サティからマインドフルネスへ
サティとはなにか?
日常生活での瞑想とはなにか?
法友へ宛てたメールを通して考察してみた。
その中で、見えてきたものがある。モヤモヤとしていたものが、クッキリと姿を現してくれたようだ。
まず、普通にイメージされる「時間をとってする瞑想」と「日常生活での瞑想」の違いについて。
1 型のある瞑想 と 型のない瞑想
この言葉は、タイのスカトー寺で修行していたカンポンさんがよく使っていた言葉である。
「型のある瞑想」とは、「さあこれから一定の時間をとって瞑想の修行をするぞ」と言って始める、いわゆる普通の人たちがイメージする瞑想のことである。代表的なのは 座る瞑想と歩く瞑想だが、スカトー寺では手動瞑想という、他では見られないユニークな瞑想トレーニングを行なっている。
カンポンさんは、頸髄損傷のため首から下の動きが不自由で、下半身はまったく動かず、両手をなんとか少しだけ動かすのが精一杯である。したがって 定型的な手動瞑想はできないのだが、掌(てのひら)を立てたり伏せたりすることで その動きに意識をフォーカスし、瞑想トレーニングを行っていた。
彼は 自力で座ることはできず、もちろん歩くこともできず、そのため 一般的な座る・歩く瞑想ができなかったので、ほんのわずかだけ動かせる手首を頼りに、それを横にしたり立てたりするという 非常に単純な手動瞑想(の亜型)を始めるしかなかったのだろう。
ずっーと横になっているしかないので 一人の時間が多く、それゆえ(型のある)瞑想の練習の時間は 有り余るほどあり、苦しみから自由になりたいという 必死の強い強い思いとともに、ひたすら瞑想修行に励んだ。その意気込みが ただならぬものであったことは、容易に想像できる。
そうして 瞑想のなんたるかを知り、自分を知り 世界を知ることで、それまで 頸損事故から14年の間の、ベッドの上で苦しみ続けるしかなかった暮らしから 抜け出すことができた。それからは、格段に世界が(そして同時に 自分自身も)広がることになった。
多くの人たちとのつながりができ、多くの人たちと話す機会が増え、新しい社会が彼の周りに出来あがったのだろう。ベッドの上では見られなかった風景を目にすることになり、そうして再び 彼の日常生活が始まった。
今度は その日常生活の中で、瞑想トレーニングで得た心の在りようを 応用し始めたはずだ。手動瞑想は、その応用にもってこいなのだから。
それが「型のない瞑想」であった。そして「いのち」の「本番」である日常生活の中でこそ、瞑想が生かされるべきだ と確信していったに違いない。
だからそこ、「型のある瞑想」 と 「型のない瞑想」という言葉を頻用し、そのことを伝えようとしたのだと思う。
だから「型のある瞑想」とは、野球のゲームに例えれば「素振り」の練習のようなものであり、それは「本番」である試合中に生かされてこそ、意味のあるものとなるはずだ。
一人で横になっている時間の長いカンポンさんは、「型のある瞑想」に取り組む時間が十分にあり、しかも トレーニングの方法が手動瞑想(の亜型)であったため、新たに彼の周りに生まれた日常生活の中でも、容易に その感覚を再現することができたのだろう。
こうして 自己を見つめ 世界を理解した カンポンさんは、タイの多くの人たちに愛されるようになった。そのような経験を通して、自分の仕事は「気づき」であり「観る人になること」であると自覚するようになり、人々にその「瞑想」を伝えることが彼の「ダンス」になったのだと思う。
そして 見事にダンスを踊り切り、この世を去って行かれた。
タイの多くの人たちだけでなく、カンポンさんのことを知る 少なくない数の(私を含む)日本の人たちにも、多くのことを教えてくれた。カンポンさんは見事に、ご自身の「いのちのミッション」を果たされた。
これから私が考察しようとするのは、カンポンさんのいう「型のない瞑想」のことであり、日常生活での瞑想のことである。
それを 詳細に観てみると「二つの連続する要素」から成り立っていることが分かる。
「型のない瞑想」には、二つの要素がある。
はじめの一つは、まず「気づく」こと。どこか在らぬところに飛んでいってしまっている心を「いまここ」に引き戻すこと。そして その状態で、「いまここ」のリアル つまり「自分」 と 「世界」のありのままの姿に気づくことである。
