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アドラー・岸見・古賀・やすみやすみ
「嫌われる勇気」第三夜 課題の分離
承認欲求を超えるための課題の分離であり、 自由になるための、「課題の分離」 である
対人関係の鍵は 他者ではなく、 他でもない 自分自身が握っている【自分の課題である】
人は誰しも、客観的な世界に住んでいるのではなく、
自らが意味づけをほどこした主観的な世界に住んでいます。
われわれは 「どう見ているか」 という主観がすべてであり、
自分の主観から逃れることはできず、 多くの人は 自分が見たいように世界を見ています。
(もしくは 見たくない世界を見て、 勝手に苦しんでいる)
【すべてはわたしである】
だから問題は 世界がどうであるかではなく、 あなたがどうであるかなのです。
【わたししかいない】
あなたは 世界を、そして 自分自身を 直視することができるか。
あなたに その 「勇気」 があるか。
これは 「勇気」 の問題です。
「縦の関係」 は 支配と被支配の関係であり、
その支配(上/下・優/劣)関係は、
(前意識下で)支配されるものの 承認欲求と支配するものの権力欲で支えられています。
【前意識とは、(難しいけれど)意識しようとすれば 「意識化できる無意識」 のこと】
承認欲求では、 自分の欲求(課題)と
他者の欲求(課題)が取り違えられているのです。
自分と他者の課題を それぞれに きちんと 理解し、 しっかりと分離することが 「勇気」 を導きます。
ここでいう他者とは、 具体的な誰かであることもあるし、
その 誰かの集合体としての 社会のこともあります。
このとき社会は 個人に対して 支配者としての役割をはたしていることになるのです。
承認欲求と社会他者貢献が いかに紛らわしいものであるか、 想像できるでしょうか?
あなたが 社会貢献であると思ってきたものが 承認欲求に基づくものであった可能性を、
勇気を持って 吟味してみましょう。
【承認されることと愛されることも、同様に紛らわしいことを 想像してみよう】
承認欲求と権力欲は 裏表の関係であり、
上に対して承認欲求を感じる人たちは 立場が変われば、
下に対して権力を振るおうとするものです。
承認欲求が 結果的に自分の主権(欲求)を犠牲にして、 他者の主権を優先するのに対し、
権力(支配)欲は、他者の主権を無視し、 自分の主権だけを優先しようとします。
これこそ まさに自己中心的な態度でしょう。
この縦の関係をつくり出すものこそが、
多くの人たちが それから逃れたいと望んできた 「エゴ」 ではないでしょうか?
あなたは、自分の主観の世界が「縦の関係」 ではないと言い切る自信が あるでしょうか?
自分の主権と他者の主権を共に尊重し 縦の関係から抜けでて、 横の関係になるためには、
「課題の分離」 という考え方が有効です。
第三夜:
承認欲求を超えるために:自由になるために
コストを払ってでも 他者の課題を切り捨てる
社会に適応するための承認欲求 の何が問題なのか?
青年 他者を 敵と考えるか、それとも 仲間と考えるか。
そういう話でしたが、 親の場合はどうなんでしょう?
わたしにとって両親は 敵ではありません。
子ども時代は、最大の庇護者としてわたしを育て、守ってくれました。
しかし わたしを認めてくれようとはせず【無条件に受け入れてくれることはなく】
わたしの人生にずっと口を挟み続けてきました【主体性を無視して 侵害し続けてきました】
その要請は 大きなプレッシャーであり、 しがらみでした。
【 「しがらみ」 とは 課題が分離されていないときに使う言葉だろう。
しがらみを断ち切るために、他者の課題をコストを払ってでも切り捨てる必要がある】
もしも相手が親でなければ、それこそ 「敵」 のような存在であれば、
わたしは なにも悩まなかったでしょう。 しかし「敵」 ではありませんでした。
【 もちろん 「本当の敵」 ではないだろうが、
「横の関係」 で接してもらいたかったのに 「縦の関係」 で対応されたのだとすれば、
「敵」 とは思いたくないが、「縦の関係」 を 「敵」 と表現するなら そうであると言える。
親は、無条件の愛を与える横の関係の庇護者にも、
子どもの主権を踏みにじる縦の関係の権力者にも、 なり得る。
一般的には、 親に余裕がなければ 子どもに 「横の関係」 で接することは難しいだろう】
その意向を無視してしまうには、あまりに近すぎる関係なのです。
【近すぎると 「境界」 が分からなくなり、 「課題の分離」 が なおいっそう難しくなる】
否応なく 「承認欲求」 が発生する 「関係」 でした。
相手が 「敵」 ではなく 大切な人だったからこそ、 その人からの承認が欲しいのです。
【人は もっとも身近な人にこそ、 自分自身を認めて(受け入れ)てもらいたいものだが、
無条件に 受け入れる(愛する)ことと (条件つきで)承認することは 明確に違う】
わたしは両親から認めてほしかったのですよ!【受け入れてもらいたかったのだ!!】
【どんなに大切な人でも、その人は 「あなた」ではないし、
大切な人だからこそ、課題を分離しなくてはならない。
課題を分離しつつ 絆を強めることは可能だ。
課題を分離する(孤独を引き受ける)からこそ 本当の愛:無条件の受容 が可能になる。
課題を分離した上での親密な関係性こそが、 真の 体感的な共同体感覚を引き出すものだ】
哲人 アドラー心理学では、 他者から承認を求めること【承認欲求】を否定します。
承認を求めてはいけません。 【褒めて貰おうとしてはいけない!】
青年 なにをおっしゃる? 承認欲求こそ、 我々人間を突き動かす普遍的な(自我の)欲求でしょう!
