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アドラー・岸見・古賀・やすみやすみ
「嫌われる勇気」 第一夜 ライフスタイル
ライフスタイルとは なにか?
なぜ「ライフスタイル」なのか?
「目的論」とは、
ライフスタイル変更のための考え方
そして、わたしのライフスタイルは?
はじめに:
人は変われる、 世界はシンプルである、 誰もが幸福になれる。
アドラーの認知論
哲人 わたしの答えは 変わりません。 世界はシンプルであり、人生もまたシンプルです。
青年 なぜです? 誰が どう見ても 矛盾に満ちた混沌ではありませんか!
哲人 それは「世界」が 複雑なのではなく、ひとえに 「あなた」が
世界を複雑なものとしているのです。
青年 わたしが? 【そう あなたが、 です】
哲人 人は誰しも、客観的な世界に住んでいるのではなく、
自らが意味づけをほどこした 主観的な世界に住んでいます。
【アドラーの認知論:孤立ではないが 孤独】
あなたが見ている世界は わたしが見ている世界とは違うし、
およそ 誰とも共有しえない世界でしょう。
【すべてはわたしであり わたししかいない】
われわれは「どう見ているか(認知)」 という主観がすべてであり、
自分の主観から逃れることは できません。
【すべてはわたしである】
いま あなたの目には、世界が 矛盾した・ 不当な・複雑怪奇な混沌として映っている。
ですが、主観がすべてなのですから、
問題は 世界(外側)が どうであるかではなく、 あなた(の内側)が どうであるかなのです。
あなたが、世界を複雑にしていただけです。
ですから あなた自身が変われば、 世界はシンプルな姿を取り戻します。
【社会常識と 自己防衛機構を 取り除いて】
あなたは世界を、 そして自分自身を直視することができるか。 あなたにその勇気があるか。
青年 勇気?
哲人 ええ、これは「勇気」の問題です。
【わたしの勇気 = 覚悟 = 決意 = 自由意思】
【幸せ になることは、ネガティブな世界観をポジティブなものに書き換えることか?
そんな単純なことではないものの、 確かに 書き換えて 変更する必要はある に違いない。
その前にまず 一旦 世界と自分を直視する。
「世界と自分を 直視する」 とは 「意味づけ という編集作業」 そのものを やめること。
そうすれば 世界はシンプルなものになって ありのままの姿が観えてくるようになり、
辛いが 自分が何者でもないただの普通の人であることを 認めざるを得なくなり、
その結果 最終的に 幸せとは何か が分かる。
世界が 矛盾した・ 不当な・複雑怪奇な混沌としたもののように見えていたのは、
世界を 言語的・論理的に のみ(左脳機能だけで)観ていたからである。
そのことを理解した上で 改めて、
人間とは、意味づけることなしには 生きることができない生き物であると納得し、
世界と関わるときの意味づけを変更する。 その変更後の価値観とは 一体どんなものか。
そして あなたの意味づけた新しい世界観により 世界はどんな風に変わってしまうのか】
第一夜:
トラウマを否定せよ (原因論から目的論へ)
実践(変容)のための 目的論という処方箋
哲人 アドラー心理学は、 学問のための学問ではない。
人間理解の真理であり、実践のための理論です。
青年 まずは 「変わること」 について伺います。
人は 誰しも変わりたいと願っています。 わたしもそうですし 誰だって同じでしょう。
でも どうして みんなが 「変わりたい」 と思うのか?
それは、 みんなが変われずにいるからです。人は、変わりたくても変われない!
【いま幸せでないので、 幸せになるために 変わりたい=内側を変えたいと思っている。
幸せになるために 外側を 変えようとする人たちよりは ずっとまともである。
だが、なぜ 変われないのだろうか?
アドラーは、 口では変わりたいと言うものの 心の奥底では 実は変わらない方が楽だから
(変わりたくない)と思っているのだと言う。
「意識のレベル」 では 変わりたいのだが、 「無意識のレベル」 では 変わりたくない と。
なかなか厳しい言い方である。
「勇気づけ」 のときには、こんなにハッキリ言わない方がいいだろう。
確かに本当に変わることは途方もなく難しい。
それは ひとえに、 「脳の無意識レベル」 に焼きつけられてしまった 主観の世界
(思い込み : いったん形成された シナプス回路)の強固さゆえである。
(ここで言う無意識とは、 厳密には 意識化不能な無意識ではなく、意識化可能な前意識)
「人は客観的な世界ではなく、 自らが 意味づけした主観的な世界に住んでいる」 という
一般的な認知論として言われれば、誰もが「その通り」 と頷くだろうが、 実のところ
自分自身の問題としての その本当の意味(自分のライフスタイルが、 つまり
自らが意味づけた主観的な世界が 縦の関係であることが 分かっていないのだ。
では 「縦の関係」 である 主観的な世界とは、 いったい どんなものか?
