やすみやすみの「色即是空即是色」

やすみやすみの「色即是空即是色」

「仏教の空と 非二元と 岸見アドラー学の現実世界の生き方」の三つを なんとか統合して、真理に近づきたい・語りたいと思って記事を書き始めた。
「色即是空即是色」という造語に、「非二元(空)の視点を持って 二元(色)の現実世界を生きていく」という意味を込めた。

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嫌われる勇気変わるための理解


      アドラーの認知論
      実践(変容)のための目的論という処方箋
      ライフスタイルとはなにか

2   縦の関係
      なぜ自己受容できないのか
      間違った劣等感劣等コンプレックス 優越コンプレックス
    (向上の動機づけになる)正しい劣等感
      他者との比較競争が不幸を引き起こす
      人生のタスクに踏みだす

      承認欲求の何が問題なのか
      誰の課題か
      他者の課題は切り捨てる
      他人にどう思われるかor自分がどうしたいか

4   横の関係
      共同体感覚
      自己中心的な人
      横の関係になるため課題を分離する
      存在のレベルで共同体感覚を得る
      わたしがあなたとの関係から始める

      自己受容他者信頼他者貢献の 円環構造
      人生の調和(人生の全体)を意識する
      存在レベル関係性interbeing)の価値
      いまここを踊るように真剣に生きる
      人生の意味           導きの星言葉




幸せになる勇気自分を変える実践

0   はじめに
      すべての問題は愛のひと言に集約されていく

      自立とはなにか
      尊敬とはなにか
      どうやって尊敬するのか
      なぜ変われないのか
      変わるためにどうするのか

      問題行動を叱ってはいけないのか
      問題行動の5段階
      コミニュケーションの目的は合意
      依存的な人間になってしまう理由

      比較競争は社会の場で再生産される
      人間にはなぜ共同体が必要なのか
      完璧や特別を求めず普通に生きる
      不幸を抱えた人間による救済

      人生のタスクとは
      なぜ交友が大事  信用と信頼の違いは
      分業(仕事)とはなにか
      自立に向けた援助とは尊敬し信頼すること
      自分を信じられれば他者も信じられる
      アドラーは人間の自由意思を信じた
      目の前の小さなことから始める
      心の物乞いになってはいけない

      人間の愛
      人生の主語が変わる
      愛することは自分からの解放
      親子の関係で起こること
      真の自立のため誰かを愛する
      無条件の愛
      人生のダンスを踊る
      最良の別れのために生きる




  最後に一言だけ。

  アドラーが伝えようとしたのは人間の愛であり、 その典型は夫婦と親子の愛である。

  この二つの愛は共に、まず目の前の相手に関心を持つこと(social interest)から始まり、
「わたし」 の価値観を相対化して相手の価値観も受け入れることによって、
「わたしたち」 に共通する新しい価値観を見つけるか 創りだすことで成り立っている。

  このようにして正しいコミニュケーションで合意し 高次の価値観を生みだせれば、
  人生の主語が 「わたし」 から 「わたしたち」 に変わるだろう。

  価値観とは意味とは何か よく考えてみる。すると そこから良好な対人関係が生まれる。
  
  