【承認されることと 尊重されることは違う。そして 違いのポイントは条件の有無である】
哲人 他者から承認されることは、たしかに 嬉しいものでしょう。 しかし
承認されることが 絶対に必要ですか?
【他者から承認されることは、社会で生きていくための 最低限の必要条件なのだから、
絶対に必要であることは 当然である。
だが 承認欲求を満たすとは、 間接的に 「他者」 の欲求を満たすということである。
この際に「わたし」の欲求は 抑圧され、 無視され、 省みられないことになる。
もちろん この欲求とは、享楽的な欲求ではなく 人としての根源的欲求のことである。
故に 承認欲求は自己の真の欲求を抑制する。
「本当のわたしの欲求」 にきちんと光をあてることは、とても大切であるに決まっている。
「自分の本当の欲求」 を満たすことなしに、 「わたし」 は 幸せを感じることができず、
それなしに、 真の共同体感覚は得られない。
従って、 絶対的な つまり 最低限を超える過剰な 承認欲求が、不幸の大元なのである】
青年 他者から承認されてこそ、 われわれは
「自分には 社会的な価値があるのだ」 と 実感することができます。
【たしかに、社会で生きていくための 「必要条件」 として 最低限の 「承認」 は必要である。
しかし、 それ以上の 「承認」 は 幸せとは まったく無関係である。
というより、自分の 根源的な価値の根拠を 「承認欲求」 に求めて
より 大きくて 多い 「承認」 を得ようとすることは、 不幸につながってしまう。
自分の 真の価値は そんなものとは関係なく、 自分には ありのままで絶対的な価値がある。
それを納得することが、 「幸せ」 にとって もっとも重要なポイントである。 しかし、
そのことを 言葉で説明することはできず、
個々人の真摯な実践のみが、 その 心からの深い 理解をもたらしてくれる】
他者からの承認を通じて劣等感を払拭し、
自分に自信が持てるようになるのではないですか?
【劣等感を払拭するために他者の評価が必要なのか? 自分自身で判断すべきではないか?
自分の価値を 他人に任せ・委ねるのか?】
哲人 では、承認された証としての感謝の言葉(結果)がないときは、どう感じますか?
