。
わたし

   状況をコントロールしたわけではない

「わたし」 は

「こうなった」という結節点に関連する、

                  無数の要素の一つに過ぎない。
  その中で、重要である要素はこれであり、
  他の要素は重要でない などとも言えない。

  だから、
わたしのせいで こうなってしまった
                           などと悩む必要もない

  全体を構成する関連の中にある 
              個々の要素の重要性を、
               相互に比較することはできない。

  そもそも 縁起というネットワークの中では
  その存在の重要性を評価すること

                                    自体が不可能で
  評価なきところには 

                     比較も競争も成り立たない。
評価は、たった一つの基準という
(因果関係が成り立つのと同様な)直線的で
               単純な世界でしか成り立たない

ものごとは 私の意志と関係なく
                       勝手に自然に起きている

                 というのは、このことである。
  しかし 勝手に起きているからといって、

「自分は何もしなくていい」 ワケではない。


  わたしも ネットワークの一員であり、
  わたしは 自分今すべき今できることを、
  その因縁の流れを意識しつつ行なう

                               【無為】のである

  それが、「わたしの Doing」である。

  だが「わたしの行為」であっても、
  それは しっかりと
  縁起の流れの中に 位置づけられている。
  だから、それは
「わたし」 が 「行サンカーラによって
                  行った
【有為】のではなく

大いなるもの
  わたしの手を通して行った
のだ、
                     という表現も可能だろう。

  やはり、
「わたしのせいで こうなってしまった」
                 などと 悩むことはないのだ。
  結果は 気にしなくていい。結果もまた、
  縁起の因縁の結節点に現れた
                     「或る表現」に過ぎない。


わたしその結果の

            原因となっているわけではない
  だから 結果に対して責任は持てないし、

                                 持つ必要もない。

  そのことが分かれば、つまり
  ブッダの 「縁起」・ティクナットハンの 「interbeing」

                                      を理解できれば、
「わたし」 や 「わたしの行為」は

                                         限定的であり、
  全体の一部でしかないことを

                                   知ることができる。


「わたし」 が 「行」の力で 何かを為した 
                                       のではなかった。
  それに気づけば、自分が 他のみんなと同じ
         ただ
(普通)の人であることが分かり
生かされているという感覚とともに

感謝の念」  「謙虚さ
                       必然的に湧き上がるだろう。

  人間社会における「分業」も、
  アリやハチなどの昆虫社会での役割分担も、
      縁起(ネットワーク)の 一つの表現形である。
  それぞれの個体は、
  全体のなかで必要とされる役割の
                    一端を担になっているだけで、
  その役割に
意味の違いや 貴/賎などという
                             「比較は存在しない

  アドラーが
「人間の悩みも幸せも、
                   ともに対人関係のなかにある」
  と言ったことのベースには、
       縁起(interbeing)という
          法(ダルマ)の理解があっただろう。


「愛する」ことが、なぜ重要なのか? 
  それは、
こそが 縁起(interbeing)を体現する
                     唯一の在り方だからだろう。
  縁起を体現するものが「愛」であり、
  愛によって もたらされるものが
                                    「癒し」である。

  そうであれば、アドラーの語る共同体が
                       単に 人間集団に留まらず、
  この世の存在すべてにおよぶのは、
                                 当然のことだろう。

  わたしたちは
  他者の存在なしで生きて行くことが
                        できないのと同じように

  わたしたちを生かしてくれる環境なしで
         生きていくことはできない
のだから。


ネットワークの在り方


  わたしたちは 絶えず、
  他者と他の存在から影響を受け 同時に
  他者と他の存在に   影響を与えている

  あらゆる存在は 結びついている
  それが ネットワークの姿である。
  ネットワークとは
  一方的でない 相互作用である。
                     相互依存と言ってもよい。
  わたしたちは 互いに影響を及ぼしあって、
  刻々と姿を変え、
            生まれて死ぬのを繰り返している。