つづく 二つ目は、気づいたありのままの「自分」 と 「世界」を ただ観ていること。それ(ありのまま)を 判断して反応したりしないで、「ただ観続けている(受容する)」ことである。
この二つについて、より詳細に検討してみる。
2 気づき
まず、心の座と その内容について考えてみる。人の心の中をよく観ると、心の座(もしくは意識の座)と呼べるようなものが存在し、その上に 何らかの情報が載っていることが分かる。
【この心の構造も、瞑想することで気づくことができる。これに気づくことが、瞑想の第一歩である】
そこに載る情報は、感覚と思考の二種類に分けることができ、感覚は「現実」を反映するリアルなものであり、もう一つの 思考は「現実」と直接関わらない非リアルなものである。
R(リアル:感覚)と非R(非リアル:思考)は、心の座という椅子を巡って争う 椅子取りゲームの二人の参加者に例えることができる。
上記を踏まえた上で、瞑想の最初の要素である「気づき」とは何か を考えてみる。
始めの説明で簡単に、
『 「気づき」とは、どこか在らぬところに飛んでいってしまっている心を「いまここ」に引き戻すこと。そしてその状態で、「いまここ」のリアル、つまり「自分」 と 「世界」のありのままの姿に気づくことである』と述べた。
それは、ただ単に「なにかに気づく」という曖昧なことではなく、思い込みから離れた リアルな「いまここ」に在る 本当の現実に気づくということである。
今まで見ていた「現実だと思っていた」ことが 実は「思い込み」に過ぎず、「現実ではなかった」ことに気づくことである。
心が どこか在らぬところへ飛んでいってしまっている状態とは、心の座を「思考」が占拠している状態であるが、それは たんに空想しているだけではなく「思い込んでいる」状態のことでもある。
「空想」なら、空想していることに気づきやすいだろうが、「思い込み」に気づくことは とても難しい。
心を「いまここ」に引き戻すとは、心の座の(上の)内容を リアルな感覚であるRに置き換えることであり、それが やがて 思い込みからの脱出につながる。
非Rの状態では、心は「いまここ」でない「過去」 や 「未来」または「どこか」を彷徨(さまよ)っている。そこでは、ボンヤリした思考(雑念)が浮かんだり消えたりしながら 空想の世界で遊んでいるときもあるが、ときには 強固で明確な信念に支配されているときもある。
この「信念」の方が、「思い込み」と言えるものである。
非Rの世界は、「いまここ」のリアル(現実)ではないという意味では、幻想(非リアル)である。だから「思い込み」もまた幻想であり、虚構と呼ぶこともできる。
心の座の上の内容を 非RからRに転換することは、幻想(非リアル)から現実(リアル)に立ち返ることであり、「夢(思い込み)から目覚めること」と言ってもいいだろう。
それが「気づく」ということである。
「思い込み」であったことに気づくことで、そこで やっと 本当の現実が観えてくる。
それまでは 現実を観ているようでいて、実はRに非Rが混じり込んでいたため、ありのままのRが曖昧になり、歪められ、薄められていた。もしくは、完全に 非リアルをリアルであると誤解していた。
そのようにして、観ているつもりでも 実は(正しく)観えていなかった。
非Rを完璧に排除したR(正しい現実の姿)がどんなものか、意味(思い込み)を剥ぎ取られた世界の その身も蓋もない姿を知れば、人は 身悶えすることになるだろう。だから その現実に耐えられそうもない人は、なかなか 本当の現実を見ようとせず、そうとは知らぬまま 逃げ回っている。
勇気を持って まず現実を見て、そのリアルな現実に耐え、その苦痛を通り抜けたときに 初めて、人は 自由・解放・平穏のなんたるかを理解し、世界の素晴らしさ・神秘・驚異を味わうことができるようになる。
と、話が飛んでしまったが、気づきとは何か、もう一度繰り返す。
「気づき」とは、空想(思考・思い込み)の世界から 現実に立ち戻ること。「いまここ」に戻ってきて、「いまここ」の現実を ハッキリとありのままに観ることであった。
