第五部:愛する人生を選べ
愛とは なにか? 愛するとは どんなことか?
青年 アドラーが 語ろうとする 「愛」 とは、 どんなものですか?
哲人 一般的には 観念的で崇高な 「神の愛」 と、
性欲に駆られた 本能的な 「動物の愛」 ばかりが語られます。
【一般的には、 恋愛感情が 「真実の愛」 と間違えられることが多いだろう】
アドラーが 語ろうとするのは、 「人間の愛」 です。
人間にとっての 愛は、 運命によって 定められたものでもなければ、
自然発生的なものでもない。つまり、 愛に 「落ちる」 のではないということです。
青年 じゃあ、どんなものだと?
【勝手に 自然に 「落ちる」 ものではなく、 自らの 「意思の力」 で】
哲人 築き上げる【掘り起こす】ものです。 「落ちる」だけの愛なら、誰にでもできます。
そんなものは、 人生のタスクと呼ぶに 値しない。
意思の力によって、なにもないところから 築き上げる【というより、自分の最も深い
ところから汲みあげる】ものだからこそ、 愛のタスクは困難なのです。
青年 「落ちる愛」は確実に存在するし、 それこそが「ほんとうの愛」でしょう!
哲人 あなたのいう「落ちる愛」とは、 突然 なにかのモノが欲しくなるような、
所有欲や征服欲と なんら変わりありません。
実際に手に入れてしまうと、 半年としないうちに飽きてしまう。
それを獲得し、 所有し、 征服したかっただけです。 本質的には、 そのような物欲と同じです。
あなたは、 愛において ふたりが結ばれるまでの 物語に注目している。
一方 アドラーは、 ふたりが結ばれたあとの 「関係」に注目しています。
激しい愛の末に結婚したとしても、それは 愛のゴールではありません。
結婚は、 ふたりの愛が ほんとうの意味で ためされるスタート地点です。
もうひとつ アドラーが 説き続けたのは、
能動的な(意識的に愛する)愛の技術、 すなわち 「他者を愛する技術」でした。
【 「能動的な愛」 とは、 意識的に 愛することを決意し それを維持しようとする愛】
たしかに、 他者から愛されることは難しい。
けれども 「他者を愛する(愛し続ける) こと」 は、 その何倍も難しい課題なのです。
【あの人の「こういう考え方」 がダメだから 愛せないという場合がある。
しかし「ダメ」 と判断するときの あなたの 「価値観」 は、本当に正しいものだろうか?
愛するためには、 まず自分の価値観を相対化して他者の価値観を受け入れ、 共有すること。
わたしの信じる価値観こそ絶対だ と思い 続けるのでなく、他の価値観もあるのだ
と気づき、共有すること。 これによって 「愛するための条件」 を 不要とする ことができる。
さらには、 「結果」という 「課題」を 分離することで、 愛することにともなう どんな結果も
受け入れることができるようになる。
(愛されることでなく)ほんとうに 「愛する」 ということは、 生得的な 自明のことではなく、
上記のように 意志と技術によって 自らの内から掘り起こすものなのである】
青年 違うでしょ。むずかしいのは、愛されることですよ。
哲人 かつては わたしもそう思っていました。
しかし アドラーを知り、 子育てを通じて その思想を実践し、 大きな愛の存在を知った現在、
まったく 正反対の意見を持っています。
青年 いいえ、
「愛するだけ」 なら 誰にだってできます。
【愛することと勝手に好意を寄せることは 違う】
哲人 それでは いま、あなたは 誰かを愛していますか?
青年 ・・・いいえ。
哲人 なぜですか? 愛することは 簡単なのでしょう?
青年 それは、 愛すべき人と 出会っていないからです。「出会い」がむずかしいのです。
哲人 愛は「技術」の問題ではなく、「対象(条件)」の問題である、 ということですね。
青年 当たり前です!