私の 導きの指標となるキーワードは


 「同じでないが対等意識横の関係

   人の要素はみな違っていて 当たり前

   存在と全体としての本質は みな同じ


   なにものかであるものは なにもなく

                           わたしも 何者でもない


   上手くいかないことも含めて    味わい 

          楽しんで、     人生そのものを愛する


   課題の分離     存在全体性     自己受容


 「エゴの承認欲求」 ではなく

             真の自分の欲求」 を大切にする


                人生は 喜ばせっこ

   概念的なを相対化したあとに残る 

                人生の指標は 

   理解に裏打ちされた 感覚としての 「


  「思いやり」 という名の   他者貢献

    他者への関心social interest) とケア

                謙虚さ感謝尊敬 


   マインドフルネスによる 自由意思で

   すぐに 反応する 人から  観る 人になる


   わたしは  いつの日か   かならず死ぬ

   最良の別れの日のために メメントモリ



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「幸せになる勇気」自分を変える実践

0   はじめに
      すべての問題は愛のひと言に集約されていく

      自立とはなにか
      尊敬とはなにか
      どうやって尊敬するのか
      なぜ変われないのか
      変わるためにどうするのか

      問題行動を叱ってはいけないのか
      問題行動の5段階
      コミニュケーションの目的は合意
      依存的な人間になってしまう理由

      比較競争は社会の場で再生産される
      人間にはなぜ共同体が必要なのか
      完璧や特別を求めず普通に生きる
      不幸を抱えた人間による救済

      人生のタスクとは
      なぜ交友が大事  信用と信頼の違いは
      分業(仕事)とはなにか
      自立に向けた援助とは尊敬し信頼すること
      自分を信じられれば他者も信じられる
      アドラーは人間の自由意思を信じた
      目の前の小さなことから始める
      心の物乞いになってはいけない

      人間の愛
      人生の主語が変わる
      愛することは自分からの解放
      親子の関係で起こること
      真の自立のために誰かを愛する
      無条件の愛
      人生のダンスを踊る
      最良の別れのために生きる




 以下の補足文を参考に本文を読んで下さい。  一番最後に各章のまとめを載せておきます。


  本文の中に 「マインドフルネス」 という元々ない言葉を 何箇所か勝手につけ加えている。
  これは、「嫌われる勇気」 という本を読んだだけでは アドラーが伝えようとしている
  内容の本質を体感することがとても難しく
  マインドフルネスという技術を使うことで 心から納得できたという私の経験による。

  さらに自分を変えるという実践においても  マインドフルネスはとても有効である。
「嫌われる勇気」と「幸せになる勇気」の二冊の本に多くの人たちが感動したハズだが、
  この読書による理解だけで実際に自分自身が変わったという人は多くないと思われる。

  それは この二冊の本では、意思の力=勇気=決意(自由意思)が強調され、
  そのために、  勇気づけが必要と説明されるだけであり、
  具体的にどうすればいいのかという言及がないからであり、
  このことに苛立つ人もいたようである。

  二冊の本の中最も具体的かつ有効な技術は  「課題の分離」 という考え方だと思うが、
  これだけで アドラー心理学を実践するのは難しく、他に 具体的な技術の言及はない。
  私の場合は、マインドフルネスという技術の訓練過程で この二冊の本に出会ったので、
  アドラー心理学の実践が現実的になった。
  とは言うものの、マインドフルネスの説明もトレーニングも難しいことは事実である。


  また 「わたし」 の中身便宜的二つに分け、   浅いところにあるものを「要素」
  深いところにあるものを「本質」 と呼んで区別することで 説明を分かりやすくできたと思う。

「要素」 は、 先天的なDNA特性をもとにして 後天的な経験によって獲得した機能であり、
  社会に適応するため身につけた 「次の自分」 でありそれは人により様々に異なっている。
「本質」 は、 いのちのエネルギーの元になる すべての生命体のコアになる部分であり、
  生まれたときに すでに持っていた 「始めの自分」 であり、 すべての人で同じものである。

  そして 一般的に自我と呼ばれているものは この 「要素」 のことである、 と定義してみた。

  人間が抱えている問題の多くは、 「わたし=要素」 であると誤認することによっていて、
「わたし」 が(仮に)「要素と本質」 からなる 二重構造をしていると理解すれば、
  そこが 解決の糸口となり、  「本質」 を発見することで「自己受容」 できると思われた。
           
  自分の中の要素と本質いつも二つ分けて意識し、  同時に他者の心の中も同様に捉え、
  それぞれの要素が驚くほど違っているのに対して、本質はまったく同じであることを
  忘れないでいられるようになれば、色んなことが驚くほど上手く回り始めるハズだ。

