「嫌われる勇気」第四夜:横の関係 | やすみやすみの「色即是空即是色」

やすみやすみの「色即是空即是色」

「仏教の空と 非二元と 岸見アドラー学の現実世界の生き方」の三つを なんとか統合して、真理に近づきたい・語りたいと思って記事を書き始めた。
「色即是空即是色」という造語に、「非二元(空)の視点を持って 二元(色)の現実世界を生きていく」という意味を込めた。

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アドラー・岸見・古賀

嫌われる勇気」第四夜  

   

関心尊敬感謝の 横の関係 → 共同体感覚

共同体に関心を持ち積極的にコミットする

人生タスクである人間関係には 横の関係必要

 


  人は誰しも、客観的な世界に住んでいるのではなく、

  自らが意味づけをほどこした主観的な世界に住んでいます

  われわれは「どう見ているか」という主観がすべてであり、

  自分の主観から逃れることはできず、 多くの人は 自分が見たいように世界を見ています

【すべてはわたしである】


  だから 問題世界がどうであるかではなく、  あなたがどうであるかなのです

わたししかいない】 

  あなたは 世界を、そして 自分自身を  直視することができるか。

  あなたにその「勇気があるか


  これは「勇気」の問題です。


  まず 他者に関心【social interest】を持つこと。   その上で  

  役に立つ とか 優れているという 条件なしに  他者存在そのもの尊敬感謝できる? 

存在として他者存在としてわたし同等(横の関係)であると 認める勇気があるか? 

 

 

第四夜:

世界の中心はどこにあるか

(あなたは世界の中心ではない)

 


課題の分離は 対人関係のスタート。      

対人関係のゴールは  「共同体感覚


哲人 他者が仲間で その仲間囲まれて生きているとしたら、

  われわれは そこ自らの 「居場所 を見出すことができるでしょう。

  さらには 仲間たちつまり共同体)のために貢献しようと思うでしょう。

  このように 他者を仲間だと見なしそこに  「自分の居場所があると感じられることを

  共同体感覚と呼びます

  共同体の中身は、家庭・学校・職場・地域社会だけでなく、たとえば 

  国家や人類などを包括したすべてであり、さらには 動植物や無生物までも含まれるし、

  時間軸においては   過去から 未来までも    含まれますすべて:無限なるもの:全体

青年 途中まで理解できましたが、 最後の方は まったく意味が分かりません。

哲人 アドラー自身、 自らの語る共同体について「到達できない理想だ」 と認めていますが、

  これこそが 存在全体としてのわたし」 を理解する 鍵概念です。


【その共同体とは、 ある特定の限定されたものか、 それとも限定のない無限のものか?

  限定されたものは 無限の共同体を意識するための 過程であるが、  

  いつまでも そこに留まるなら それは偏狭なナショナリズムに結びつきやすい

  無限の共同体意識とは、「自分は縁起ネットワークの一員である」 という感覚

 


共同体感覚social interest)と

自己中心的感覚self interest


【 「小さな自分」 を超える全体大きな自分大いなるもの)を見ているのが 共同体感覚

小さな自分」 に限定された 部分しか見えていないのが 自己中心的感覚


哲人 共同体感覚は、   幸福なる対人関係の   在り方を考える もっとも重要な指標です。

  共同体感覚のことを英語では social interest  といいます。  他者社会への関心です。

  では、  社会の最小単位は何でしょうか?

  それは「わたしとあなた」です。

  ふたりの人間がいたら そこに社会が生まれ、  共同体が生まれる。

  共同体感覚を理解するには、 まずは 「わたしとあなた」 を起点にするといいでしょう。

まず、目の前のあなた(の見ている世界)に関心を寄せる

青年 そこを起点に どうするのですか?

哲人 サティによって 

  自己への執着(self interest)他者への関心(social interest)に切り替えていくのです。

自己への執着」 という言葉は、 「自己中心的」  と言い換えられます。


【 「わたし、何に執着していたのか?   わたしは 自分(自我に執着していたのだ。

  共同体感覚を手に入れるためには、自分を手放さなくてはならない


  自分とは、自分の意味づけ(世界観:のことであり、 執着とはのことである


  自己中心的な人とは どんなイメージですか?