哲人 アドラーは、こう言っています。
「われわれは、一人や 多人数で成し遂げる 課題の教育を受けているのに、
ふたりで成し遂げる課題については、 教育を受けていない」 と。
なにもできなかった赤ん坊が成長するのは、 「ひとりで成し遂げる課題」です。
それに対して、 仕事は 「仲間たちと成し遂げる課題」です。
そして 「愛」 とは 「ふたりで成し遂げる課題」 なのです。
しかし われわれは、 それを成し遂げるための「技術」を学んでいないのです。
人間にとって 愛とはなにか。 仕事の関係 また 交友の関係とは どこが違うのか。
そして われわれは なぜ、 他者 を愛さなければならないのか。 一緒に考えましょう。
青年 いったい 「ふたり」 で なにを成し遂げるのです?
哲人 幸福です。 幸福なる生を 成し遂げるのです。
幸福になるためには、 対人関係のなかに 踏み出さなければならない。
人間の幸福は、すべて 対人関係の幸福 だ からです。
われわれは みな、「誰かの役に立っている」 と 思えたときにだけ 自らの価値を実感し、
「ここにいてもいい」 という 所属感を得て、 幸福を感じることができます。
「誰かの 役に立っている」 というのは、 客観的な事実である必要はなく
承認を必要としない 主観的な感覚である「貢献感(自分の課題としての感じ)」 があればいい。
貢献感の中に 幸せと喜びを見出しましょう。
仕事の関係を通して、 そして 交友の関係を通じて、貢献感を見出しましょう。
幸せは そこにあります。
仕事の関係を成り立たせている分業の根底に流れていたのは、
「わたしの幸せ」つまり利己心でした。
「わたしの幸せ」を追求すると、結果として 誰かの幸せにつながっていく。
「Give & Take」の関係です。
人間同士の関係は、 まず ここから始まります。
一方 交友の関係を成立させるのは、 「あなたの幸せ」です。
相手に対して、担保や見返りを期待せず、 無条件の信頼を寄せていく。
「Give & Give」の関係です。
無条件とは、期待しないことなのです。
つまり われわれは「わたしの幸せ」を追求することによって 分業の関係を築き、
「あなたの幸せ」を追求することによって、 交友の関係を築いていく。
だとしたら、愛の関係とは なにを追求した結果、成立するのか?
「わたしの幸せ」 でも 「あなたの幸せ」 でもなく、 関係性のなかで
不可分なる「わたしたちの幸せ」を 築き上げること。 それが 愛です。
「わたし」 や 「あなた」 よりも 上位のもの として「わたしたち」を掲げる。
人生のすべての選択について、 その順序を貫く。
「わたしたち」 のふたりが 幸せでなければ 意味がない。
「ふたりで成し遂げる課題」とは、そういうことです。 人生の主語が 変わるのです。
われわれは 生まれてからずっと、「わたし」 の目で世界を眺め、 「わたし」 の耳で音を聞き、
「わたし」 の幸せを求めて 人生を歩みます。 すべての人がそうです。
しかし、ほんとうの愛を知ったとき、 「わたし」 だった人生の主語は、 「わたしたち」 に変わります。
まったく新しい指針の下に 生きることになるのです。
青年 それでは、「わたし」が消えてなくなるのですか?
哲人 まさに。幸福なる生を手に入れるために、 「わたし」 は消えてなくなるべきなのです。
【無我を知って、幸福になることができる。
逆説的だが、 「わたしたちの幸せ」 を求めることで、 真の 「わたしの幸せ」 が手に入る】
【わたしか あなたか、 あれか これか、 苦か 楽か、という二元的な世界観から、
非二元の世界(観)へ移行する】
では、なぜ 愛は幸福につながるのか?