  より具体的に「要素」 とは どんなものか、  「本質」 とは どんなものか については、
  本文を読みながら自分で考えてもらいたい


  人類は、① 共通の物語りという価値体系を信じることにより 強固な共同体を作って、
  分業することで 大きな力を獲得して、生き延びてきた。
  もう一つ人類のサバイバルに役立ったのは 
  ② 世界を論理的に理解して道具を生みだすという テクノロジー技術である。

  ルネサンス以降この知的活動盛んになり  産業革命と資本主義が それを加速させた。
  これが、近代以降の われわれが生きている世界であり、
  ①や ②の機能を生みだしているのは、主に 左脳の認知機能である。
  つまり この左脳の認知機能こそが、人類を人類たらしめている最も顕著な特徴である。

  上記の 「要素」 は、左右両側の大脳の様々な部位に割り当てられた能力のことであり、
  左脳の認知機能も この様々ある能力の一つに過ぎないものなのだが、
  現代社会においては 様々な能力の中で最も価値があるものとみなされている。

  左脳の認知機能は、世界を分割して そこに言葉を当てはめて 意味を見いだし、
  それらを比較し 優劣を決め、さらに様々に組み替え また新たな意味を再生産するという
  とても複雑な作業の繰り返しである。
  そして ときに、この認知は 自らの正当性を主張する(一つの認知が生き残る)ために、
  違う・他の認知方式を 感情的に激しく攻撃することすらある。
  そのためにシンプルだった 「わたし」 の本質が 追いやられ観えなくなり、 その結果として
  人間の不幸(苦悩)が生まれることになった。

  この左脳機能は、 近代の国民国家による義務教育によって 強化・過大評価されて、 
  過剰なものとなり 他の機能を圧迫している。


  マインドフルネスとは、
  意識の内容を この左脳の認知機能の 「思考」 から「感覚」 にシフトすることなので、
(考えるのでなく、感じることなので)
  結果的に、過剰になった左脳機能を抑えて 低下していた右脳機能を活性化し、
  世界を異なる仕組みで理解している 左右の脳機能のバランスを回復させることで、
「わたしの誤認」 に気づき、 「本質」 を発見し、  「自己受容」 できるようになる。

  マインドフルネスとは、思考せずに 世界を ただ 「観ている」 ことでもあり、
  この 観ている主体こそが「本質」 であり、
  それ故に マインドフルネスのトレーニングが「本質」 の発見を導くのである。

  すべての人たちが 心の底から希求している  「自己受容・他者信頼(受容)」 は
「愛」 という言葉で言い換えることも可能であり、  それは 本質の発見によってなされる。
  この愛を妨げていたものは、実は 先に説明した あの過剰な左脳機能であったのだ。

  人間の幸せにとって大切なものは二つあり、  一つは自分らしくあることであり、
  もう一つは 対人関係が良好であることだ。
  自分らしくあることは 「要素」 のレベルの特性に素直にしたがって生きることであり、
  それは 当然 人により様々に異なっている。
  一方の対人関係の良好さは「愛」 の発露や発見によるもので、 全ての人に共通している。


  私の場合の自分らしさとは  その左脳の認知機能そのものであったのだが、
  盲目的にこの機能を追求し強化することは、 良好な対人関係の形成に逆行することであり
  それゆえに 愛の再発見は困難をきわめた。
  まさか 自分らしさの追求が 良好な人間関係の在り方と対立するとは思いもよらなかった
  認知によって 愛を知的に理解し このブログ記事を通じて言語化し続けたものの、  
  その実践は 実に不器用で たどたどしく、  トライ & エラーの繰り返しであった。

  感じることができないばかりに、数知れぬほどの文章を書き連ねて 考え、
  愛を 絞りださなくてはならなかった。
  アドラー心理学の実践で自分が変わるには、   それまで生きてきた年月の半分を要する、
  と言われているワケが   やっと分かった。     これには  ちょっと 目が眩んでしまった。
  私の場合 それは、 愛するという認知的理解を 愛している感覚的共感に変えることであった