青年 感謝され(結果が)なければ、 したくなくなり、やめてしまうかも知れませんね。
哲人 それが 承認欲求の危うさです。
【承認欲求は、 「承認される」 という結果(感謝の言葉という条件)を求める欲求】
どうして人は 他者からの承認を求めるのか? 多くの場合 それは賞罰教育の影響です。
(社会にとって)適切な行動をとったら、 褒めてもらえる。
不適切な行動をとったら、 罰せられる。
【 「〜ねばならない」 という意識の底に 褒められ・罰を避けたいという気持ちがある】
それは、(社会で有利に生きる)功利的なライフスタイルにつながります。
【[学校(賞罰)教育の問題点]
:学校教育は 社会のためのものであり、個人の幸せを最優先しているワケではない。
「国民国家の時代」 になって その社会を維持するために作られたのが
国家が教える主体となる義務教育制度であり、 したがって 国家の一体性を形成するために
その教育が 「承認欲求」 を国民に植えつけようとするのは 当然のことであり、
過剰に学校教育に適応・順応した人たちが、 過剰な承認欲求を抱えて苦しんでいるのだ。
国民国家時代の義務教育は、社会にとって都合のよい人間を作りだそうとしているので
①賞罰教育におちいりやすい
→ 褒められることを望み、罰せられることを嫌う「承認欲求」 が形成される
賞罰のもととなる評価・試験の存在が大きい
(評価は 「部分」 に対してなされる)→
②試験での評価で生徒が序列化され、比較・競争・劣等/優越感が生まれる
(これが 縦の関係を生みだしてしまう)
③試験には正解がある →
人生・生き方にも唯一の正解がある(こうでなくてはダメ)という錯覚が発生する
④試験には満点がある → 完璧を目指す減点主義的発想(まだダメ)が確立される
⑤試験では言葉・論理の正しさが評価される → 思考に対する絶対的価値観が成立する
:それはときに理性の傲慢さにまで発展する
→ ①〜⑤のため、表面的な学校教育の価値観に過剰適応すると、幸せになれない
⑥教師の多くは 承認欲求を生みだす学校教育的価値観における勝者であり、
その価値観の伝道者となる傾向がある
→ 承認欲求的価値観の再生産・循環の成立。
以上から、 学校教育が 承認欲求的な生き方の形成に 最も深く関わっていると思われる】
哲人 あなたもわたしも 他者の期待を満たすために生きているのではありません。
他者の期待など 満たす必要はないのです。
われわれは 究極的には、それぞれ 「わたし」のことを考えて生きています。【もちろん
これは、 自己中心的という意味ではない】
他者からの承認を求め、 他者からの評価だけを気にしていると、
最終的には(自分の人生ではなく)他者の人生を生きることになります。
そして 他者もまた、 「あなたの期待を満たすために生きているのではない」 のです。
相手が 自分の思うとおりに動いてくれなくても、怒ってはいけません。
それが 当たり前なのです。
他者からの承認を 第一の優先課題にしてしまうと、いつも 他者の視線を気にして、
他者からの評価に怯え、 自分が「本当のわたし」であることを抑えざる得ません。
カウンセリングにくる相談者に わがままな方はほとんどいません。
むしろ他者の期待、親や教師の期待に応えよう【承認されよう】として苦しんでいる。
いい意味で自分本位に振る舞うことのできない(いい人と呼ばれるような)人たちです。
【過剰に 「いい人」 であろうとすることは、
過剰な承認欲求によって 過剰に社会適応してしまった結果である。
承認欲求という他者の視線を優先することを絶対視してしまったことが問題なのであり、
承認欲求自体が問題なのではなく、 過剰な承認欲求が問題なのである】
この不自由さを克服するためには、「課題の分離」 という考え方が重要です。
誰の課題か
哲人 勉強することは子どもの課題です。それに対して親が「勉強しなさい」 と命じるのは、
他者の課題に対して いわば土足で踏み込むような行為です。
【アドラーの言い方は意図的に極端であり、 誤解を招きやすいことに注意すべきだろう】
われわれは 「これは誰の課題なのか?」 ということをいつも意識し、
自分の課題と他者の課題を 分離する必要があります。
そして他者の課題には けっして踏み込まず、
自分の課題には 誰ひとりとして介入させてはならないのです。
【誰の課題なのか、 主権を持つのは誰か?】
およそあらゆる(?)対人関係のトラブルは、 他者の課題に 土足で踏み込むこと と、
自分の課題に 土足で踏み込まれること によって引き起こされます。
課題の分離ができるだけで 対人関係は激変するでしょう。
【他者の課題である他者の欲求に対しては、 自分は責任を持たなくてよい。
出来るのならしてもよいが、 出来ないのならしなくてもよい。 イヤならしなくてもよい】
誰の課題かを見分ける方法はシンプルです。
「その選択によってもたらされる結末を 最終的に引き受けるのは誰か?」 と考えるのです。
【このことに いつも気づいていて 忘れない。 これが マインドフルネスの態度である】
世の親たちは、 頻繁に 「あなたのためを思って」 という言葉を使います。 しかし、
親たちは 明らかに自分の目的(世間体や見栄・支配欲等)を満たすために動いています。
つまり、 「あなた(子)のため」 ではなく 「わたし(親)のため」 であり、
その欺瞞を察知するからこそ 子どもは反発するのです。
【(意識下では)心からそれが子どものためだと思い込んでいるだろう。 しかし
(前意識下では)それが、世間体や支配欲に繋がっている場合が多い ということ。
教師の場合も 同様の心理構造だろう】
青年 子どもが勉強しないときは 放っておけ、 と?