それは、愛が「わたし」からの解放【無我】だからです。
この世に生を受けた当初 われわれは、 「世界の中心」に君臨しています。
周囲の誰もが「わたし」を気にかけ、世話をしてくれます。
己の 「弱さ」 によって、 大人たちを支配しているのです。
「弱さ」とは、 対人関係において 恐ろしく強力な武器になります。
「弱さ」によって 他者を支配しようとする生き方 を選ぶのは、 子どもだけに限りません。
そのライフスタイルを持ち越す、 多くの大人たちがいます。
彼らもまた、 自分の弱さや不幸・傷・不遇なる環境、 そして トラウマを 「武器」 として、
他者をコントロールしようと 目論みます。
心配させ、 言動を束縛し、 支配しようとするのです。
そんな大人たちを アドラーは 「甘やかされた子ども」と断じ、
そのライフスタイル(世界観・生きる態度や在り方)を 厳しく批判しました。
人間の場合、 身体的劣等性を持った新生児は 自活することができない。
したがって、 生きるためには 「世界の中心」 に君臨せざるを得ないのです。
すべての人間は、 過剰なほどの 「自己中心性」 から出発する。
そうでなくては 生きていけない。
しかしながら、 いつまでも「世界の中心」 に君臨することはできない。
世界と和解し、 自分は 「世界の一部」 なのだと 了解しなければならない。
【弱ければ 弱いほど、自己中心性が強まる。
だから 「わたし」 から解放されるためには、 強くなって、自立しなくてはならないのだ】
・・・であれば、「自立」の意味が見えてくるでしょう。
青年 自立の意味?
哲人 なぜ 教育の目標は自立なのか。
どうして アドラー心理学は、 教育を 最重要課題のひとつとして考えるのか。
自立 という言葉には、 どんな意味が 込められているのか。
自立とは、「自己中心性からの脱却」【無我になること】なのです。
だからこそ アドラーは、 共同体感覚のことを social interest と呼び、
社会への関心 ・ 他者への関心 と呼んだのです。
われわれは 頑迷なる自己中心性から 抜け出し、 「世界の中心」 であることを
やめなければならない。 「わたし」から 脱却しなければならない。
甘やかされた 子ども時代のライフスタイルから、脱却しなければならないのです。
青年 自己中心性から 脱却できたとき、 ようやく われわれは 自立を果たす、と?
哲人 そのとおりです。 そのときにこそ、 人間は変わることができます。
そのライフスタイルを、世界観や人生観を 変えることができます。
そして 愛は、 「わたし」 だった人生の主語を 「わたしたち」に変えます。
われわれは 愛によって「わたし」から解放され、自立を果たし、
ほんとうの意味で 世界を受け入れるのです。
青年 世界を受け入れる?
【自己受容 そして他者受容できるようになる】
哲人 ええ。愛を知り、人生の主語が「わたしたち」に変わるのです。
【人生の主語が 「わたしたち」 に変わる とは、 「わたしたち」 の価値観を 「共有する」 こと。
それによって わたしの価値観を 拡張し、 限りなく 拡大することができる。
そうすれば、 「価値観=意味」そのもの (価値観とは何か)が 見えてくるだろう。
価値観とは、 対になる概念が現れては消えるだけの体系であり、 幻想であった と気づく】
これは人生の、新たなスタートです。
たったふたりから始まった 「わたしたち」 は、 やがて共同体全体に、 そして人類全体にまで
その範囲を 広げていくでしょう。
青年 それが・・・。
哲人 共同体感覚【梵我一如:非二元】です。
青年 愛 ・ 自立 ・ 共同体感覚、 すべてが つながってくる!