  愛が妨げられていなければ それをただ発露させればいいだけのことだが、
  愛が妨げられていたなら もう一度 自分の中から再発見しなくてはならないだろう。
  このニ冊のアドラー心理学の解説書は  愛を再発見するための指南書であるとも言える。


  観ている本質とは メタ認知している意識のことであり、これは  自由意思と呼べるものだろう。
  意識は 始めの自分のときから存在するが、
  それを 選択可能な自由意思と呼べるものにまで高めるには 経験と訓練が必要である。

  経験と訓練によって、右脳の意識と左脳の意識が 相互抑制でなく協調的に統合されたときに
  初めて、 人間の意識は  自由意思と呼べるような  次元の違うものにまで成長・発展し、
  右脳的な世界と左脳的な世界の異なる2つの世界が融合した神秘を味合えるようになる

  今まで本質と呼んでいたものは、実は この自由意思とまったく同じものである。

  アドラーは人間の自由意思を信じたが故に、  「目的論」 にこだわり続けたのだと思われる。
  直接世界を認知するのが左脳機能であるが、
  それを さらにメタ認知するものは、左右の大脳の機能がバランスよく統合され調和した 
  まったく新しい脳機能なのだと推定される。

  私には、 自由意思によって愛することを選択し 実践し続けることが、人生の意味と目的になった。




  はじめに


  青年は 大きな一歩を踏み出したのに、勇気をくじかれ  歩みを止め、いま引き返そうとしている。      それはなぜか

  青年はまだ 人生における最大の選択をしていないから

  人生における最大の選択とは のこと。   【最大の選択とは愛するという選択

  すべての問題は ひと言に集約される




第一部のまとめ:
横の関係は  尊敬信頼(受容)でつくられる

  教育とは人々と良い関係横の関係を築き、  (単に 生活の面だけでなく)
  生きていく上で  幸せに自立することを  (押しつけでなく)援助することである

  本来 すべての人間(生徒)が持っている  自ら成長したいという欲求の存在を信じて
  教師が 生徒を尊敬しながら関わる。
  この態度を示すことによって、  あるべき  人間の関係愛に基づく 横の関係
  実践の場で つまり教師と生徒の実際の対人関係を通して学んでもらう

  尊敬とは  ありのままを認め、  他者を変えようとしたり、  操作しようとはせず
他者の関心事」 に関心を寄せ
他者の目で見て他者の耳で聞き他者の心で感じ」 ようとする他者の立場に立つこと
  他者の主権(課題)に踏み込まず 尊重すること
  他者の興味関心に 共感を寄せながら、  【要素を評価して 優劣をつけることなく
  対等な存在として 接すること。            【つまりこれが  「受容し 愛する」 こと

  自分を変えるとは、 【意気込みとしてはそれまでの自分 自我 に見切りをつけ  否定し
  二度と顔を出さないよう  葬り去ること
  そこまでやって ようやくあたらしい自分 本質 として 生まれ変わることができる
でも自我を本当に完全に」 なくそう としてはいけないことを忘れてはならない

  問題は・・・ 「これからどうするか」 だけ。 そのために試行錯誤の実践を行うトライする


第二部のまとめ:
賞罰は  「縦の関係」 を生む承認欲求を 誘導強化し依存的な人間を生みだしてしまう

  個々の構成員の 主権自分で決める権利が重んじられない組織は 
  独裁制とならざるを得ず、秩序維持のために  賞罰アメムチを用いることになる。

  賞罰は 横の関係に基づく合意ではなく
  縦の関係における上位者が下位者を 操作支配するためのものであり、
  これを 学校教育に持ち込んでしまえば
  独裁を支える原理である  「縦の関係」     集団として成立してしまう