だが「型のある瞑想」で気づけるのは、雑念と感覚が 心の座という椅子を巡って争う様子 程度であり、そこに「思い込み」が顔を見せることはなく、したがって それ(思い込み)に気づくことはできない。
3 受容
「いまここ」の現実とは、思い込みに修飾されない、見たまま 聞いたまま 感じたままのリアルな感覚の世界のことである。
この(一次)感覚【色】には、分かち難く「快(楽)」または「不快(苦)」の「受」という二次的な感覚が付随している【五蘊の色→受】 ときには「快」 も 「不快」も感じないこともあるが、これは「不苦不楽(どちらでもない)の受」と呼ばれる。
「快という受」が発生するとき、人はすぐにそれを追いかけようとする【渇愛という行】 また「不快という受」が発生するときは、それを否定しようとする。この追求/否定が過剰に起こると「苦悩」が生じる。
追求も否定もせずに「ただ観ている」のは、なかなか難しい。人は つい追いかけてしまう。
ところで、日常生活での瞑想の二つ目の要素は「受容」であったが、「受容」とは、この追求/否定を(過剰に)生じさせずに「ただ観続けている」ことである。はまり込むことなく、一体化することなく、ただ観ていられれば、苦悩は生じない。そして、悦楽や苦悩ではなく、ありのままの現実の驚異と神秘をただ「感じ」ていることができる。
「受容」とは、「五蘊の行(サンカーラ)」を発生させないか、発生したとしても すぐに気づいて過剰にさせないことであるが、行の対象は二つあり、一つは上記の「受という二次感覚」であり、もう一つは以下の「想という思い込み」である。
そして「受という二次感覚(快/不快)」を追いかけるのが「渇愛という行」であり、「想という思い込み(虚構)」を追いかけるのが「取という行」である。
【 「渇愛」と「取」については、十二縁起を参照】
上記のごとく「受」のレベルに直接反応するのでなく、それに伴う快/不快を手掛りに「受」を「想」に変換してしまうことがある【五蘊:色→受→想→行→識】
「快/不快」という「受」が、「善/悪」 「優/劣」という「想」に変換されてしまうと、それは「〜すべき」 「〜ねばならぬ」 「〜してはいけない」と形を変え、この変換されたものに反応することで、より強固な追求/否定が発生してしまう。
この変換(価値の付与)のことを「思い込み」と言い、変換された内容(価値)のことも「思い込み」と言う。
「想」とは、この「評価・判断・意味づけ」などと呼ばれる変換作用のことであり、また変換された「善/悪・優/劣」などの内容のことでもある。
つまり五蘊の「想」 と 「思い込み」は、同じものである。
「〜ねばならぬ」という形に変わってしまった 追求(または否定)しようとする意志の力が「取」であり、「思い込み」を追求することが「取」である。
すると「受容」とは、この「受」 を 「想」に変換しないこと、また「想」を追求する「意志(サンカーラ) 」を発生させないこと であることが分かるだろう。「受→想」または「想→行」の反応を阻止すること、つまり ただ観ている(受容する)こと、判断も追求(反応)もせず「そのままでいいんだ」と ありのままを受け入れていること。
サンカーラ(行)とは、「〜すべきだ・〜ねばならない」という規範のもとになるだけでなく、「〜であって欲しい」という切実な「願い」であることもある。
配偶者や子どもという身近な人 そして自分自身に対し、「〜であってほしい」という願いを持つのは 当然だろう。身近でなくとも 他者や社会に対しても、「〜であってほしい」と望むだろう。当たり前のことだ。
それに対して、自分のできることがあれば やってみればいい。上手くいくときもあるし、そうでないときもあるだろう。そして、上手くいかないときは 諦めることだ。それが 当たり前のことだ。
諦められなければ 苦しむことになる。それが執着であり、囚われるということだ。受容できれば、すなわち 執着せずに手放すことができれば、苦しみは生じない。
だからサンカーラは、あってもいいのだ。
サンカーラを ただ観続け、囚われずに受容できれば、問題にはならない。
だが その前に、よく考えてみて欲しい。
「〜であって欲しい」という その「願い」は、たんなる「思い込み」ではないのか?