青年 暴君のように、横暴で、自分の都合しか考えない人。

  または 集団の和を乱すような、 自分勝手な人でしょうか。

哲人 一般的なイメージは   そうでしょう。   しかし、もうひとつ

自分勝手とは正反対に見えるタイプがあります。

  実は、「課題の分離ができておらず承認欲求にとらわれている人もまた、きわめて  自己中心的なのです。

  承認欲求の内実は、他者はどれだけ自分に注目し、どう評価しているのか? 

  つまり、  どれだけ(他人によく見られたいという)自分(エゴ)の欲求を満たしてくれるのか? 

  承認欲求にとらわれている人 他者を見ているようで、 実際には自分しか見ていません

  他者への関心を失い、「わたしにしか関心がない。すなわち、自己中心的なのです。


【 「承認欲求では、  他者の欲求を満たすことで 自分を高く評価してもらおうとするので、

  一見 他者のこと(欲求)を考えて(他者に関心をもって)いるように見えるが

  その目的は 「自分への高い評価」 なので、  結局は自分への関心だけということになる


青年 じゃあ、 わたしのように これほど他人に気を遣い他人に合わせようとしている  人間も自己中心的だというのですか?

哲人 ええ、そうです!  

  あなたは 他者によく思われたいからこそ、  他者の視線を気にしている

  それは他者への関心ではなく、 自己への執着に他なりません。

他者からどう見られているかばかりを  気にかける生き方こそ、

「わたし」 にしか関心を持たない 自己中心的なライフスタイルなのです。

自分のことにしか関心がない」      から他者の世界の豊かさ見出そうとする関心

  に切り替えなければならないのです。

  共同体の一員となるためには、まず共同体そのものに関心を持つことが必須です。

  われわれは共同体の一員として、 ここに  所属しています。

  共同体のなかに 自分の居場所があると感じられること

ここにいてもいいのだ」 と感じられること、  つまり 所属感を持っていることは

  人間の基本的(本質的)な欲求です。


【所属感を持つためには、理解されている(分かってもらえている、つながっている

  という実感が必要。理解される(受け入れられるためには

  まず 自分から他者(と世界)を理解しよう(受け入れよう)としなくてはならない


  たとえば  学業・仕事・交友 そして恋愛や結婚も、すべてはここにいてもいいのだ

  と思える場所関係を探すことにつながっている。  そう思いませんか?

青年 まったく同感です。

哲人 そして、自分の人生における主人公は「わたし」である。

  ここまでの認識に 問題はありません。

  しかし「わたしは世界の中心に君臨しているのではない

わたし  「わたしの人生 の主人公でありながらあくまでも共同体の一員であり

  全体の一部なのです

青年 全体の一部?

哲人 自分にしか関心を持たない人は自分世界の中心にいると考えています

  こうした人たちにとって他者とは 「わたしのため何かをしてくれる人」 でしかありません。

  みんな わたしのために動くべき存在であり、  わたしの気持ちを 最優先で考えるべきだと、

  なかば本気で思っています。

青年 まるで 王子様やお姫様のように。

哲人 ええ、 彼ら世界で一番価値のある人」  になっています。そのため他者接するとき、

「この人はわたしに何をしてくれるのか?」   ばかりを考えています。

  ところが、 その期待が毎回満たされるわけではありません。

  なぜなら、  「他者は あなたの期待を満たすために生きているのではない」 のですから。

青年 たしかに。

哲人 それで期待が満たされなかったとき   彼らは大きく失望し、 ひどい侮辱を受けたと感じます。

  そして 憤慨するのです。  「あの人は わたしの期待を裏切った」  「もう仲間ではない」と。

  自分が世界の中心にいると思っている人は、  いずれ「仲間」 を失うでしょう。


青年 われわれは 主観的な世界に住んでいるのですからその中心にいるのは

  わたし以外の誰でもないのは 当然ではないですか?