縦の関係」 のなか、 「横の関係」 を教えて  伝えることは、もはや不可能であり
縦の関係の場」 においては  「縦の関係」 が醸成され強化される

  この縦の関係を背景に 
賞賛の要求注目喚起権力争い」 などの  「問題行動」 が引き起こされ、   
  その結果、
  承認欲求と縦の関係基づくライフスタイル 広く普遍的に子供たちのなかに形成されてしまう
  この子どもたちは そのまま大人になるので  同じ原理に基づく病理が  
  社会全体に そうとは気づかない巧妙な形で 広範に存在することになる

  縦の関係の下では、  手間ひまのかかる合意形成のための言葉のやり取りは 追いやられ
  手っ取り早い「命令叱責怒り」 という 未熟なコミニュケーションが幅を利かすことになる
  さらに 縦関係の下では、自分の人生を自分で選びとることが 出来なくなってしまい
  依存的な人間が でき上がってしまう

  これらを防ぐために、  とは何かを知り、  愛する実践を みんなが心がける必要がある。


第三部のまとめ:
承認欲求を棄て普通の自分で(ただの人:one of them として)生きる

  賞罰が汎用される アメとムチで支配されている共同体には競争」 が生まれる。  すると
  競争相手は」 であり、   その共同体では    「世界は 油断ならない存在である」 という  
」 のライフスタイルが形成されてしまい、   が必要になり自己受容などできない

  人間は、 牙も翼も持たない 弱い存在なので
  その弱さゆえに 共同体をつくり、 「協力分業して生きていくしかなかった
  ゆえに、 他者との  強固なつながりを希求せざるを得ない生き物なのだ。

  それ故 共同体感覚はすべての人間に内在し   あとから 「身につける」 ものではなく、
  自らの内から掘り起こす」 ものである
  本来は 横の関係で掘り起こすべきなのに
  一歩間違えると 縦の関係である承認欲求を引き出してしまう

不確かである自然の摂理無常を無視し、  「完璧かつ永遠の所属感(安心感)を求め
  他者と比べて「特別」 な存在になりたいと     無理することが間違いの原因になる

  完全などあり得ず、 承認には終わりがない
  承認欲求を原理として生きている人は、     死ぬまで 賞賛(ドーパミン)を求め続け
  永遠に満たされない生を 送ることになる

  そうではなく  普通であることを受け入れ、「特別であろう とはしないで
わたしである」 ことに価値を置き自分で自分を承認自己受容しなくてはならない


第四部のまとめ:
信用仕事の関係 信頼交友の関係へと 発展させる

  信用とは、 条件つきで信じること。  その人でなくその人の持つ条件 要素 を信じている
  一方の 信頼は、 条件なしで信じること
  地位や能力などではなく その人(の本質)内在する価値に注目し
  対等な人間として 横の関係で尊敬している

  仕事は 縦の信用の関係であり、 交友は 横の信頼の関係である

  人類は、生存戦略として 大きな集団になり分業するという効率的なシステムを選択した
  分業に伴って複雑な社会構造が構築され、  人間同士の関係も大変繊細なものとなった。
  それゆえに、集団の秩序を維持するために仮の上下という 縦の関係が必要になった

  この関係が  仕事の(縦の)関係であり、   我々は 働かざる分業せざるを得ない
  分業するためには 他者を信じざるを得ない
  それが  信用の(縦の)関係であり、 職場では  そのため 自分を犠牲にする承認欲求が必要とされた

  すべての仕事は 誰かがしなければならないことであり
  人々は それを分担(機能として分業)しているだけのことである。    
  だとすれば、職業に貴賎はなく すべて 対等(横の関係)である。      したがって、
  人間の価値は、 仕事の内容doing ではなく、   それに取り組む態度being によって決まる

  それは  仕事に対する誠実さであり、  横の関係のチームへの貢献度である。
  どんな仲間であれ尊敬信頼し 仕事をする。  それが仕事の関係 交友の関係に変える。
  そして 交友の関係に発展した関係の在り方、 さらに 愛の関係へと進展するだろう。