【これら すべてが 自己中心性からの脱却・解放・自由(無我)であり、
自己中心性こそが 煩悩(苦悩)の本体で あった】
愛とは「ふたりで成し遂げる課題」であり、
そこでは「わたし」の幸せでも「あなた」の幸せでもなく、
「わたしたち」の幸せを 追い求めなければ ならない。
そのとき 初めて、 われわれは 「わたし」 から脱却できる。
自己中心性から 解放され、ほんとうの自立 を果たすことができる。
自立とは、 子ども時代のライフスタイルから脱却することであり、
自己中心性から 抜け出すことなのだ。
哲人 愛と自立の関係を考えるとき、 避けて通ることのできない課題が、親子関係です。
生まれて間もない子どもたちは、自分の力で生きていくことができない。
(母)親という他者の、 絶え間ない献身が あってようやく命をつないでいく。
「わたし」の命は 親に握られていて、 親に見捨てられたら 死んでしまうわけです。
したがって、親に依存しながら生きていく しかありません。
子どもたちは、 それを理解するに十分な 知性を持っています。
そして あるとき、彼らは気づくでしょう。
「わたし」 は、親から愛されてこそ (すなわち 他者・社会から承認されてこそ)
生きていくことができるのだと。
そして ちょうどこの時期、 子どもたちは 自らのライフスタイルを選択します。
自分の生きるこの世界は どのような場所であり、そこには どのような人々が暮らし、
自分は どのような人間なのか。 そこで、どのような関係を築けばいいのか。
こういった「人生の態度(ライフスタイル)」を自らの意思で選択するわけです。
われわれが 自らのライフスタイルを選択するとき、
その目標は 「いかにすれば 愛されるか」 にならざるを得ないのです。 われわれは みな、
命に直結した 生存戦略として 「愛されるためのライフスタイル」 を選択するのです。
子どもは、非常に優れた観察者です。
自らの置かれた環境を考え、 両親の性格・性向を見極め、 兄弟がいれば その位置関係を測り、
それぞれの性格を考慮し、
どんな 「わたし」 であれば 愛されるのかを 考えた:無意識に感じた 上で、
自らのライフスタイルを 選択します。
たとえば ここから、親の言いつけに従順な 「いい子」 のライフスタイルを選ぶ子ども もいるでしょう。
あるいは 逆に、事あるごとに反発し 拒絶し反抗する 「わるい子」 の ライフスタイルを選ぶ子どももいるでしょう。
青年 なぜです?
「わるい子」 になってしまったら、愛されるどころではなくなってしまうじゃありませんか。
哲人 泣き、 怒り、 叫んで反抗する子どもたちは、
感情を コントロールできないのでは ありません。
むしろ 十分すぎるほど感情をコントロールした結果、 それらの行動をとっているのです。
そこまでしなければ 親の愛と注目を得られない、
ひいては自分の命が危うくなる、と 直感でわかっているのです。
青年 それも 生存戦略だと?
哲人 その通りです。
「愛されるためのライフスタイル(承認欲求的生き方)」とは
いかにすれば 他者からの注目を集め、 いかにすれば「世界の中心」 に立てるかを模索する、
どこまでも 自己中心的なライフスタイル(生存戦略)なのです。
【 「自己中心性からの解放」 とは、 自分が 特別な存在でないことを知ること。
「普通であることの勇気」 を獲得すること。 自分は世界の中心でない ことを知ること】
青年 つまり わたしの生徒たちが さまざまな問題行動に出るのも、
その 自己中心性に基づいている。
彼らの問題行動は、「愛されるためのライフスタイル」から生まれていると、
そういうことですね?