哲人 あなたが 「世界」 という言葉使うとき、

  自分の国が真ん中に描かれた 世界地図の  ようなものをイメージしていませんか?

  しかし 地球儀で世界をとらえれば、どこにも中心はありません。

  すべての場所が中心でありながらすべての場所が中心ではない

  見る人の場所によって 無限の中心視点が存在します

  曼荼羅も、  同じことのイメージでしょう。

【曼荼羅とは 縁起ネットワークのシンボル】

「あなたは 世界の中心にいるわけではない」  というのは、そのことです。

  あなたは 共同体という全体の一部であって、  中心ではないのです

  そして 同時に全体そのものが  あなた  なのです【わたししかいない】


青年 そうでしょうが、

  でもどうして、 わざわざ「世界の中心ではない」と意識しなくてはならないのですか?

哲人 ここで 最初の話に戻ります。

  われわれは みな「ここにいてもいいんだ」  という所属感を求めている。

  しかし、所属感とは ただそこにいるだけで得られるものではなく

  共同体に対して 関心を持ち、  積極的に   コミットすることでしか得られません

【自ら共同体に関わろうとしなければ、     所属感は得られない】

  それには 人生のタスク」 に立ち向かう  ことです

  つまり、仕事・交友・愛という対人関係のタスクを 回避することなく

  自ら 足を踏みだしていくことです。

  もし、  あなたが 「世界の中心」 なのだとしたら

  あなたは 共同体へのコミットなど 露ほども考えないでしょう。

  あらゆる他者は「わたしのための存在」  であり、

  自分から他者に働きかける必要などないのですから。

  あなたも わたしも    それぞれの  主観的世界の中心にいながら普遍的・客観的な世界の中心にいるわけ   ではない

  自分の足で、対人関係のタスクに 踏みださなければならない。

「この人は わたしに何をしてくれるのか?」  ではなく

わたしは この人に何を与えられるのか

  を常に考えていなければならない。  それが共同体へのコミットです。

  所属感とは、生まれながら与えられるものではなく、 自らの手で獲得していくものです。

  まず、 わたしから 始めなくてはなりません。  始めてみれば、世界はつながっている、

  世界わたし相互に依存していて けっして切り離すことはできないということが分かります。

生きる」 とはつながりを生きることであり、  共同体感覚とはそのことであると知るのです。


  ところでアドラーのいう共同体の範囲は  「無限大」と考えることもできます。

  したがって 目の前の共同体だけに縛られず、  地域社会・国・地球/自然という 

  より大きな共同体への貢献を通じた 共同体感覚を持つことも可能です

  会社定年になったとしても、 それはあるひとつ小さな共同体から切り離されたにすぎません。

  誰だって、別の多重の共同体に属しているのです。

「もっと    別の 共同体があること」特に       「もっと 大きな 共同体があること」は、

  共同体感覚・所属感を獲得するという点において、われわれに自由を与えてくれます

【たとえば ペットとの関わりなど、 様々な方法で 共同体感覚を得られる

  それを実感していれば、 われわれ対人関係のなかで困難にぶつかったとき、

より大きな共同体(大いなるもの)の声を聴く」  ことができます。

  共同体感覚を持ちながら、      より自由に生きることができます。

 


の関係


青年 では肝心な、

課題の分離から共同体感覚へと進むための道筋を示していただけますか。

哲人 その道筋には「横の関係」という概念・あり方が必要です。

  ところで、子育てや教育において叱ったり褒めたりすることを、 あなたは どう考えますか?