その詳細は、第二夜で語られる】
哲人 そして、あなたは 「あらゆる結果の前には、 原因がある」 とおっしゃる 。
要するに、現在のわたし(結果)は 過去の出来事(原因)によって規定されるのだと。
つまり、トラウマといえるほどの 大きな(かつ 自分には責任のない)出来事のために、
自分自身が このようになってしまった ということですね? そして
それは客観的な事実なので、 もはや 今から変えることはできない ということですよね?
でもそれは、 本当に客観的な事実ですか? あなたが意味づけした主観ではないのですか?
【 「トラウマ」という言葉を使うとき、
人は そこで起こった客観的な事実と、その出来事に対する(自らの)意味づけを、
きちんと分けて理解できているだろうか?
たしかに辛い事実だったのだろうが、その辛さを過剰に再生産してはいないだろうか?
本来であれば、 無常の原則により 減衰・消滅するはずの出来事を、
日々新たに更新し続けているのではないか? だとすれば、同じ意味づけをされた物語を
再生産することで「辛い事実」に向き合うことから逃げているということではないか?
逃げているので、逆に 再生産してしまっているのではないか?
その事実が起こったとき、 あなたは まだ小さく・幼く・弱々しかった。
世界は 敵だらけで、頼れるのは 両親だけ。
だがその両親も余裕がなく、 十分な助けにはならなかった。
後は 逃げるか、分厚い鎧よろいで自分を守ることしかできなかった。
でも今もなお、 あなたは弱々しく小さなままなのか?
今、それに向き合う 「勇気」 を持つほどに 強く 逞たくましくなったのではないか?】
哲人 過去の原因にばかり目を向け、原因だけで物事を説明しようとすると、
話は おのずと「決定(宿命)論 」 に行き着きます。【決定論では、 自由意思は存在しない】
すなわち、われわれの現在 そして未来は、
すべてが 過去の出来事によって決定済みであり、動かしようのないものであると。
違いますか?
【決定論では、自分の責任が問われない】
青年 では、過去など関係ないと?
哲人 ええ それがアドラー心理学の立場です。 過去は、あなたがつくり出したものです。
【すべてが過去の出来事によって決定済み(宿命論)などということはあり得ない。
変えることができるハズだ。
あなたが 過去の出来事として処理して 思い込んでいることは、
「事実」 ではなく あなたが 「意味づけたこと」 ではないのか?
客観的な歴史が存在しないのと同じように、 個人の「客観的な過去」 など 存在しない。
歴史も過去も(現在の)主観が創りだした(意味づけした)概念・妄想にすぎない。
だから、「主観・物語・思い込み」 に惑わされてはいけない。
「過去など関係ない!」・・・・とまでは 言えないかも知れないが…】
青年 しかし、ですよ先生。いまのお話だと、わたしの友人は
なんの理由もなしに 外に出られなくなったことになってしまいませんか?
彼が引きこもっている背景に なにかしらの理由がなければ、説明がつきませんよね?
哲人 ええ、たしかに説明がつきません。
そこでアドラー心理学では、過去の 「原因」 ではなく、いまの「目的」 を考えます。
ご友人は 「不安だから 外に出られない」 のではありません。 順番は 逆で
「外に出たくないから、 不安という感情をつくり出し 防衛している」 と考えるのです。
そうやって (劣等コンプレックスとして)今の(勇気のない)状態を、
正当化しようとしているのです。
青年 はっ?