第五部のまとめ:
人生の主語がわれわれ」 に変わる

  愛の関係とは、 なにを追求した結果  成立するのか?
わたしの幸せ」 でも あなたの幸せ」 でもなく
  不可分な 「わたしたちの幸せ」 を追求して  築き上げるものである。
わたしあなた」 よりも上位のものとして、  「わたしたち(の関係性)」 を掲げる
  人生のすべての選択について、その順序を貫く。

  人生の主語が 変わる
  ほんとう愛を知ったとき、 「わたし だった人生の主語はわたしたち」 に変わり
  全く新しい指針の下に生きることになる。
  幸福なる生を手に入れるために、 「わたし」  は消えてなくなるべきなのだ。

  愛とは、 愛されることではなく 愛することである
  われわれは、生存戦略として愛されるためのライフスタイル選択した
  しかし「愛するためには、この隠し持つ子ども時代の依存的なライフスタイルを直視し
  刷新しなければならない

  愛の関係は 楽しいことばかりではない。   責任は大きく、 辛いこと、 予期しえぬ苦難もある
  それでもなお、「愛する」 ことができるか
愛する」 ことは  たんに想うことでなく、  関心を持ち ケアし続けるという 実践なのである。

  われわれは他者を愛することによってのみ、  自己中心性(依存的存在)から解放され
  共同体感覚にたどり着く。 そして 愛を知り、  「わたしたち」 を主語に生きるようになれば
  行為 doing ではなく 存在 being によって、   なにかに貢献することができるようになる。
  生かされているという 命の奇跡を感じ、  感謝し、 世界と一体となることができる。

  愛とは 無条件に 受け入れる ことである
  善きものも悪しきものも全部ひっくるめてそのままありのまま  受け入れる
  そして そのままでいいんだよって 言ってあげることである



  最後に 愛の実践と奇跡私の人生の意味

  ブログを書きながら幸せについて考え続け
  そして「愛する」 ことの実践による 無限のパワーを 実際に体験することで
  この本の題名は、「幸せになる勇気」 よりも「愛する決意」 に変えた方がいいと思うようになった。
  振り返ってみて、「愛する決意とその実践」 すべてを変容させたことに気づいたからだ。

  愛とはなにかについて 描き尽くしたような気がしている今、
  、理解するものではなく 実践するものなのだと確信している。
  実践を伴わない理解は 絵に描いた餅と同じだからだ。

  哲人も アドラーを学びながら 「子育て を通して 大きな愛の存在を知ったという。
  知ったのちに 実践するのではなく、 実践を通してしか理解できないものなのだ。

「これが愛だ」 と思われる自分の心の在り方 「試して(実践して)みる
  その結果  「奇跡」 が起きたならそれが」 であったと確信し 納得できるだろう。
  奇跡の大きさは 関係ない。    小さな奇跡で 十分だ。

  愛はこれからも奇跡を起こし続けるだろう。  そのようにしてしか 愛を知ることできない
  愛は自分の全人生を賭して知るものであり  人生は 「愛し続ける実践の場 なのだ思う

  ちゃんと愛した・愛せていると実感できる 静かな至上の喜びこそが
  人間にとって 最大・真の幸せなのだろう  少なくとも  私にとってはそうなのである

  これが 生きているという真の感覚であり、 無心や無我呼ばれている感覚のことだろう
  これを忘れることなく人生の最後の日まで この感覚を感じ続けていたい希求している
  忘れるたびに なるべく早く思いだしたい
  たぶん いのちのエネルギーが枯渇し、 どうやっても愛せなくなったとき 死が訪れるのだろう。

  だから、「愛し続けるという決意が 人生の先を照らす灯明となり得るのだ。
  この決意を毎朝 その日の始まりに、 声に出さずに 頭の中で唱え続けることに決めた。
  これが後戻りしないための私の念仏であり祈りなのだ。

