心の構造から読み解く
苦と行と苦悩
― どうして苦しみが生まれるのか、
そして「行」とはなにか ―
行(サンカーラ)が 苦を苦悩に変えている
「心の構造:要素と座]
[要素がRだけの状態]
[要素が非Rの状態]
[日常の要素の状態]
[行が苦しみのキーワード]
[受のレベルの行]
[想のレベルの行]
[五蘊のバリエーション]
[純粋なRと純粋な非Rの状態]
[なぜ真理が見えないのか]
[行とはなにか]
[真の苦悩の原因は何か]
[どうすればいいのか]
「心の構造:要素と座]
心の座と呼べるようなものがあって、その座の上には何かが載っかっている。座を占拠しているものがある。
それは大きく二つに分かれ、一つはこの現実世界(リアル)としっかりとつながった感覚(R)で、もう一つは、現実世界と直接の関係なく頭の中で人間が勝手に創りあげた非リアルなもの(雑念・思考・感情・概念・マインド:非R)
心は、この心の座と その座を占拠する二種類のもの(R or 非R)から成り立っている。
この「座と座の上の要素」 「要素は二種類」という構造を理解することが、決定的に重要である。
仏教では、この要素を生みだす六つの感覚器官のことを六入(または六処または六根)と呼び、その内容は「眼・耳・鼻・舌・身・意」の六つであり、そこから生みだされる感覚を六境と呼び、「色・声・香・味・触・法」の六つからなる。
「色・声・香・味・触・法」のうち、
「色・声・香・味・触」の五つが 身体(からだ)を通して現実世界(リアル)としっかりとつながった感覚(R)であり、
最後の一つの「法」が 頭の中で人間が勝手に作りあげたもの(非R)である。
[要素がRだけの状態]
心の要素がRの状態(感覚だけ)で、非Rである「行」と一体になって(Rの快/不快を追求/否定して)いないとき、
「わたし」は外の自然(R)と内なる自然(自分自身の身体:これもR)としっかりとつながっている。
Rであり、非Rの行と一体化していないとき、
「わたし」と世界は 分離していない。
「わたし」は 孤立していない。
世界は「わたし」の仲間である。
そのとき
「分離したわたし」としての個人は存在しない。
「わたし」 が 「世界」で、
「世界」 は 「わたし」である。
わたしと世界は 一体であり、
一つのもの(ワンネス)である。
アートマンであり ブラフマンでもある(梵我一如)
自分自身の身体とも しっかりとつながっている(心身一如)
そのとき
「わたし」 は 「わたしの体」の声を聴くことができ、
「苦悩」をもたらす「体の疲れ」にも、いち早く気づくことができる。
[要素が行と一体化した非Rの状態]
心の要素が行と一体化した非Rの状態の(思い込みによる感情にとらわれている)とき、
「わたし」は 分離して孤立している。
「世界」という共同体の どこにも居場所がない。
そのとき
「縦の関係」で他者と関わり、
分離した個人同士の比較と競争が起きている。
「わたし」は
他者と同じか・優れているか・劣っているか
という意識にいつも苛まれている。
そのとき
世界は「わたし」の敵である。
「自分自身の身体(からだ)」の声を聴くこともできず、
他者より優れた特別な何ものかになろう
といつも努力し、頑張り、疲れている。
そして、
疲れていることさえ分からないこともある。
そのとき
わたしは「苦悩」にまみれている。
[日常の心の要素の状態]
心の座の上に載っているのが、「行」の入り混じっていない「純粋な」Rまたは非Rだけのときは、純粋な感覚だけを感じているか 純粋に思考が進行しているかのどちらかで、そのときは「苦悩」と無縁である。
そのR/非Rに「行」が混入して、それを希釈・鈍麻させているとき、もしくは「行」一色になっているとき、「苦悩」が発生している。
この純粋さを維持する能力のトレーニングが、サマタ瞑想である。
「行」に濃く染まっているときは とても苦しいが、日常の大部分は 希釈され 鈍麻した状態である。
思考や感情がなくなり この希釈・鈍麻が解消されると、世界は驚嘆すべき姿を現し、薄ぼんやりとした日常生活が 驚異に変わる。そのとき「いのち」の神秘が ベールを脱ぎ捨てる。
「行」が生起し、Rや非Rと一体化してしまうか 否かが、「苦悩」が発生するか 否かの 分岐点である。
以下、そのことについて考察する。
[五蘊の行が 苦しみのキーワード]
五蘊(色・受・想・行・識)という言葉を使って、このことを別の視点から観てみる。
「色」とは「身体」のことで、われわれは「色:体」を通して外の世界とつながっている。外界の刺激を感覚(R)として、心に伝えている。この感覚は色・声・香・味・触の五種類(五境)に分かれるが、このうち「触」だけは外界の刺激に対応する感覚だけでなく、内なる自然である自分自身の体の情報も含んでいる。
(五蘊の「色(からだ)」と 五境の「色(いろ・かたち)」は 同じ漢字だが、違う意味である)
いずれにせよ、外または内の自然を「色(からだ)」が感覚に変換することで「心」に伝える。「心」は感覚(R)を通して、世界とつながる。