青年 もちろん、大切なことです。

哲人 アドラー心理学では、褒めることも叱ることも認めません。

  褒めたり叱ったりすること(賞罰あたえること)には、「評価」という側面が含まれています。

【賞罰・評価は、縦の関係を生みだす】


【しかし 賞罰としての褒める叱るではなく、  勇気づけるために褒めたり、

  社会的に不適切な言動であることを教え・伝えるために叱ることは、当然必要である】


  たとえば、  夕飯の準備を 手伝ってくれた子どもに対して、

「お手伝い えらいわね」褒める母親がいる。

  しかし  夫が 同じことをしても、   そうは  言わないでしょう。

「えらいわね」褒める母親無意識うちに上下関係をつくり、

  子どものことを  自分よりも 低く見ているのです。

  この態度は、極端にいえば 

  まるで、  動物を調教するときのような    上下関係縦の関係)の存在を    象徴しています。

  賞罰の目的は、自分より能力の劣る相手を  操作することなのです。

  そこには感謝も尊敬も存在しません


感謝尊敬こそが、 横の関係のキーワード。

  ただし、感謝と尊敬の気持ちをもとに   「えらいね」 という言葉を使うときもあるので、

  言葉使いよりも そこに込められた想いの方が大切。


  でも... やはり…    ここでの母親の例えは  適切でないような気がする。

「褒めたり・叱ったり を否定する」のが    アドラー心理学だ と言うのは、

(アドラー自身が  そう言ったとしても)   誤解を招きやすい言い方 ではないか? 

  ただ、「操作(コントロール)する目的で  褒めたり叱ったりしてはいけない

  と言えばいいだけ、ではないか?】


  アドラー心理学が 賞罰教育を強く否定するのは、それが  子どもを操作する目的だからです。

  操作されて育った子ども、 操作されることがライフスタイルになってしまいます。

  操作されるライフスタイルとは承認欲求動機づけとなっている ライフスタイルです。


承認することは 操作すること。操作してもいけないし、操作されてもいけない。

賞罰」 = 「承認」 = 「操作」 】


  そこから、 親や教師から いい子呼ばれる子どもたち、

  世間から 「いい人」 と言われるような人たちがつくられます。

  承認されていると勝手に判断して、自分で自分を 「すごい人」 と思ってしまう人まで   現れます。

  その生き方を主体的ということできませんよね。

  そんな生き方をしていると自分が 本当は何をしたいのかどう在りたいのか

  という大切な「生きるテーマを見失ってしまいます


  あなたは 「全世界の主人公」 ではありませんが、「あなただけの世界の主人公」 なのです。

  それを 取り違えてはいけません。

  褒めてもらうことが目的になってしまうと、

  結局は 他者の価値観に合わせた生き方を  選ぶことになります。

  そうならないために、 まずは  課題の分離なのです。

課題の分離とは、 操作せず  操作されない(介入せず 介入させない)こと

  アドラー心理学ではあらゆる縦の関係を否定し

  すべての対人関係を横の関係とする   ことを提唱しています。

  これは アドラー心理学の根本原理です。

青年 それが 「同じではないけれど 対等 という言葉に表れているのですか?