まず そのことを問いかけてみよう。
「想」に変換しない(評価しない)方がいいし、「行(サンカーラ)」を発生させない方がいい、と言った。でもそれ【受→想→行】は、本来サバイバルのために 人類が発達させてきた生存戦略であった。
だから それが「悪い」ワケではない。
必要だったのだ。
ただ それにこだわり過ぎると「苦悩」が発生しますよ、という話である。
サンカーラが発生しても、それに囚われず 手放すことができれば、それに苦しめられることはない。
受容さえできれば、サンカーラもOKなのだ。
「評価」しても、それに囚われなければOKだ。
以上のように、日常生活での瞑想には「気づき」 と 「受容」の二つの要素がある。そして重要なことは、この二つ目の「受容」という過程は、日常生活の中で「のみ」学べる ということだ。
「型のある」非日常での瞑想でトレーニングできるのは 始めの「気づき」だけであり、「受容」という過程を学ぶことができない。
「型のある瞑想」をどれだけ繰り返してみても、「思い込み」や それに続いて発生する「サンカーラ(取)」を検証することはできない。
4 型のある瞑想 と 型のない瞑想
「型のある瞑想」は、非Rの思考をRの感覚に入れ替えて維持するものであり、心を「いまここ」に引き戻す「気づき」の練習である。
「受容」の練習にはならない。
その際に利用するリアルな感覚として、座る場合は「呼吸の出入りする感覚」 や 「腹部の動き」を 心の座の上に置くようにする。
しかし その感覚を狭く絞り込み(focusing) 感覚の対象をガッチリと固定し、雑念がまったく浮かばないことを目標にしてしまうと、これは(ヴァパッサナーでなく)サマタ瞑想になってしまう。
この「型のある瞑想」では 集中力がつくので、日常生活の中で 心を「いまここ」に戻すには有効なトレーニングであるが、日常生活に生かせるのは それだけである。ただ漫然と そんなことを繰り返していても、生活の場の「受容」につなげることはできない。
では 暮らしの場での「受容」につなげるために、どんな工夫をしたらいいのか?
そのためには、
感覚をあまり深く狭くフォーカスしない。
感覚の対象を固定しない。
固定しないために、視覚・聴覚・触覚等の感覚を入れ替えたり、また触の感覚においては、熱感と触感の切り替え・触れているのを感じる場所を移動したりする。
動きを対象にするときも、大雑把にとらえるようにする。
フォーカスするのでなく、逆に オープンにする。
サーチライトを一点に当て続けるのでなく、辺り一面を巡らし 満遍なく照らす感じ。
さらに、
雑念が浮かばないように 強制的に抑え込むのでなく、
自然に浮かぶにまかせながらも 浮かんだことに気づいているようにする。
そのときは、
「こんなに雑念が浮かんでは、瞑想が上手くいっていない」などと判断しないこと。
一般的には、座る瞑想よりは 歩く瞑想の方が「型のない瞑想」への転用が容易だ。だから 普段の歩行時でも瞑想できる。
でも その際も、極端にゆっくり歩いたり、足裏の感覚に意識を集中し過ぎないこと。
テーラワーダ仏教では 座る瞑想のときに目を閉じるのだが、これもまた サマタになりやすい要因だ。
一方 大乗仏教の禅宗では、目は半眼とし 2〜3m前方の床を見るともなく見る とされる。「見るともなく見る」というのがポイントで、「見つめ」てしまうとサマタになるか、「見つめ」てしまうことで 何かを連想して「想」を惹起してはまり込んでしまうかも知れないから と思われる。
だから「見つめ」ないために、「見るともなく見る」という言い方をするのだろう。でもそれなら、別に 目は半眼である必要はない。2〜3m先などと 特定の場所を指定する必要もない。目を開けて 広く視界をとり、ボヤーッと「見るともなく見ている」のでよいだろう。
「型のある瞑想」でも こんな風にすれば、「日常生活の(型のない)瞑想」につなげやすい。
手動瞑想が 日常生活に生かしやすく、「受容」につなげやすい理由も、なんとなく分かるだろう。