哲人 それだけ ではありません。おそらく、
今 あなた自身が採用しているライフスタイルも、子ども時代の生存戦略に根ざした、
「いかにすれば愛されるか」が 基準になっているでしょう。
あなたはまだ、誰のことも愛していない。
自立とは、経済上の問題でも 就労上の問題でもありません。
人生への態度、ライフスタイルの問題です。
この先あなたも、誰かのことを愛する決心が固まるときが来るでしょう。
それは、子ども時代のライフスタイルとの 決別を果たし、真の自立を果たすときです。
われわれは、他者を愛することによって、 ようやく大人になるのですから。
あなたは 承認欲求に搦めとられている。
どうすれば 他者から 愛されるのか、 どうすれば 他者から 認められるのか
ばかりを 考えて生きている。
自分で選んだはずの教育者という道さえ、 もしかすると「他者から認められること」
を目的とした、「他者の望むわたし」の人生かもしれないのです。
われわれは、 親から愛されることを 希求せざるをえない時代に、
自らの ライフスタイルを選択している。
しかも、その「愛されるライフスタイル」 を強化しながら年齢を重ね、 大人になっていく。
与えられる愛の支配から抜け出すには、 自らの愛を持つ以外にありません。
愛することです。
愛されるのを待つのではなく、運命を待つのでもなく、 自らの意思で 誰かを愛すること。
それしかない のです。
青年 いつもは「勇気」を口にするあなたが、
今度は すべてを「愛」で片づけようというわけですか。
哲人 あなたはまだ、 愛を知らない。愛を恐れ、 愛をためらっている。
それゆえ、子ども時代のライフスタイルに とどまっている。
愛に飛び込む勇気が 足りていないのです。
【ほんとうの愛を 知るためには、
ほんとうの自分(無我:自我ではない自分)を知らなくてはならない。
ほんとうの自分を知ることは とてつもない恐怖だ。 その恐怖に打ち勝つことで愛を知る。
だから、勇気(とサティ)が必要なのだ】
たとえば、相手の好意を なんとなく察知した瞬間、その人のことが気になり、
やがて 好きになっていく。こういうことがよくありますね?
青年 ええ、ほとんどの恋愛はそうでしょう。
哲人 これは、たとえ 自分の勘違いだったとしても、
なんとなく「愛される保証」が確保できた状態です。
「あの人はきっと自分のことが好きなのだ」 「自分の好意を拒絶したりはしないはずだ」
という 担保のようなものを感じている。
そして われわれは、この担保を頼りに、 より深く愛していくことができるわけです。
【エゴは いつも、完全な安心を求めていて 心配性だ。心配し、 不安になるのが エゴだ】
ほんとうに愛することは、そのような担保をいっさい設けません。
相手が自分のことをどう思っているかなど 関係なしに、ただ 愛するのです。
どうして人は、愛に担保を求めるのか。 おわかりになりますか?
【どうして人は、 愛に条件を求めるのか。 それは「愛される」 ためには「条件」 が必要だと 「思い込んで」 いるからだ。
「愛する」 ことを 今までの 「愛される」ことの 裏返しだと思うからだ。
そして「失敗する」 という「結果」 を怖れているからだ。
「条件」 を求めるのは「わたし:自我」 であり、 それを求める限り 「わたし」 からの 解放はなく
「失敗」 を怖れるのは「わたし:自我」 であり、 それを怖れる限り 「わたし」 からの 解放はない】
青年 傷つきたくない、 惨めな思いをしたくない。そういうことでしょう。
哲人 違います。
そうではなく、 「傷つくに違いない」 と思い、 「惨めな思いをするに違いない」 と、
半ば 確信しているのです。
【それだけではなく、 「愛に条件が要らない」 なんて 想像もつかないからである】
あなたはまだ、 自分のことを愛せて【受け入れて】いない。
自分のことを 尊敬できていないし、 信頼できていない。
だから、愛の関係において「傷つくに違いない」と決めつけてしまう。
わたしは、なんら優れたところのない人間である。
だから、誰とも愛の関係を築くことができない。担保のない愛には踏み出せない。
・・・これは 典型的な劣等コンプレックスの発想です。
自らの劣等感を、 課題を解決しようとしない言い訳に使っているのですから。
課題を 分離するのです。 愛することは あなたの課題です。 しかし、
相手が あなたの愛にどう答えるか。
これは 他者の課題であって、 あなたに コントロールできるものではありません。
あなたにできることは、 課題を分離し、 自分から先に愛すること、それだけです。
青年 じゃあ、どうすれば 私の劣等感は払拭されるのか? 結論は ひとつです。
「こんなわたし」 を受け入れ、 愛してくれる人と出会うことですよ!
そうでなければ、 自分を愛することなど できません!