だから「感じる」ことが、直接的に「生きる」ことである。感じているとき、考えていない。
この「一次的感覚(色)」には、「快:楽」または「不快:苦」の二次的感覚「受」が付随したり、しなかったりする。色も受も「R」である。
付随するときは、それに引き続いて「快」を追求したり「不快」を否定しようとする心理である「行」が発生する。さらに、「快」を否定したり「不快」を追求しようとする、奇妙な心理が発生することもある。これも「行」と呼べるだろう。「行」に囚われると「苦悩」が発生する。
また、Rに付随する快/不快を直接追求/否定(4通りのパターンあり)するのでなく、快/不快を「善/悪」 「優/劣」などの概念(想)に変換(想)し、その変換されたもの(想)を追求/否定するという、より高次の「行」が発生することもある(この場合は2パターン)
この変換された「善/悪」 「優/劣」などの概念(想)は、六境のうちの非Rである「法」と まったく同じものである。
すなわち非R(想 or 法)は、
外/内の自然との接触を契機に、それに反応・変換(想)することで引き起こされる(心の座に現れたリアルな感覚Rが非Rである「想」に変換される)こともあるし、
または 自然との関わりとまったく別個に独立して発生する(いきなり心の座に「法」として 浮かび上がる)こともある。
[受のレベルの行]: 渇愛
「受」のレベルで「行」が反応する4つのパターンは、以下の通りである。
Rレベルの行
① 快(楽)を追求する享楽的な欲求
② 快を否定する禁欲的な態度(意識的または無意識的に)
③ 不快(苦)を追求する「苦行」(意識的または無意識的に)
④ 不快を否定する逃避的欲求
①から④まですべての「行」は、いずれも「苦悩」を引き起こす。
①と④は、自然な人間の欲求だろう。
まず①について。
楽しいことは追いかけたい。しかし楽しいことを続けるのは難しいので、ほどほどにしなくてはならない。追いかけ続けることはできない。
この①は 依存症を引き起こすこともあるが、それは 自分でも気づかないままに ②の状態に陥り、自分の「快」が何なのか(自分のしたいことが)分からなくなっていることが背景になっていることが多い。
現代においては、食事が ①になっている可能性が高く、それが依存症に進展した姿が「肥満」かも知れない。快楽として食事をすることは、かなり容易だ。
ついで④
嫌なことは嫌に決まっているし、嫌なことは見たくない。が、いつまでも逃げおおせるものではない。立ち向かわなければならないときが来る。
三相(無情・苦・無我)でいう「苦」とはこのことである。つまり「苦」は当たり前の真実(法:ダルマ)だ。真実に逆らってはいけない。
真実に逆らわず、「苦」から逃げずに それを受け止めて 受け入れる(受容する)ことが、「幸せ」への道なのである。真実に逆らっていては、幸せになることなどできない。
この三相(の苦)という法(真理)を否定しようとすること、つまり 過剰な④が、「苦悩」のおもな発生原因である。
一方 ②と③は、自然な欲求に逆らっているという点で ちょっとひねくれている。
これらはいずれも、自然な欲求に従うことが「苦悩」の原因だと間違って理解してしまったため、欲求を否定することが「幸せ」への道だと誤解して(思い込んで)しまったためだ。
本来 自然な欲求に「適度」に従うことに問題はないのに、それらの欲求を善悪などの「想」に変換して追求/否定しようとする「より高次の行:サンカーラ」のなせる、ひねくれた技である。
このとき、快の追求は悪で 不快の追求が善であるという風に、「教え」を間違って解釈している。
「快/不快の受」に対しては、過剰に反応しない(中道の)態度が求められる。
[想のレベルの行]: 取
一方、「想」のレベルで「行」が反応するときは、2つのパターンがある。
非Rレベルの行(より高次の行)
① 善・正義・優れたもの の追求
② 悪・間違い・ダメなもの の否定
これら「〜ねばならない(追求)」 「〜ではいけない(否定)」ということは、当たり前のことに思われるだろう。そう教えられ、それを取り込み・内面化し、そうやって皆 この社会を生きてきたのだから。
「受」レベルの「苦」の代表的なものは「飢え」である。それを克服するため、人類は農耕を発明して食料生産性を飛躍的に高め、定住生活が始まり、群れ集団が大きくなって社会が形成された。その社会を円滑かつ効率的に運営するために「分業」が発達し、人々はそれぞれその一端を担うことになった。
社会生活での「苦(飢え)= 社会的に不利な立場」を避けようと、社会的に安定した上の立場に立つため、分業において有利な状況を獲得するために、「善・正義・優」などという概念を生みだし、それを追求することになった。それが「より高次の行」である。
この「非Rレベルの行」 は、「Rレベル④ の行」を強化するために生みだされたものであり、「苦」を否定しようとしたがために、かえって「苦」が「苦悩」に変わってしまったのである。
でもそれ(善・優)は「本当」か?