「型のある瞑想」のときに、強い情動・感情が起こることはほとんどない。情動を経験するときが、「受容」を学ぶときだ。そして、感情が湧き上がる現場は日常である。
だから、そこ(日常)でしか「受容」のなんたるかを学ぶことはできない。「受容」は、普段の暮らしの実践の中で鍛えられるものなのだ。
「型のある瞑想」では 最初のうちはサマタ的でも構わないが、「いまここ」に戻る練習をして それが楽にできるようになったら、あとは「型のない瞑想」のトレーニングを意識したものに変えていくべきだ。
そして、日常を 瞑想しているときのような意識状態で過ごす「型のない瞑想」に移行して その比率を増やし、「受容」の要素を 本格的にトレーニングするようにする。すると やがて、瞑想的な意識状態で日常を過ごすことができるようになる。
いきなり「受け入れる」ことはできず、学びながら少しずつ現実を受け入れていくものだ。そのようにしてしか、自分と世界を「受容」することはできない。「受容」は、日常生活の実践の場でしか 鍛え上げることができないものなのだ。
以上を まとめてみる。
「型のある瞑想」でトレーニングするのは「気づく」力である。「受け入れる」力のトレーニングも ある程度は可能だが、それ(受容力)は「型のない瞑想」で鍛えなくてはならない。
心が「いまここ」にあれば、世界は神秘であり 驚異に満ちていることが分かる。
でも「瞑想」を知らない多くの人は、この驚異と神秘を知らない。
だが「瞑想などという言葉」を知らなくとも、この驚異と神秘を知っている人々は大勢いるだろう。
瞑想という言葉を使わずとも、
瞑想の修行などしなくとも、
瞑想の本質を知り、
それを実践している人たちが大勢いる。
日常生活の場で 意識的に「気づき」 と 「受容」を行うのが「型のない瞑想」であるが、
意識的でなくとも、そうとは知らず「気づき」 「受容して」いる人たちがいる。
その人たちは、日々の暮らしの中で 生きていくために、気づいて受容せざるを得なかったのかも知れない。
富める人たちよりは 貧しい人たちの中に、そんな人たちが多いだろう。極端でない貧しさは、苦しみと同じように、「気づきと受容」の道を 整地してくれるのだと思う。
瞑想というラベルではなく、
中身の「気づきと受容」の方が大事に決まっている。
そして「瞑想修行」などせずとも、
日常生活の中だけで「気づきと受容」を成し遂げている人たちがいるハズだ。
そうであれば、「気づきと受容」のなんたるかを知り、どこでも、どんな方法でも それを練習して 実践することができるようになれば、もう「瞑想」を手放してもいいのかも知れない。
5 サティからマインドフルネスへ
私は 瞑想を始めた当初から、それ(瞑想)は日常生活の中でこそ生かされるものだろう と思っていた。
手動瞑想に出会って、そしてカンポンさんの「型のない瞑想」という言葉を知って、その思いを確信するに至った。
そして今回、日常生活での瞑想とはなにかを チキンと考察してみようと思った。
上記2・3で、日常生活での瞑想の「気づき」 と 「受容」の二つを詳細に考察することで、日常生活の中で瞑想するということが どういうことなのか、自分の中で くっきりとクリアなものになった。
これでますます、瞑想が容易になる気がする。
そこでまた、言葉使いの問題に戻ってみる。
私は 日常生活の瞑想という意味で、サティ=気づき=ヴィパッサナー=マインドフルネス=止観瞑想という言葉を、すべて 同じ意味で使ってきた。
とくに サティという言葉は、短くて言いやすく なんとなく響きもいいので、多用してきた。
しかし ここまでの検討で、暮らしの瞑想には二つの要素があり、一つは「気づき」で もう一つは「受容」であると分かった。
サティは漢字の「念」に対応し、「気づき」という意味である。であれば サティ(気づき)という言葉は 瞑想の一方の要素しか示すことができず、日常生活の瞑想の呼称としては 相応しくないのではないか?