「最良の別れの日のために  (その最後の日まで)愛し続けることができますように メメントモリ


  こうしてすべては愛のひと言に集約された  これが 私が見出した私の人生の意味である

  他の人にとって それがどうなのか、 どう思うのか、 そんなことはどうでもいい。
  他者には他者の 意味があり、それでいい。  他者は他者の道を歩けばいい  だけのこと。
  それでも わたしたちは愛し合えるハズで、  それが 相互依存しながら自立している状態だろう。

  これが 課題の分離の本来の在り方であり、  そして これを忘れなければ謙虚でいられるだろう。
  これが 特定の宗教でない 私の信仰である
第五部:愛する人生を選べ

愛とは なにか?  愛するとは どんなことか
 
 
人間の愛

青年 アドラーが語ろうとする愛とは、 どんなものですか?
哲人 アドラーが語ろうとするのは、恋愛感情ではなく、 人間の愛です。
  人間にとっての愛は、 運命によって定められたものでもなければ、
  自然発生的なものでもない。つまり、 愛に  「落ちる」 のではないということです。
青年 じゃあ、どんなものだと?
哲人自然に落ちるものではなく 自らの意思の力で築き上げる掘り起こすものです
  そして、その愛は 無条件なのです。
「落ちる」 だけの愛なら 誰にでもできます。  
  それは 恋と呼ぶものであり、そんなものは 人生のタスクと呼ぶに値しません。
  のタスク意思の力によって 何もないところから築き上げるものだからこそ、
というより自分の最も深いところから 汲みあげるものだからこそ困難なのです。
青年 「落ちる愛」 は確実に存在するし、それこそが「ほんとうの愛」 でしょう!
哲人 あなたのいう「落ちる愛とは、 突然  なにかのモノが欲しくなるような、
  所有欲や征服欲と なんら変わりありません。
  実際に手に入れてしまうと、半年としないうちに飽きてしまう。
  それを獲得し  所有し  征服したかっただけです。 本質的にはそのような物欲と同じです。

  あなたは、 愛において  ふたりが結ばれるまでの「物語」 に注目している。
  一方 アドラーは、 ふたりが結ばれたあとの「関係」 に注目しています。
  激しい愛の末に結婚したとしても、それは愛のゴールではありません
  結婚は、 ふたりの愛が  ほんとうの意味でためされる スタート地点です

  もうひとつ  アドラーが 説き続けたのは、
  能動的な(意識的に愛する)愛の技術、    すなわち 他者を愛する技術でした。
能動的な愛とは、  意識的に 愛することを 決意し それを維持しようとすること
  たしかに、  他者から愛されることは難しい。
  けれども 「他者を愛するし続けること」  その何倍も難しい課題なのです。

相手の こういうところが ダメ条件を満たさないから愛せないという人がいる
  しかしダメと判断するときの その人の  「価値観 本当に正しいものだろうか

  愛するためにはまず この条件づけをする自分の左脳の価値観を相対化することによって
  他者の価値観も受け入れて共有すること。   自分の信じる価値観を絶対視するのでなく
  他の価値観の存在に気づき共有すること。   これで  「愛するための条件が不要になる

  愛することは 生得的な自明のことではなく
  価値観を相対化する技術マインドフルネスにより  自分のもっとも深い所から掘り起こすもの

青年 違うでしょ。むずかしいのは、愛されることですよ。
哲人 かつては わたしもそう思っていました。
  でも アドラーを知り、 子育てを通じて その思想を実践し、 大きな愛の存在を知った現在、
  まったく 正反対の意見を持っています。
青年 いいえ、愛するだけなら誰にだってできます。
愛するとは勝手に好意を寄せることでない
哲人 それでは いま、あなたは 誰かを愛していますか?
青年 ・・・いいえ。
哲人 なぜですか?  愛することは 簡単なのでしょう?
青年 それは、 愛すべき人と 出会っていないからです。  出会いがむずかしいのです。
哲人 愛は 技術の問題ではなく、 対象条件の問題である ということですね。
青年 当たり前です!