それは「真理:法(ダルマ)」なのか?
どんな場合・どんなとき・どんな状態にもかかわらず、
それらは「いつも(非無常)」正しく優れたものなのか?
正しさとか優秀さとは、普遍的で絶対的なものか?
それは、たんなる「思い込み」ではないのか?
あなたは、正しさとか優秀さというものを、
とことん徹底的に考え抜いたことがあるか?
思い込みに囚われず、素直に考えてみたなら、
それらは単に「概念」に過ぎず、
人間が 取り敢えず「道具」として作りあげた
「仮のもの:幻想(空)」である、と気づくだろう。
ある一定の 限られた状況(部分)でのみ成り立つ虚構である、と気づくだろう。
マインドフルネスがあれば、分かるはずだ。
「想」はサバイバルのための「仮のもの」なのだから、そのことを理解し、適正に利用すればよい。そんなものを追求し過ぎて、循環させてはいけない。それが「苦悩」の元になるのだ。
(幸せになるための)必要条件と 十分条件を取り違えてはいけない。「行」と一体化しなければ、「想」に使われる のでなく「想」を使いこなす ことができる。
マインドフルネスがあれば、それは容易だ。
[五蘊のバリエーション]
五蘊は 自我が形成される過程を示していて、
一般的には、
色 → 受 → 想 → 行 → 識(自我)
という流れで理解されているが、
A 行→識
↑
B 色→受 → 想 → 行→識
C 法(想)→ 行→識
と、さらに3パターンに分けて考える方が より正確だ。
〔→〕は必然的な反応で、切り離すことができない。
一方〔→〕は、無意識・無自覚だと その反応が起きてしまうが、マインドフルネスがあれば、切り離してその先の反応(最終的な「識:自我」の成立)に進まずに済む。
「行→識(わたし)」まで進んでしまうと「苦悩」が発生してしまう。
A の「行→識」 は「渇愛」 であり、
BとC の「行→識」 は「取」 である。
AとBは、現実世界(に「色」が触れること)によって引き起こされる反応である。
Aは「受」 の 「快/不快」を、「想」を介さずに直接 追求/否定しようとするときの反応で、前記の Rの ①・④に相当する【渇愛】
Bの「高次の行」 は、「快/不快」 を 「想」 の 「善/悪」 などに変換してから追求/否定しようとする間接反応であり、非Rの ①・②に相当する【取】
Bを何度も数知れず繰り返していると、そのうち現実の出来事がなくとも、いきなり「想」が心の座に生ずるようになる。このときの「想」を、特別に(意という感覚器官から生じたとされる)「法」と呼ぶ(感覚を介さない思考が「法」)
これが Cの状態であり、その「想」に反応して「行」が生起すると、やはり「識」まで反応が進み、苦悩が発生する【取】
「受や想」に対して「行」が反応し生起すると 執着が生まれ、受や想と「わたし」が一体化し、
(受を生みだす)色(からだ)が自分だと、
また 想(思考・感情・想い)が自分だと、
思い込んでしまう。
それが「識(わたし)」が発生するメカニズムである。心の座を占拠する(無常なる)要素に過ぎないものを、自分自身だと思い込んでしまう。
無常でないものは、歳を取ることがなく変わらない「わたし自身」 である 「心の座」の方である。
誰の心の中にも、歳を取ることなく変わらない「少年・少女のままのわたし自身である もっとも身近な友」がいる。
[純粋なRと純粋な非Rの状態]
「受」のレベルに留まること(マインドフルネス)ができれば、すなわち「受」から直接「行」に反応せず、かつ「受」 を 「想」に変換しなければ[純粋なRの状態]でいられる。
アスリートや芸術家たちが素晴らしい表現力を見せてくれるのは、この状態でなおかつ深い集中を伴った「ゾーン」の状態のときであろう。
また「想」に変換されたり、「想」が直接生起したとしても、それを「行」につなげることがなければ[純粋な非Rの状態]でいられる。これは思考のハイパフォーマンス状態で「フロー」と呼ばれる。
このとき、
「わたし」が考えるのでなく、
思考が勝手に湧き上がり、
言葉が自らの意志で生まれて来る。
言葉にならない考えが、
勝手に どんどん進んで行く感じである。