  そして いつか、

            わたしの身体からだは本当に死んで、

「わたし」というネットワークは 

  より大きなネットワークのなかに

                  永遠に消滅してしまうのだが、

  わたしが 生きている間に与えた影響は、

  より大きなネットワークの中に残り続ける。


  わたしの影響を受けた 

                        ネットワークの要素は、

  また別の要素に影響を与え、さらに

        その要素は 別の要素に影響を与え、

  その影響の連鎖は果てることなく、

  空間と 時間を超え、永遠に続いていく。


  これがネットワークの在り様であり、

わたし(の体)が死んでも

   わたし(の魂)は死なない」というのは、

                                    このことである。

  肉体が滅んでも なくなることのない

                        「わたしのいのちとは

  この 縁起ネットワークのことであり、

                「大いなるもの」 とも呼ばれる。

  この ネットワークを編んでいる

                                    網(関係)の線は、

愛の関係」    という太い綱   であったり、

交友の関係」 という紐         であったり、

仕事の関係」 という糸のこともあるだろう。

  網の目の線の太さは様々である。そして、

     その線が繋がっている期間の長さもまた、

                                         様々であろう。


  そのようにして わたしたちは、

                 家族や 友人や 同僚だけでなく、

  生きている間に関わる すべての人々と

                           すべての存在を 介して

  全体のネットワークに関与している


生きているということは、すなわち

          関与しているということである。

  したがって、「孤立している」というのは

                            妄想マーヤーに過ぎない。

  孤立している・分離しているということも、

  孤立する      ・分離するということも、

                                    本来あり得ない。


  すでにある あるがままのリアルは

  ネットワーク(つながり・関係性)である

  だから 

  わたしたちは、それを確認するために

              「つながりを求めて生きている

  そのように世界を観ることができれば、

  もう「死」は

  恐ろしいものではなくなるのではないか?

という苦悩から

                       解放されるのではないか? 

」  「」 を 超えるものなのではないか?


結び


  縁起論とは、

  反知性論(知性の限界を示すもの)であり、

  無明(知らないことを知らない)の解説でもある。

  ところで、

「そのまま・ありのまま」ではダメだ、

  大丈夫であるためには「条件」が必要だ、

  と言っているのは「知性・思考」である。


  だが「知性」には限界があり、

        「思考」の評価や判断など 

              どれ程のものでもないのだから、

そのままではダメというのは 単なる

  思い込みに過ぎないことが分かるだろう。


  もちろん、

ありのままでOKであるからといって

何もしなくていいという  ワケではない

  対処すべき状況にあるとき  過剰」 に注意し

  一生懸命 最善を尽くすことは、   当然だ。


  それを踏まえた上で、わたしたちは 

  縁起ネットワークの姿を知ることにより、

「知性・思考の罠から解放され

ありのままでOKであることが

                              真理である

           心の底から納得できるようになり

そのままで大丈夫なことに 

                 寛ぐことができるようになる。


     縁起ネットワークとは

   「相互依存」とも呼べるものであり、

   「大いなるもの   在り方であり、

   「梵我一如」      の   説明でもある。


  梵我一如とは、 価値や意味に関わりなく 

  あらゆるものが繋がっているという

                            リアルな事実である。

  愛することが こんなにも心地よいのは

  あらゆるものが繋がっていて、

  それ故に当然 人々も相互依存していて、

  愛することによって 

  その繋がりを 確認強化できるからだ

  それによって わたしたちは、

大いなるものの一員となる

                           ことができるからだ。

  そこが わたしたちの  居場所」なのだ。


  だから「愛することが

  人間にとって 「根源的な欲求なのだ


  私は、

  世界は  このような在り方であると思う。




  人体の縁起ネットワーク」を参照

  他の方のブログ 

        最善だと思える行動を!を参照



(最終改訂:2022年2月27日)