哲人 ええ、対等すなわち」です。

  たとえば 専業主婦の方に、「誰のおかげで飯が食えると思っているんだ」と罵る男性がいます。

  なんと情けない話でしょう。会社員と専業主婦は、 働いている場所や役割が違うだけで、

同じではないけれど 対等」ですよね。

  おそらく 彼らは、

  稼ぐことの価値を絶対視することで、  男性であることが経済的に有利な社会において、

(男性であることの)幻想の優位性にすがっているのでしょう。


【 「稼ぐ」 という  エゴの必要条件を 満たそうとする)自分の役割絶対視することで、

  エゴが 安心しようとしている】


  対人関係を 「縦の関係」で見ていると、   こうなってしまいます。

  強烈な劣等感を背景とした

  優越コンプレックスそのものです

青年 たしかに、わたしも 他者を褒めようとするとき、

  心のどこかで「操作」 の意識があったかも知れません。

  お世辞の言葉を並べ立てることで、 上司に気に入られようとする。これなどは  完全な操作ですね。

  逆にいえば、 わたし自身も誰かに褒められることで操作されていた

哲人 他者の課題に対して 土足で踏み込んでいく(他者の世界を尊重していない)ような行為  のことを、「介入」と呼びました。

  では なぜ人は介入してしまうのか?  その背後にあるのも、実は縦の関係です。

  対人関係を 縦でとらえ、 相手を自分より  低く見ているからこそ介入してしまう

  介入によって相手を(自分思う)望ましい方向に導こうとする。

  自分は正しくて 相手は間違っていると 思い込んでいる

  そして 他者を信頼していない。他者信頼ができていないから 介入してしまう。

  他者を信頼できないのは縦の関係である

【介入余計なお節介呼ばれることもある。

  信頼できていないから 余計なことをする


  ここでの介入は、操作に他なりません。

  子どもに 「勉強しなさい」 と命令する親などは、まさに典型です。

  本人としては 善意による働きかけのつもりかも知れませんが、 結局は土足で踏み込んで、

  自分の意図する方向操作しようとしているわけです。

介入操作は、他者の課題・主権主体性を侵害していることになる】

青年 横の関係を築くことができれば、介入もなくなりますか?

哲人 なくなります。

青年 でも、 目の前に苦しんでいる人がいたら、  ほっとけませんよね?

哲人 見過ごすわけにはいきません。「介入」  ではなく援助」 をする必要があります。

青年 介入と援助の どこが違うのですか?

【介入は課題の分離ができていなくて、援助は課題の分離ができている】

哲人 子どもが勉強すること。これは子どもが 自ら解決すべき課題であって、親や教師が  肩代わりできるものではありません。

  介入とは、 こうした他者の課題に 土足で  踏み込み、「勉強しなさい」 とか 「あの大学を受けなさい」 と指示することです。

  一方の援助とは 大前提に 課題の分離があり、  横の関係があります

「勉強子どもの課題である」理解した上で、  自分ができることを考える。


  具体的には、「勉強しなさい」 と上から命令するのではなく、本人に

「自分は勉強ができるのだ」と自信を持ち、  自らの力で課題に立ち向かっていけるように働きかける(提案する)のです。

指示ではなく  提案。 提案を採用するか  どうかは、本人の課題】

  強制ではなく、あくまでも課題を分離したまま、自力での解決を援助していきます。

「馬を 水辺に連れて行くことはできるが、   水を呑ませることはできない」という、

  あのアプローチです。 解決に立ち向うのは本人ですし、その決心をするのも 本人です。


  こうした横の関係に基づく援助のことを、アドラー心理学では  「勇気づけ」と呼んでいます。

  人が課題を前に踏みとどまっているのは、その人に能力がないからではない。

  能力の有無ではなく、純粋に「課題に立ち向う勇気が挫かれていること」 が問題なのだ、  と考えます。

  まずは 課題の分離をすること。

  そして お互いが違うことを受け入れながら、  対等な 横の関係を築くこと。

  その上で勇気づけを行うのです。

青年 では、  具体的には   どうすればいい  のです? 

  褒めるのでもなく、叱るのでもない、他にどんな選択肢があります?

哲人 対等パートナー仕事手伝ってくれたとき、あなたは何と言います?

青年 「ありがとう」ですね。

哲人 そう、 対等なパートナーに対しては、  「ありがとう」 と感謝の言葉を伝える

  あるいは、「嬉しい」 と素直に喜び、     「助かったよ」 とお礼する。 これが 

  横関係基づく勇気づけアプローチです。


【感謝するためには、まず関心を持ち、その価値を理解しなくてはならない。

  価値を理解できれば、尊敬が生まれる】


  このとき大切なのは他者を 「評価」 しないということです。

  評価は     縦の関係から出る減点の発想になりやすい。

  素直な感謝喜び尊敬というのは、           横の関係の感覚です。

  人は感謝の言葉を聞いたとき、 自らが他者に貢献できたことを知ります。

【ただし、 感謝の言葉を 自ら期待しない。  また  「操作」 の意図感謝の言葉使わない】

 

【横の関係とは、 役割(社長/社員・教師/生徒・夫/妻・親/子供など 二元の一方)として他者関わるのでなく

  役割を離れて 互いに一人の 尊厳をもった ただの(裸の)人同士として 関わること】



存在のレベルで 共同体感覚を得る


青年 どうすれば、 勇気を持つ ことができるのですか?