では、「受容」に相当する仏教の用語はなにか? それは「定」という言葉だろう。
実は、「定」という言葉は「禅定」という言葉につながり、「禅定」という言葉は 私の頭の中ではサマタ瞑想を意味していた。
しかし八正道では、「正念」の後に「正定」と続く。どうして「定」の方が 最終的と思われる後の方にあるのか?
また、戒・定・慧という言葉があるが、どうして戒・念・慧ではないのか。
これらの言葉の使い方では、なんとなく「定」の方が「念」より大事そうに見える。でも なんで、サマタが そんなに大事なんだ? と思っていた。
だが 今回の考察で、その謎が解けた。
そう、「定」とサマタは別物だったのだ。
「定:サマーディ」とは サマタでなく、「受容」のことだったのだ。
そう考えると、納得がいく。
そうだったのだ!
すると、「正念(サティ)・正定(サマーディ)」という言葉もまた、日常生活の瞑想のことであったことが分かる。
サティとは「気づき」であり、「気づき」とはどこかあらぬところ・あらぬときを動き回っている心を「止め」ることであった。
サマーディとは「受容」のことであり、「受容」とは判断も反応もしないで ただ「観る」ことであった。
だから「正念正定」とは、「止めて観る止観瞑想」のことでもあった。
ヴィパッサナーもマインドフルネスも「正念正定」であり、「止観瞑想」でもあった。
ここまで検討を進めると、もはや日常生活の瞑想という意味で、「サティ」という言葉を使い続けることはできなくなってしまう。「サティ(気づき)」とは、日常生活の瞑想そのものではなく、日常生活の瞑想を構成する二つの要素の一方に過ぎなかったのだ。
「日常生活の瞑想:型のない瞑想」に相当するのは、ヴィパッサナー=マインドフルネス=正念正定=止観瞑想 という言葉であることが分かった。
この四つの候補の中では、マインドフルネスという言葉が もっともマイルドで 一般に受け入れやすく、使いやすい言葉に思われた。まあこれは、たんに私の趣味(好き嫌い)の問題であり、ティクナットハンに対する敬意からきているだけのことではあるが。
ということで これからは、今までサティと言っていた言葉をすべてマインドフルネスと言い換えることにする。今までブログの中で使ってきたサティという言葉も すべてマインドフルネスに置き換わることになる。
6 最後に
では 瞑想を使って、なにに気づき、なにを受け入れるのか?
ちゃんと瞑想ができれば、いろんなことに気づき、いろんなものを受け入れることができるようになるだろう。その度に「目覚め」を経験するだろう。
心の座の上の内容を整理して、非Rの要素を除いていけば、そこには徐々にRのスペースが、つまり非Rのないスペースが、「空」のスペースが広がっていく【R=空】
そのスペースは、心の余裕と呼ばれる。
心が非Rで覆い尽くされてスペースがないときには、そこに浮上することができなかったものが、スペースが広がり 心の余裕ができると、浮かび上がってくる。
それは 何か?
それは、自分自身のありのままの姿である。
観たくなくて隠していた、ありのままの自分の姿が観えてくる。
ありのままの自分が観えれば、ありのままの世界も同時に姿を現す。
「気づく」とは、「思い込み」を取り除いて 自分のありのままの姿に気づくことである。
ありのままの姿を直視するのは辛い。
それに「気づく」のは 怖ろしい。
逃げ出したくなる。
そして「受容する」とは、
その辛さと恐怖に耐えて 直視し続けること、
その(観たくない)ありのままの自分を受け入れることである。
他者より優れているわけでない、
みんなから「すごい」と思われているわけでもない、
何ものでもない(みんなと同じ 普通の) 自分自身【空:無我】に気づき
そのままでよかったんだと 受け入れることである。
自分を完全に受け入れられた状態、
それが 最終的な「目覚め」である。
それを正しく理解したなら、
再び「わたしというストーリー」に戻ることはあり得ない。
そして その目覚めた後の、
当たり前の何気ない日常を、
驚嘆しながらも 淡々と、
自分らしく生きていくこと、
ダンスを踊り続けることが、
「悟り」の人生なのではないか。
(最終改訂:2021年4月2日)