哲人 つまり ご友人には 「外に出ない」 という目的が先にあって、
その目的を達する手段として、不安や恐怖といった感情をこしらえているのです。
アドラー心理学では、これを目的論といいます。
【目的論は、 自分が主体的にならなくては何も始まらないという
「当たり前だが、厳しい」 考え方である。
「自我」 が確立されていなくては この考え方を受け入れ 実践することができない。
一次的には、過去の辛い体験のため 世界へと踏み出す勇気がくじかれた。
だが、彼が 今もそこに留まっているのは、
辛さを 過剰に再生産し、固定化し、客観的な出来事と信じ込むことによって、
自分の勇気のなさに目をつむる(人生から逃避する)ためである。
「逃避」 は 未熟な自我の取る 典型的な手段であり、
目を背ける(という目的の)ため、 過去(に起きた原因)をことさら過大に評価し、
その 「トラウマ」 が原因であると決めつけている。
「説明」 自体は 原因論でも目的論でも どちらでも可能だ。
しかし「変わるため」 の 説明・理解が必要なら、目的論を採用すべきだろう。
そして、真の理解が 「変わる」 という行動(実践)を伴う(勇気ある)ものなら、
原因論を採用したとしても それに囚われず 「変われる」 だろう】
哲人 ご友人が そこで感じている不安や恐怖は、本物です。
割れるような頭痛や 猛烈な腹痛に襲われることもあるでしょう。
しかし それらの症状もまた、
「外に出たくない」 という(勇気のなさに 目をつむる)目的を達成するために、
つくり出されたものなのです【疾病利得】 これが 「原因論」 と 「目的論」 の違いです。
あなたのおっしゃる話は すべてが原因論に基づいています。
われわれは 原因論の住人であり続ける限り、 一歩も前に進めません。
原因論も目的論も (どう見るのかという メガネの処方のような)解釈の仕方に過ぎず、
どちらが正しいというものではありません。
なんのために解釈するのか、ということが大事なのです。
原因論は 決定論につながり、 そうすると 変化することは 不可能になってしまいます。
私たちは「幸せ」 になるために 「変わろう」 としているのでしたね。
「原因論」 は変わろうとする 私たちの「自由意思の力」 を嘲笑します。
だから、「原因論」 ではなく「目的論」 なのです。
私たちの中には 「変わろうとする意思の力すなわち勇気」 が、 たしかに存在しているのです。
その存在を信じることがスタート地点なのです。
【アドラーは「トラウマを否定しろ」 などという過激な言葉を使っているが、
過去の強烈な体験が 脳のニューロン回路に焼きつけられていることは確かなので、
もちろん 意思の力は必要だが、 それだけで
そう簡単に 意思の力だけで変わることは 難しいだろう。
意思の力は まずはスタートのためであるが、 ニューロン回路を書き換えるためには、
トレーニングとそのための時間が必要であり、 そのためにも意思の力が重要である。
だから 傷ついた自我に対して 私たちにできることは、 未熟な自我に対するのと同じように、
その 「挫かれた勇気=意思の力」 を取り戻すべく「勇気づける」 ことなのである。
つまり、意思の力を呼び起こして 決意するように勇気づけることが必須であり、
その 「勇気づけ」 は「愛する」 ことに基づく働きかけによってなされる】
哲人 現在の自分の状況を 原因論で理解しているかぎり 自分を変えることはできません。
変わろうという目的があるなら、目的論のもとに 実践しなくてはならないのです。
「性格だから仕方ない」 と言っているかぎり、 自分は変わりません。
「性格」 という言葉は言い訳であり、 その言葉のなかに逃げ込んでいるだけのことです。
変えることのできない 「性格」 であると思い込んでいたものが、
実は 変更可能な 「ライフスタイル」 であったことを知れば、
【意識化不能な無意識でなく、意識化可能な前意識のレベルの問題だったことを知れば】
自分を変えることが可能であることが分かります。
ライフスタイルは「どう見ているか」 という主観(思い込み)によって決まるものであり、
つまり ライフスタイルとは認知の在り方そのものであり、その見方(認知)を変えれば
「性格」であると思われていたライフスタイルを変えることができるのです。
【なにも 過去の経験が 今の自分をつくっているという 「原因論」 が 間違っている わけではない。
アドラーが 「原因論」 を否定して「目的論」 という考え方を採用したのは、
原因論が間違いだからではなく、
原因論に依存して その見方に浸りきっている限り、一歩も前に踏みだせないからだ。
今の自分の姿を 変え(変容し)たいなら 踏みだすしかなく、
その(目的の)ためにはどうするのか と考えることを「目的論」 と呼んだまでのことだ。
アドラーは 「変容」 を促すための仕掛けとして、「実践する」 勇気を引きだすために、
このような「誤解」 を生みやすい「過激」 な言い方をしたのだと思う。
ただし、ライフスタイルの元になるような 「どう見ているか」 という主観は
意識と無意識の境の前意識にあるものであり、
それゆえに 「思い込み」 なのであり、 これを意識化することは難しい…が、可能である】
ライフスタイルとはなにか?