哲人 人は、自分には価値があると思えたときだけ、勇気を持てます


ここでいう価値とは、生産性を高めたり、外部条件を満たすために何かをする(行為)

  といったエゴ的な価値:機能 にとどまらない、    もっと 広く大きな

  絶対的な価値(存在そのもの)のこと】


「自分には価値がある」 と思えるか、 それとも  「自分は無価値な存在だ」 と思ってしまうのか。

  もしもサティによって 自分には価値がある」  と思うことができたなら

  その人は  ありのままの自分を受け入れ、  人生のタスクに立ち向かう 勇気を持ち得るでしょう。

  そして、「わたし(の存在)は 共同体にとって有益なのだ」 と思えたときにこそ

  自らの価値を 実感できます

  共同体、つまり他者に働きかけ、「わたしは誰かの役に立っている」と思えること。

  他者から「よい」と評価されるのではなく、

  自らの主観によってわたしは他者に貢献できていると思えること

  そこではじめて、価値が実感できます。


【承認欲求によってではなく、ありのままの自分のままで 共同体に有益である


  しかし、 「共同体にとって」 とか 「有益」  という表現は どうか と思う。

  そのような 「余計な言葉」 なしに、つまり  無条件わたしには価値があり OKなんだ


青年 誰かの役に立ててこそ、 自らの価値を  実感できる。それは 逆にいうと、

  他者に役立てない人間に   価値はない、 ということになりませんか? 

  寝たきりになった老人や病人には、生きる価値がないということになってしまう。

哲人 明確に 否定します。

  あなたは今 他者のことを「行為」 のレベルで見ています。

  つまり、 その人に 「なにができるか」 という次元です。  そうではなく、 他者のことを

行為(doing)」  のレベル    ではなく

存在(being)」  のレベルで       見ていきましょう

  他者を「なにができるか」で判断せず、

  そこに存在していること それ自体を喜び、感謝の言葉をかけていくのです。


【行為レベルの価値は、要素(部分)の価値であり 相対的だが、

  存在レベル(存在しているというそのこと自体)の価値は絶対的な  価値そのもの

「存在して(生きて)いるという  事実」    そのものに価値があり、すでに

  受け入れられていて すでに愛されている


  だが この 自分には絶対的な価値がある」     という感覚を実感することは・・・難しい

  この実感が、 アドラー心理学の肝だろう。

  そう思えなければ勇気も湧かず、  共同体感覚に向かう旅にも出かけられないことになる。


  だから勇気づけが大切な要素になり、

  その勇気づけは  「無条件の受容によってなされる


  われわれは  「理想像」を勝手に想定し、  それに足りない部分に注目し、

  理想の満点から減点して ものを見る傾向があります。  まさに「評価の発想です。

【満点から減点するのは、「評価」 の発想。

  人生に満点はないのだから、 減点は変だろう

  そうではなく、逆に 「ゼロ」 の地点から出発するのです。  なにかと 比べることなく、

  在るものを ただありのままに見て、そこに居てくれることだけを喜び、感謝する。


【これは、半分残ったワイングラスの見方。

  減点はネガティブ評価に繋がり、 ゼロからの加点はポジティブ評価に繋がりやすい】


  そうすれば、 存在そのものの価値が 分かりませんか? 

  生きているという そのことだけで、   とんでもない驚異です。価値があると思えませんか?