しかし、ゾーンもフローも強い集中状態(focus attention:サマタ的)であるため、一時的にしか維持できず、長期間 いつでもどこでも安定してその状態で居続けることはできない。
したがって、もし それにこだわり執着してしまうと、それもまた「苦悩」を呼び起こす要因となり得る。
そのような強い集中ではなく、Open monitoring(ヴァパッサナー的)としての 特定の目的を持たない[純粋なR]の状態こそが、「わたし」 と 「世界全体」をつなぎ、わたしたちを「幸せ」へと導いてくれるものだ。
マインドフルネスを修めて 純粋なRにすぐ入れたり その状態を維持できたりすれば、いつでもどこでも「いまここ」の幸せになれる。
「純粋なR」の状態になれば、たしかに 世界の神秘と驚異を体験できる。
[なぜ真理が見えないのか?]
以上、かなり細かく・しつっこく説明してみたが、なぜ「苦悩」が発生するのか(四聖諦の集)を、キチンと理解することがきわめて大切だからだ。
そのメカニズムを解明するために 心の構造を理解し、そこで何が起きているのかを知ることが「幸せ」の基礎になる。
四聖諦とは、仏教の教えを短く四文字にまとめたエッセンスである。
まず、自らの「苦(この苦は三相の苦ではなく、苦悩のことである)」に気づくことがスタートになる。
次いで、「苦悩」がどのように発生するのか、そのメカニズムを理解することが「集」である。
そして、そのメカニズムを打ち破る 具体的な実践法が「道」であり、
その道の完成が「滅」という苦悩のない状態である。
「集」の重要性は諦(あき)らかだろう。
「集」を理解し、「概念としての滅」に向かって「道」を歩むことが リアルな「悟りの人生」であり、「滅」という 非リアルな概念を「悟り」と考えて「悟らなくてはダメ」などと思ってはいけない。
概念でない「リアルな滅」とは、「いまここ」にいることである。
ブッダが 自らの教えを説明するために創りだした「六境と五蘊」という言葉・概念を借用して、「苦しみ:苦悩」の発生のメカニズムを、私なりに考えてみた。
「六境や五蘊」というのも、単なる言葉であり、概念に過ぎない。それらは、法(真理)を伝えるのに便利だろうと思って創られた「仮の」ツールであり、「方便」と言ってもいいだろう。
伝説によれば、ブッダは自ら気づいた「法」を他者に伝えるのは きわめて難しいと感じていた。しかし、因縁の流れの中で(ブラフマンの勧めにより) 自分がするべきこと・できることはこの「法」を伝えることだと決意した と言われている。
ここでいう「法(ダルマ:真理)」は、勝手に想い浮かぶ「法」とは違う言葉である。
だから「法(勝義諦)」を理解することは とても難しい。それは「世間の価値観(世間諦)」と真っ向から対立するからだ。
世間の価値観とは、(オンリーワンと言いながら、本当はナンバーワンになりたいと思っている)承認欲求を讃える価値観のことである。自分が今まで信じ込んでいた「その価値観」を徹底的に疑うことからしか、理解のスタートはあり得ない。
それが、理解の難しさの所以(ゆえん)である。
これらの言葉を使って、ブッダが具体的にどのように伝えたのかは、知るよしもない。経典の言葉としては残されているだろうが、それは特定の状況のもとで語られた言葉(対機説法)でしかない。その特定の状況とは、そのときの「いまここ」であり、それを完全に言葉に変換して再現することは不可能だ。
その不可能性もまた「法」である。だから「真理」を言葉だけで伝えることは「できない」のに、それを「できる」と思い込んで、ブッダ亡き後 ブッダの教えの拠り所を「ブッダの語った言葉」に求め過ぎた人たちの末裔が、テーラワーダ仏教の信奉者であろう。
最後には 言葉ではなく 自らを拠り所としてしか、ブッダが見いだした、そして 数え切れないほど多くの人々も見いだした「法」を、自分自身のものとすることはできない。
単なる 知的な理解・言葉だけ/頭の中だけの理解に留めるのでなく、自らの心を実験台として、一人ひとりが自分自身で 検証し、実証しなくてはならない。
自分で努力し、苦労して、体感するしかない。面倒を避けては 進めない(正精進)
[行とはなにか?]