【ライフスタイルとは、 世界と自分に対する意味づけに基づいた 「認知行動パターン」 】
哲人「決意する勇気」 は、 「幸せ」 になるためのスタート地点です。 そして ゴールは、
私たちは 「自らが意味づけをほどこした 主観的な世界に住んでいる」 という事実を
しっかりと本当の意味で理解した上で、
実践によって 人間関係という人生のタスクを完成させることです。
では、あなたが意味づけをほどこした主観的な世界とは、いったい どんなものなのか?
【それが、第二夜で説明する「縦の関係」 の世界である】
アドラー心理学では、性格や気質のことを 「ライフスタイル」 という言葉で説明します。
人生における 思考(認知)や行動の傾向です。
その人が「世界」 をどう見ているか。また、 「自分」 のことをどう見ているか。
そこから 行動が引き出されます。
これらの 「意味づけのあり方」 を集約させた概念が、ライフスタイルです。
ライフスタイルとは、 世界と 自分自身 についての意味づけであり、
世界と自分に対する 主観的な解釈の仕方のことです。
狭義的には 性格とすることもできますし、
もっと広く、その人の世界観や人生観まで含む言葉にもなります。
その人の生き方を決める 認知行動パターンです。
そして このライフスタイルこそが、あなたが 主観的に意味づけた世界観なのです。
青年 世界観とは?
哲人 たとえば 「私は悲観的な性格だ」 と思い悩んでいる人がいたとしましょう。
その言葉を 「私は悲観的な世界観を持っている」 と言い換えてみる。
問題は自分の性格ではなく、自分の持っている世界観(ものの見方)なのだと考える。
性格という言葉には、変えられないものだというニュアンスがあります。
しかし、 世界観であれば 変容させていくことも可能でしょう。
【ライフスタイルとは、性格・気質・キャラであり、世界観・人生観・価値観であり、
パーソナリティ・アイデンティティであり、
~に違いない・~ねばならないという 認知パターンであり、
その認知に基づいて反応する 行動パターンであるのだが、
実は それは意思の力によって頑張れば 変更可能な(前意識の)ものである。
「性格」 という言葉を使うと 「変えられない」 と連想してしまうだろうが、
「キャラ」 という言葉であれば「つくることが出来る」 と思わないだろうか?
「性格」 だって 生まれついたものではなく、 「つくられた 次の自分」 なのだ】
そしてアドラー心理学では、 ライフスタイルは 自ら選びとるものだと考えます。
【 「つくられた」 と言えば 受動的であり、 やはり「変えられない」 と思ってしまうかも知れないが、
「選びとった」 と言えば、「選びなおす」 ことも可能だと思えるだろう。
とはいえ ライフスタイルもまた トラウマと同じように、 脳の回路に焼きつけられている。
したがって それを 「書き換える」 ためには、 トレーニングと時間が必要である。
「決意」 は一瞬でも、書き換え自体が 一瞬で起きるワケではない】
青年 わたしには 選んだ覚えなど、まったくありません。
哲人 もちろん、意識的に「こんなわたし」 を選んだわけではないでしょう。
最初の選択は無意識だったかも知れません。
その選択にあたっては、人種や国籍・文化 また家庭環境といったものが大いに影響しています。
【ライフスタイルとは、一人の人間が 社会に適応するために サバイバル戦術として
緊急避難的に選んだものである。
アドラーのいうライフスタイルとは、自我(エゴ:次の自分)のことでもある】
哲人 ライフスタイルが先天的に与えられたものでなく 自分で選んだものであるのなら、 再び
自分で選びなおすことも 可能なはずです。
【はじめは 無意識下で選択されたが、 今度は 意識的に選び直す】
自らの生まれを選ぶことは誰にもできません。
この国に生まれること、 この時代に生まれること、 この両親のもとに生まれること、
すべて 自分で選んだものではない。
不満もあるでしょうし、
他者を見て「あんな境遇に生まれたかった」 と思うかも知れません。
でも そこで終わってはいけないのです。
問題は「過去」 ではなく、 現在の「ここ」 にあります。
いま、あなたはここで(縦の関係である)自分のライフスタイルを知ってしまった。
であればこの先どうするかは あなたの責任なのです。
これまで通りのライフスタイルを続けることも、 新しいライフスタイルを選び直すことも、
すべては あなたの一存にかかっています。
【今までのライフスタイルが どんなに酷いものだったかを
(マインドフルネスによって)はっきりと 理解したなら、 後戻りなどできないだろう】
哲人 でも
新しいライフスタイルを選んでしまったら、 新しい自分に何が起きるか分からなくなり、
不安だらけの生を送ることになるかも 知れません。
ですからライフスタイルを変えようとするとき、 われわれは 大きな勇気を試されます。
変わることで生まれる 「不安」 と 変わらないことでつきまとう 「不満」
あなたは、どちらを選択するのですか?