哲人 それは放任です。放任とは、 関心 interest を寄せないこと。
子どもが なにをしているのか知らない、 知ろうともしないという態度です。
そうではなく、子どもが何をしているのか知った上で【social interest】見守るのです。
勉強についていえば、それが本人の課題であることを伝え、
勉強したいと思ったときには いつでも援助をする用意があることを伝えておく。
頼まれもしないのに、あれこれ口出ししてはいけません。
馬を水辺に連れて行くことは できるが、 水を呑ませることは できないのです。
本人の意向を無視して 「変わること」 を 強要したところで、
あとで 強烈な反動がやってくるだけです。
自分を変えることが できるのは、自分しかいません。
【(放任ではなく)十分な関心を寄せ、必要なら援助した上で なおかつ課題を分離する】
他者の課題は 切り捨てる
哲人 子どもとの関係に悩んでいる親は、 「子どもこそ 我が人生」だと 考えてしまいがちです。
要するに、子どもの課題までも 自分の課題だと思って 抱え込んでいる。
いつも 子どものことばかり 考えて、
気がついたときには 人生から「わたし」 が消えている。
【こんな場合 子どもは、 感謝でなく 煩わしさを感じていることが多いだろう】
しかし どれだけ子どもの課題を背負いこんだところで、子どもは独立した個人です。
親の思い通りになるものではありません。
進学先や就職先、結婚相手、あるいは日常の些細な言動でも、
自分の希望通りには動いてくれないのです。
他者は あなたの期待を満たすために生きているのではない。
たとえ我が子であっても、 親の期待を満たすために生きているのではないのです。
【期待していることを伝えることは 介入であり、他者(我が子)の主権の侵害である】
青年 家族でさえ、そこで線を引けと?
哲人 むしろ 距離の近い家族だからこそ、 もっと 意識的に 課題を分離していく必要があります。
信じるという行為もまた、課題の分離です。
相手のことを信じること、これはあなたの課題です。
しかし、あなたの期待や信頼に対して相手がどう動くかは、他者の課題なのです。
たとえ相手が自分の希望通りに動いてくれなかったとしてもなお、
信じること・愛することができるか?
アドラーの語る 「愛のタスク」 には そこまでの問いかけが含まれています。
青年 難しい、難しいですよ、それは!
哲人 こう考えてください。
他者の課題に介入すること、他者の課題を抱え込んでしまうことは、
自らの人生を重く苦しいものにしてしまいます。
もしも 人生に悩み苦しんでいるとしたら(その悩みは 対人関係なのですから)
まずは 「ここから先は自分の課題ではない」 という境界線を知りましょう。
そして 他者の課題は切り捨てる。
それが人生の荷物を軽くし、 人生をシンプルなものにする第一歩です。
自らの生について、あなたにできるのは「自分の信じる最善の道を選ぶこと」
それだけ(だから、結果は関係ない)です。
一方で、その選択について 他者がどのような評価を下すのかは 他者の課題であって、
あなたには どうにもできない話です。
他人に どう思われるかよりも、自分が どうしたいか 【このために、課題を分離する】
その自分とは、自分の中のエゴなのか 本当の自分なのか?
哲人 なぜ、他者の視線が気になるのか? それは課題の分離ができていないからです。
青年 課題の分離を推し進めると、最終的には人の絆を分断してしまうのではないですか?