哲人 また、「出会い」ですね。つまり あなたの立場は、
「あなたが愛してくれるなら、あなたのことを愛する(条件つきの愛)」 なのですね?
結局 あなたは、「この人は 私を愛してくれるのか?」 しか 見ていないわけです。
相手のことを見ているようで、 自分のことしか見ていない。
そんな態度で 待ち構えているあなたを、 誰が愛してくれるでしょうか?
あなたは(勇気を持って)自分が隠し持つ 子ども時代のライフスタイルを 直視し、
(それがどんなに辛くとも)刷新しなければならない。
愛してくれる 誰かが現れるのを待っていてはいけません。
青年 ああ、完全に 堂々巡りだ!
わたしだって、 愛したいと思っているのですよ! 「出会い」がない だけです。
哲人 真実の愛は、 運命的な出会いからはじまると?
それでは、 どのような人のことを 「運命の人」 と呼ぶのですか?
アドラーは、恋愛にしろ 人生一般にしろ、 「運命の人」 を認めません。
「運命の人」 という言い方は、 すべての候補者を排除するためだ、と断じます。
人は どうして、恋愛に「運命」などというロマンティックな幻想を抱くのか?
「出会いがない」と嘆く人も、 じつは 毎日のように 誰かと出会っています。
しかし、そのささやかな「出会い」を、 なにかしらの「関係」に発展させるには、
一定の勇気が必要です。 声をかけたり 手紙を送ったり、とかね。
では そこで、 「関係」に踏み出す勇気を くじかれた人は、一体どうするのか?
「運命の人」という幻想にすがりつきます。
あれこれ 理由を並べて「この人ではない」 と退け、
「もっと完璧な、もっと運命的な相手がいるはずだ」 と 他を探す。
そうやって、あらゆる候補者を排除していく。
そうやって、可能性のなかに 生きている。
幸せは、 向こうから訪れるものだと思っている。
「運命の人に 出会いさえすれば、 すべてが上手くいくはずだ」と。
青年 じゃあ、「対象」は誰でもいいんですか?
哲人 究極的には、そうです。 われわれは、 いかなる人をも愛することができるのです。
【自分の価値観を相対化して他者の価値観を受け入れることができれば、
他者の目で見て 他者の耳で聞くことができれば、 どんな他者をも 愛することができる】
もちろん 誰かとの出会いに 「運命」 を感じ、 その直感に従って結婚を決意した、
という人は 多いでしょう。
しかし それは、あらかじめ定められた運命だったのではなく、
「運命だと信じること」 を決意しただけなのです。
アドラー心理学は あらゆる決定論を否定し、 運命論を退けます。
われわれに「運命の人」 などいないのだし、 その人が現れるのを 待っていてはいけない。
待っていたのでは、何も変わらない。
しかし、 パートナーと一緒に歩んできた 長い年月を振り返ったとき、
そこに「運命的ななにか」を感じることはあるでしょう。
その場合の運命とは、あらかじめ定められていたものではない。 偶然にできたものでもない。
ふたりの努力で 築き上げてきたもので あるはずです。
運命とは、 自らの手でつくり上げるものなのです。
われわれは、 運命の下僕になってはいけない。 運命の主人であらねばならない。
「運命の人」を求めるのではなく、「運命」といえるだけの関係を 築きあげるのです。
青年 でも、具体的にどうしろと?
人生のダンスを踊る
哲人 踊るのです。 ただひたすら「いま」をダンスするのです。
愛と結婚は、まさしく ふたりで踊るダンスのようなものでしょう。
どこへ行くのかなどと 考えることなく、 互いの手を取り合い、 今日という日の幸せを、
いまという瞬間だけを直視して、 くるくると踊り続ける。
あなたたちが 長いダンスを踊りきった軌跡のことを、人は「運命」と呼ぶでしょう。
あなたはいま、人生というダンスホールの 壁際に立って、 ただ 踊る人たちを傍観している。
やるべきことは ひとつでしょう。
そばにいる人の手を取り、 いまの自分にできる精一杯のダンスを踊ってみる。
運命は、そこから始まるのです。
青年 わたしだって、 ダンスを踊ろうとしたことはあります。
でも 結婚にはつながりませんでした。
幸せになりたいと願い交際を始めたが、 うまくいかなかった。
哲人 あなたの願いは「幸せになりたい」ではなく、
もっと安直な「楽しく(快に)なりたい」 だったのではありませんか?