  そのためには、 他者あなたの仲間になってくれることを待つのではなく

  あなたから 仲間になろうとするのです。

  仲間になろうとする他者には、どんな条件をつけてもいけません

  何々だから仲間になろう  とするのでは    ありません。

  どんな他者であろうと、 生きとし生ける  すべての存在と仲間(友だちになるのです。


他者と たしかに 心が通っている仲間だという確信がある

  それは存在」 のレベルで 他者に貢献していることと同じである、と言えよう。

  わたしの方に 仲間だという確信があれば、  その相手も 同じように感じる。

  そうであれば、「存在のレベルで 互いに  貢献し合っている、と言えるだろう】



わたしが始める


哲人 アドラーは、こう言います。   

誰かが始めなければならない。 他の人が  協力的でないとしても、 

  それは あなたには関係ない。わたしの助言は こうだ。 あなたが始めるべきだ

  他の人が協力的であるかどうかなど 考えることなく」    【わたししかいない】

青年 人は 生きているだけで、  誰かの役に  立っているとおっしゃいますが、

  わたしには、自分に価値があるとは とても思えません

哲人 それがなぜか、説明できますか

【 「縦の関係 他者と関わっているから

青年 だって わたしの仕事は、ただの雑用で  誰にでもできるものですよ。

  まあ  役には立っているのでしょうが、        わたしでなくてもいいわけで、

「自分」に価値があるとは思えません。

  それに、わたしのことを認めていない家族や周りの人たちとも 上手くはいっていませんからね。

哲人 アドラーの答えは、シンプルです。

  まずは 他者との間にひとりでもいいから  横の関係を築いていくこと

  そこから スタートしましょう

青年 わたしにだって 友人くらいはいます。  彼らとは ちゃんと横の関係が築けていますよ。

哲人 でも、 親や上司 また後輩や その他の人々に対して、縦の関係を築いているはず  です。

青年 もちろん、それは使い分けています。  誰だってそうでしょう。

哲人 そうですか? 本当に使い分けられますか?


  ここは非常に重要なポイントです。「」 と 」 のどちらの関係を築くか?  

  これは ライフスタイルの問題であり、       人間は、

  自らのライフスタイル臨機応変に使い分けられるほど 器用な存在ではありません。

「この人とは対等に」 でも「こっちの人とは上下関係で」 とはならないのです。

  どちらか 一方しか選べません使い分けることなどできないのです。

  もし あなたが誰かひとりとでも 縦の関係を築いているとしたら、

  あなた自分でも気づかないうちに、 あらゆる対人関係を「縦」 でとらえているのです。

青年 じゃあ、 わたしは友人関係までも縦の関係でとらえていると?

哲人 間違いありません。   上司や部下のようではなくても、

「A君は上だが、B君は下だ」  「A君の意見は聞くが、B君は無視していい」などなど…

  でも逆にいえば、 もしサティによって

  誰かひとりとでも    横の関係を築くことができたなら

  ほんとうの意味で 対等な関係を築くことができたなら

  それは  ライフスタイルの大転換です

  そこを突破口にしてあらゆる対人関係が  「」 になっていくでしょう。

  あなたはいま、 わたしと 「横」 の関係を築けています。ここから始めれば いいのです。

青年 ありがたい話です。 でもわたしは怖い!  時間をください。

  もう一度じっくり、 一人で考えてみます。

哲人 共同体感覚理解するには時間が必要です。  ご自宅で、ゆっくり考えてみてください。


【OSHO:

  いきなり〈全体〉とひとつになるのは      難しそうだ

  少なくとも 誰かがあなたを受け入れてくれるだろう    少なくとも ひとりの人の扉から

  あなたは そのギャップを埋めることが     できるだろう】

 

 

第四夜のまとめ:

self interest から social interest へ     切り替える


  対人関係のスタートは課題の分離ゴールは「横の関係で成り立つ 共同体感覚である

  他者 「横の関係の仲間 とみなし、 そこに  「自分の居場所がある」 と感じられることが  「共同体感覚」である。    そのために 

  self interestを social interestに    切り替える


  すべての人は   自分の人生の主人公でありながら、       同時に  共同体の一員であり

  全体の一部として  相互につながっている

  全体の一部として、 すべての人は 「」 、  //劣でなく  対等な関係にある

  他者を  「行為・役割・能力」 ではなく     「存在のレベルで見て、 そして つながり

  条件なしの 仲間になろうとすること、     貢献しようとすること

  そうすれば心が通うようになる


  人は    「横」 か 「縦」 か、   一方の関係しか築けない。

  たったひとり  関係を突破口にして  あらゆる対人関係 置き換えていこう



課題の分離 → 横の関係 → 共同体感覚




(最終改訂:2023年1月17日)