哲人 課題の分離は 対人関係の最終目標ではありません。むしろ 入り口なのです。
良好な対人関係を結ぶには ある程度の距離(一体化しないこと)が必要です。
【関心を持ちながらも、一体化しない】
見返り(結果)を求めてもいけません。
それぞれが 「わたし」 の課題として自発的に関われば、見返りは必要なくなり、
give & take の関係ではなくなります。
【行うことが自分の課題であり、その結果は自分の課題ではない】
「他者の課題である 他者の欲求」 を満たそうとする承認欲求は、 要するに
「誰からも 嫌われたくない」 ということでしょう。 そんなことは 無理に決まっています。
そして 結局は信用を失い、 自らの人生を苦しいものにしてしまうのです。
他者から嫌われたくない と思うこと。
これは、たしかに 人間【のエゴ】にとって 本能的な欲望であり、【エゴの】衝動です。
では、このエゴの欲望のままに生きることが 「自由」 なのかというと、それは違います。
そんな生き方は、 欲望【エゴ】の奴隷にすぎません。
【嫌われたくないのは 自分の欲求であり、 自由に生きたいのも 自分の欲求である。
その自分は、エゴか? 本当の自分か?】
われわれは 対人関係での自由、自由な対人関係を求めています。 そう考えると、
「自由とは 他者から嫌われる(嫌われても いいと思える)ことである」 と言えます。
【どっちの自分の欲求なのかを見極め、 嫌われたくないというエゴの欲求に囚われないことが自由】
自由を行使したければ、そこにはコストが伴います。
対人関係における 「自由のコスト」 とは、 他者から嫌われる(かも知れない)ことなのです。
他者の評価を気にかけず、 他者から嫌われることを怖れず、
承認されない(かも知れない)という コストを支払わないかぎり、
自分の生き方を貫くことはできない。 つまり 自由になれないのです。
【コストを支払うことなしに 楽して・リスクを取らずに自由を手に入れることはできない】
ただ 課題を分離するのです。
あなたのことを よく思わない人がいても、 それは あなたの課題ではない。
「自分のことを好きになるべきだ」 と考えるのは、相手の課題に介入した見返り的な発想です。
もし 私の前に「あらゆる人から好かれる(が、不自由な)人生」 と
「自分のことを嫌っている人もいる (が、 自由な)人生」 があったとして、
どちらか一方を選べと言われたとしましょう。
私なら、迷わず後者を選びます。
他人に どう思われるかよりも 先に、
(本当の)自分が どうあるかを貫きたい。 つまり 自由に生きたいのです。
対人関係における自由とは、 課題がきちんと分離されることなのです。
【自由に生きるとは、 コストを払って課題を分離した上で 自分の課題に責任を持つこと。
自分らしく生きるとは、 自分の根源的な欲求に 素直にしたがって生きることであり、
そのためには 自分の課題から逃げずに 立ち向かわなくてはならず、それは 厳しい道だ】
私が、父との関係修復の「決心」 をするにあたって、
父が どのようなライフスタイルを持っているか、私のことを どう思っているか、
私のアプローチに対し どんな態度をとってくるかなど、ひとつも関係なかったのです。
たとえ向こうに 関係修復の意思がなくても、 一向にかまわない。
問題は 私が決心するかどうかであって、
対人関係のカードは常に 「わたし」 が握っていた(わたしの課題だった)のです。
(承認欲求に縛られている)多くの人は、対人関係のカードは他者が握っていると思っています。
でも 課題の分離が理解できれば、
すべてのカードは自分が握っている(すべて わたしの課題である)ことに気がつくでしょう。
【他人を変えることはできない。自分が変わることしかできない。 わたし しかいない】
わたしは 「父を変えるため」 に、 変わったのではありません。
それは 他者を操作しようとする、 誤った考えです。
青年 他者を操作してはいけないし、操作することはできない...
哲人 対人関係とは誰かとの関係ではありますが、まずは 自分自身の問題なのです。
人生のカードを 他者に委ねるか、それとも自分が握るのか。
課題の分離、 そして自由について、 もう一度 ゆっくり整理してみてください。
【対人関係を考えるときの三つの考え方
① 対人関係の鍵は 他者が握っている ② 対人関係は 相手と自分の相互関係だ
③ 対人関係の鍵は 自分が握っている あなたは どんな考え方を選びますか】
第三夜のまとめ:
課題を分離し、 わたしの人生を自由に生きる
対人関係を整理するために、 課題を分離する。
その問題を最終的に引き受けるのは 誰か。
その人が その問題の主権者であり、判断し決定するのは 主権者である。
他者の課題に土足で踏み込んではならない。
わたしが 他者に対してできることは、 代わりに問題を解決することではなく、
解決に向けた 提案と援助だけである。
承認欲求とは、 他者の評価を基準にして 自分を認めてもらおうとすることであり、
他者の課題と わたしの課題を 取り違え、 自らの主権を放棄している。
従って 承認欲求を満たすことは、 わたしが 「他者の人生」 を生きることに他ならない。
わたしは 「私の人生である私の課題」 に向き合い、わたしらしく生きなくてはならない。
リスクを取って 他者の課題を切り捨てることが、「自由な」 対人関係の鍵となる。
そして その鍵を握っているのは自分である。
その結果、 ときには嫌われるかもしれない。
しかし、嫌われること・傷つくこと(コスト・リスク)を怖れてはならない。
他人に どう思われるかではなく、自分が どうありたいか、それが 自由である。
ただし 自由には(孤立でない)孤独という感覚が伴うことを引き受けざるを得ない。
ありたい自分の姿は、マインドフルネスが教えてくれるだろう。