愛の関係に待ち受けるのは、 楽しいことばかりではありません。
引き受けなければならない責任は大きく、 辛いこと予期しえぬ苦難もあるでしょう。
それでもなお、愛することができるか。
どんな困難に襲われようと この人を愛し、 共に歩むのだという決意・勇気を持っているか。
たとえば、「花が好きだ」と言いながら、 すぐに枯らしてしまう人がいます。
水をやるのを忘れ、鉢の植え替えもせず、 日当たりのことも考えないで、
ただ 見栄えのいいところに 鉢を置く。
たしかに その人も、花を眺めることが好きなのは事実なのでしょう。
しかし、「花を愛している」 とは言えない。 愛は、もっと献身的な働きかけなのです。
あなたの場合も 同じです。 あなたは、 愛する者が背負うべき責任を回避し、
恋愛の果実だけを むさぼろうとしていた、のではないですか?
青年 わかっていますよ。
わたしは彼女のことを愛していなかった。 彼女の好意を 都合よく利用しただけです。
哲人 愛していなかった のではありません。
「愛する(受け入れる)」ということを 知らなかったのです。
もしも知っていたなら、 あなたは その女性と運命の関係を築くことだってできたでしょう。
【愛するとは、 横の関係で尊敬すること、 受け入れること】
愛する勇気を持てず、 子ども時代の愛されるライフスタイルにとどまろうとした。
それだけなのです。
愛する勇気、すなわち それは「受け入れる勇気」であり、「幸せになる勇気」です。
われわれは他者を愛することによってのみ、 自己中心性から解放されます。
他者を愛することによってのみ、 自立を 成しえます。
そして 他者を愛することによってのみ、 共同体感覚にたどり着くのです。
【慈悲→無我・梵我一如】
愛を知り、「わたしたち」 を主語に生きる ようになれば、
「行為」ではなくその「存在」によって貢献することができます。
【not doing、but being】
人生はシンプルだ
哲人 世界はシンプルであり、人生もまた同じである。
しかし、 シンプルであり続けることは難しい。
そこでは、 「なんでもない日々」 が試練となるのです。
アドラーを知り、 アドラーに同意し、 アドラーを受け入れるだけでは、人生は変わりません。
しばしば人は、「最初の一歩」が大切だ、 そこさえ乗り越えれば大丈夫だ と言います。
しかし 実際の人生、 なんでもない日々 という試練は、
「最初の一歩」を踏み出した 「後」 から 始まります。
本当に試されるのは、 歩み続けることの勇気なのです。
青年 わたしは 歩み続けたいと思いますが、 先生は これからどうされるのです?
哲人 また 同じように 語り続けるだけです。
与えられた場で、 自分ができること、 なすべきと思うことを、淡々としていくだけです。
すべての対人関係は「別れ」を前提に 成り立っています。
われわれは、別れるために出会うんです。
だとすれば、われわれにできることはひとつでしょう。
すべての出会いと すべての対人関係において、 ただひたすら、
「最良の別れ」 に向けた不断の努力を続ける。 それだけです【メメント モリ】
わたしは、 あなたとの最良の別れのために、 ここまで話してきたのです。
いつか別れる日がやってきたとき、「この人と出会い、この人と共に過ごした時間は、
間違いじゃなかった」と納得できるよう、 不断の努力を傾けるのです。
生徒たちとの関係においても、 ご両親との関係においても、
そして 愛する人との関係においても。
たとえばいま、 突然ご両親との関係が終わってしまうとしたら、生徒さんたちとの関係、
友人たちとの関係が終わってしまうとしたら、
あなたは それを 「最良の別れ」として 受け入れることができますか?