再び視点を変え、「行」をキーワードとして考察してみる。
「行」は全部で六種類あった。リアル(R)な「受」レベルの四種類と、非リアル(非R)である「想」レベルの二種類の行である。
さらに、R②・③を意識的なものと無意識的なものに分けると、八種類の行になる。
このうちRの ①と④がサバイバルに直接関わる根源的なものである。
R①は、過剰に「快」を求める「行」であり、R④の反作用であり、無意識的なR②の結果でもある。享楽的な欲求とも、ときには依存症とも呼ばれる。
R④は、生存を脅かす「苦(不快)」に対する「いのち」のもっとも根源的な反応であり、これこそが「すべての苦悩」の根源と言えるものである。
非Rの ①と②は、このR④を強化するために、二次的に人類が発達させた より高次の反応である。
非Rの ①も、ときに依存症(ワーカホリックなど)となり得る。
Rの ②と③は、非R①・②の亜型として、「行」の対象が 非Rから再びRへ戻った、倒錯した「行」である。普通は無意識状態で気づいていないが、「間違った修行」として意識的に選択されることもある。
以前の記事で「行」とは「承認欲求」のことであると言い切ったが、今回の考察で それは間違いであり、「承認欲求」と言える(に関連する)のは、非Rの①・②と Rの②・③の四つであることが分かった。
ちなみに「行」とは追求/否定(の循環)のことであるが、日常会話では「執着」と呼ばれ、衝動的な反応を引き起こすもとになっている。悟りのキーワードとして「手放す」という言葉が使われることがあるが、この「執着:行:サンカーラ 」を「手放す」ことが、悟りと解放(解脱)への道である。
「執着」と呼ばれている「行」は、実は わたしたちの切実な「願い」でもある。「執着」という言葉なら 手放さなくてはならないと思うだろうが、「願い・想い・希望・夢」という言葉に変えてみたときに、それを手放すことができるだろうか?
それらは「わたしの生」を支える「根源的な欲」のようにも思えるだろう。だから、言葉を使って説明するのは 本当に難しいのだ。
「手放さなくてはならないもの」は、わたしたちにとって もっとも「手放したくないもの」である。
そして「手放す」とは 捨て去ることではなく、「空」であること理解し、「仮のもの」として 適切に対処するということなのである。
「承認欲求」では、自らの課題(欲求)と他者の課題を取り違えている。そのため、「承認欲求」に駆り立てられ続けているうちに、自らの欲求を見失ってしまう。
それが、無意識的に R②・③を引き起こしている。自分が 本当は何をしたいのか、どうありたいのかが 分からなくなってしまっているのだ。
もう一度 それを真摯に探してみることは、非常に大切なこと(修行)である。
[真の苦悩の原因(集)は何か?]