もしも今 不幸だと感じているのなら、前に進むことが大切です。
【繰り返しこのブログを改訂しつつ アドラーの思想を内面化し 実践しようと努めて、
何年も何年も経ってから その不安を初めて実感することになった。
たしかに 新しい道を選ぼうとするときに、 先の見えない 途方もない不安を感じた。
不安よりは不満の方がマシかとも思ったが、 もう引き返せないところまで来てしまった】
青年 ・・・厳しい。 先生の哲学は、あまりにも厳しい!
お前の責任なんだと、 断罪されているように聞こえます…
【責めているのではない。「変わろう」 とするなら、そうするしかないのだ】
哲人 世界や自分への意味づけ(ライフスタイル:見方)を変えれば、
【問題は、 どうやって その見方を変えるか?
愛されること(もしくは 愛されていたことに気づくこと)によって 決意し、
愛する実践によって 見方を変えてゆく】
世界との関わり方が 変わらざるを得なくなります。
あなたは「あなた(始めの自分:本質)」 のまま、 ただ
(表層的な要素である)ライフスタイルを 選びなおせばいいのです。
【本質と比べれば 表層的と言えるが、やはり それなりに深い所にある ライフスタイル。
普通 心(自我)と呼ばれているのがライフスタイルだが、そのさらに奥に 本質がある】
厳しい話かも知れませんが、 シンプルです。
アドラーの目的論は、
「これまでの人生に なにがあったとしても、今後の人生を どう生きるかについて なんの影響もない」 と言っているのです。
第一夜のまとめ:
わたしのライフスタイルは 「縦の対人関係」 だった
アドラー心理学では、性格や気質(自我:次の自分)のことを ライフスタイルと言う。
これは、その人の生き方を決める認知行動パターンであり、 このライフスタイルこそが、
わたしが主観的に意味づけた世界観であり、
幼いころに(社会に適応するために次の自分として)わたし自身が選びとったものである。
自分で選びとったものなら、もう一度 選びなおすことも可能なはずだ。
そのライフスタイルとは 一体どんなものか?
それは、対人関係を「縦」 でとらえ、
他者を「敵」 と見なし 「承認欲求」 を基盤とした生き方である。
その自分のライフスタイルを(マインドフルネスによって)はっきりと知ってしまったなら、
わたしは 変わらざるを得ないだろう。
新しいライフスタイルは、不慣れな 「OS」 のようなものである。
それを使いこなすには、練習し 慣れるための時間が必要である。
【いったん形成されたシナプス回路を 書き換えるには、トレーニングが必要である。
本当に使いこなせるのかどうか 不安があるとしても、その道を進むしかないのだが、
その道を歩き始めれば 本当にこの道でいいのかという不安が ときに持ち上がるだろう】
【 「嫌われる勇気」 という本の「第一夜」 の部分にも 本全体の中にも、 どこにも 直接
「わたしの ライフスタイルは 縦の対人関係だった」 とは 一言も書かれていない。
しかし この認識をもとにすることにより、
この本が自分に与えるインパクトがガラッと変わり、
自分自身の問題として捉えることができるようになった。
自分のライフスタイルが 「縦の関係」 であることを理解する(認める)ことなしに、
この本から 何かを学ぶことはできない と思われたので、文脈を無視して 少々強引に
「わたしのライフスタイルは 縦の対人関係である」 ということを あちこちに書き加えた。
「縦の関係」 とは、社会を生きるために身につけた 「次の自分」 である自我の特性であり、
それがどんなものかについては、 第二夜で説明される】