青年 い、いえ。とても・・・
哲人 では、 そう思えるような関係を これから築いていくしかないでしょう。
「いま、 ここを真剣に生きる」 とは、 そういう意味です【メメント モリ】
青年 まだ 間に合いますか? これから始めても?
哲人 間に合います。その未来をつくるのは あなたです。迷うことはありません。
われわれは 未来が見えないからこそ、 運命の主人になれるのです。
【アドラーの解く愛は「人間の愛」 であって、 「男女の愛」 ではない。
しかしながら、 「人間の愛」 を理解する鍵が 「男女の愛」 の中にあることも事実だろう。
なぜなら、「男女の愛」 は 二つに分たれた 女性性(アニマ)と 男性性(アニムス)の
再結合であるとも言え、 「愛」 を通して 「魂」 は、その完璧性を 再び手にできるからだ。
もちろん それは「男女の愛」 に限ったことではない】
第五部のまとめ:
人生の主語が「われわれ」に変わる
愛の関係とは なにを追求した結果、成立するのか?
「わたしの幸せ」 でも 「あなたの幸せ」でもなく、
不可分なる「わたしたちの幸せ」を築き上げること。
「わたし」や「あなた」よりも上位のものとして、「わたしたち」を掲げる。
人生のすべての選択について、その順序を貫く。
人生の主語が変わる。
ほんとうの愛を知ったとき、「わたし」だった人生の主語は、「わたしたち」に変わり、
まったく新しい指針の下に生きることになる。
幸福なる生を手に入れるために、「わたし」は消えてなくなるべきなのです。
愛とは、愛されることではなく、愛することである。
われわれは、生存戦略として「愛される」ためのライフスタイルを選択した。
しかし「愛する」ためには、この隠し持つ子ども時代のライフスタイルを直視し、
刷新しなければならない。
愛の関係は楽しいことばかりではない。責任は大きく、辛いこと、予期しえぬ苦難もある。
それでもなお、「愛する」ことができるか。
われわれは 他者を愛することによってのみ、自己中心性から解放され、
共同体感覚にたどり着く。そして愛を知り、「わたしたち」を主語に生きるようになれば、
「行為」ではなく、その「存在」によって、貢献することができるようになる。
生かされていること、命の奇跡を感じ、感謝し、世界と一体となることができる。
愛とは 無条件に 受け入れる ことである。
善きものも、悪しきものも、全部ひっくるめて、そのまま、ありのまま、受け入れる。
そして そのままでいいんだよ、って 言ってあげることである。
(付記) 最後に
ブログを書き続けて、「幸せ」について考え続け、「愛する」ことの 無限のパワーを体験して、
この本の題名は、「幸せになる勇気」よりも「愛する決意」に変えた方がいい、と思うようになった。
振り返ってみて、「愛する決意」が すべてを変容させたことに気づいたからだ。
「愛とは なにか」 については 描き尽くしたような気がする。
そして「愛」 は、理解するものではなく 実践するものなんだと思う。
哲人も、アドラーを学びながら 「子育て」 を通して 大きな愛の存在を知ったという。
知ったのちに「実践する」 ものではなく、 実践なくして「知る」 ことはできないだろう。
実践を通してのみ「本当の愛」 を知ることができる。
まず、 「これが 愛だ」 と思われる「自分の心の在り方」 を 「試してみる」 ことだ。
その結果 「奇跡」 が起きたなら、それは「愛」 であったと 確信できるだろう。
奇跡の大きさは関係ない。 小さな奇跡で 十分だ。
そのようにしてしか 愛を知ることはできない
「愛」 は 自分の全人生を賭して知るものであり、 そして「愛し続ける」ものなんだと思う。
愛は これからも 奇跡を起こし続けることだろう
(最終改訂:2023年2月14日)