以上 「行」について考察したが、すべての「行」の大元(おおもと)は R④の「行」である。
この「苦を避けようとする」R④こそが、三相の一つである「苦」に対する「行」であり、その「苦」は「生老病死」に代表されるものだ。
「飢え」に代表される「生」に必然的に伴う「苦」
「老・病」という「生」の基本条件が脅かされる「苦」
そして、
「生」の消滅を意味する「死」
「生老病」は 経験できるリアルな苦であるが、「死」は 経験できない非リアルな苦である。
この「生老病」に必然的に伴う「苦(不快)」は、サバイバルを運命づけられた「いのち」にとって 避けたいものではあるが、最終的には 決して避けることのできない「死」が訪れる。
サバイバルするぞという意志は、死というリアルな現実によって、かならず 打ち砕かれる。
これは、「当たり前」の真理であり 諦らかなことなのだが、この「生」 と 「死」の 反対方向に向かうベクトルによって引き裂かれることで「苦悩」が生まれる。
この諦らかな「苦(死)」を避けようとして、人類は「想」を生みだし、文明を発展させて対処してきた。その結果 物質的な豊かさがもたらされ、人類の人口は 爆発的に増大した。
それを駆り立ててきたものは「行」の力であり、これが人類の歴史である。
しかし その営みは、同時に「苦悩」も生みだした。
「行」の力が 大きければ大きいほど「苦」は 一見少なくなるように見えるが、それに反比例して「苦悩」が 大きくなってしまう。
ブッダが「四聖諦で説いた 滅することのできる苦」とは、受に必然的に付随する「三相の苦」のことではなく、「行」が引き起こす「苦悩」のことである。
「苦」をなくそうとするから、「苦悩」が発生するのである。
「苦」のダイレクトな反作用が R①を強化して[Rの行]である「渇愛」を引き起こす。
そして「苦」をなくそうとして「承認欲求:非R①・②と R②・③」が発達した結果、[非Rの行]である「取」の状態となる。
このようにして、「苦悩」が発生することになったのである。
「死」をどこまでも否定しようとするから、いつまでも「非リアルな死」が恐ろしいのである。
いつか訪れるであろう「非リアルな死」を受容できれば、恐怖はなくなる。
「リアルないまここ」にいることができれば「死の受容」は可能だ。
「リアルな苦」をなくすことはできないが、「非リアルな苦悩」をなくすことはできる。
何度も繰り返すが、つまり 今まで述べてきた Rの④こそが、「苦悩」を引き起こす大元(おおもと)であった。
したがって「苦悩」から解放されるためには、「苦」を 否定せずに、受容しなくてはならない。「苦」を ありのままに味わい、受け入れることだ。
そして、
「死」は「非R」であることと、
「R(リアル)」は「老病を含む生」だけであることを、
しっかりと理解することだ。
もちろん「苦」から逃げてもいい。「苦」を否定してもいい。それが可能なら、そうすればいい。
でも、それを いつまでも貫き通すことはできない。
いつか必ず、「苦」に対面せざるを得ないときがやって来る。
そのときに、逃げてはいけない。
そのときは、能動的に 諦めるのだ。
そのときは、受け入れて 手放すのだ。
それが、「幸せ」につながる道なのだ。
「想」とは 人間が創りだした幻想であり、
もとは「空(くう)」である。
「死」もまた 幻想に過ぎない。
そのことが 心の底から理解できれば、行を手放して 苦を受け入れるのも 容易(たやす)いだろう。
「悟る」とは「苦を受け入れる」ことであり、「悟りの人生」とは「苦」を感じながらも それに囚われることなく「より善いいのち」を生きていくことである。
[どうすればいいのか?]
「わたし」の中の嫌な部分(すなわち「苦」)を受け入れることができれば、「幸せ」が手に入る。
生きている限り、嫌なこと(苦を伴うこと)は起こり続ける。しかし それを追求も否定もしなければ(マインドフルネスでいられれば)苦悩は発生せず、いつも「幸せ」のままでいられる。
「幸せ」とは 何かがある状態ではなく、「苦悩」の存在しない状態である。
「幸せ」とは、「純粋なRの状態」のことである。
「自分の中の『影の部分』を受け入れることができれば、いつでもどこでも すぐに「純粋なRの状態」である「いまここ」に戻ることができる。
「いつでもどこでも」苦悩の存在しない「幸せ」を手にできる。
「純粋なRの状態」であれば、
何気ない日常生活の神秘のベールがはがれ落ち、
ビビッドな「いまここのいのち」が現れる。
何もしなくとも(not doing)
ただいる(but being)だけで
満ち足りている。
欲しいものはない。
あぁー これでいいんだ、
このままでよかったんだ、
と納得しながら暮らしていける。
いつでも「いまここ」という 故郷(ふるさと:純粋なRの状態)に戻れることを知っている。
私たちが受け入れるべき「苦」の中で もっとも大きなものは、
「自分の嫌なところ(影)」と
やがて確実に「死が訪れる」というリアルな事実の 二つである。
しかし、一度「影」受け入れて「自我の死」を経験すれば、
非リアルな「肉体の死」を受け入れることは、容易になる。
メメント・モリ
(最終改訂:2021年4月15日)