哲人 アドラーは、こう言っています。
「われわれは、一人や 多人数で成し遂げる  課題の教育を受けているのに、
  ふたりで成し遂げる課題については教育を受けていない」 と。
  なにもできなかった赤ん坊が成長するの、  「ひとりで成し遂げる課題」 です。
  それに対し 仕事は、 「仲間たちと成し遂げる課題」 です。   
  そして 、 「あなたとわたしの ふたりの関係性の中成し遂げる課題」 なのです。
  しかし われわれは、 それを成し遂げるための技術 マインドフルネスを学んでいないのです。
  人間にとって 愛とはなにか仕事の関係  また 交友の関係とは どこが違うのか
  そして われわれは  なぜ他者 を愛さなければならないのか。  一緒に考えましょう。


人生の主語が変わる

青年 いったい 「ふたり」 なにを成し遂げるのです?
哲人 幸福です。  幸福なる生を 成し遂げるのです。
  幸福になるためには 対人関係のなかに踏み出さなければならない
  人間の幸福は すべて対人関係の幸福だからです。
  われわれは みな、「誰かの役に立っている   思えたときにだけ  自らの価値を実感し
ここにいてもいいという 所属感を得て、  幸福を感じることができます
  誰かの役に立っているというのは、客観的な事実である必要はなく
  承認を必要としない 主観的な感覚である 貢献感(自分の課題としての感じ方 があればいい
  貢献感の中に 幸せと喜びを見出しましょう
  仕事の関係を介して、 そして 交友の関係を通じて、貢献感を見出しましょう。
  幸せは そこにあります。

  仕事の関係を成り立たせている分業の根底に流れていたのは、
わたしの幸せ」  つまり 利己心でした。
「わたしの幸せ」 を追求すると、結果として  「誰かの幸せ」 につながっていく。
Give & Take」 の関係です。    人間同士の関係は まずここから始まります
  一方 交友の関係を成立させるのは、 「あなたの幸せ」 です。
  相手に対して、担保や見返りを期待せず、  無条件の信頼を寄せていく。
Give & Give」 の関係です。 無条件とは、  期待しないことなのです
  つまり われわれは  「わたしの幸せ」 を追求することによって 分業の関係を築き
あなたの幸せ」 を追求することによって、  交友の関係を築いていく
  だとしたら、愛の関係とは なにを追求した結果  成立するのか
わたしの幸せでも  「あなたの幸せでもなく、  ふたりの関係性のなかで
  不可分な 「わたしたちの幸せ」 を築き上げること。  それが愛です
わたし あなた より上位のものとして  「わたしたち(の関係性)」 を掲げる
  人生のすべての選択について、  その順序を貫く
わたしたちのふたりが幸せでなければ  意味がない
ふたりで成し遂げる課題」 とはそういうことです。  人生の主語が変わるのです。

【 「わたしたちの幸せとは価値の中心を 
  個々のわたしからわたしたちという関係性そのものにシフトすることである
  全体に通じるわたしたちの幸せを追求するという まったく新しい次元に移行し
  たくさんのわたしたちの幸せ繋ぎ合わせることで 世界全体が幸せになっていく

  ここでいう 「ふたり」 の典型例は もちろん  配偶者や 同様の関係にある男女であるが
わたしたち ふたり」 とは  かならずしも  男女関係に限定されているものではない

  われわれは 生まれてからずっと、わたしの目で世界を眺めわたしの耳で音を聞き
  わたしの幸せを求めて 人生を歩みます。   すべての人がそうです。
  しかし  ほんとうの愛を知ったとき、    
わたし だった人生の主語はわたしたち に変わります
わたしたち になるためにふたりの目で世界を眺めふたりの耳で音を聞くという】
  全く新しい指針の下で生きることになるのです
青年 それでは、  「わたし」 が消えてなくなるのですか?
哲人 まさに、その通りです。
  幸福なる生を手に入れるために、「わたしは消えてなくなるべきなのです。

人生の主語をわたしたちにするために
わたし の価値観より 「わたしたち の関係性を上位におくためには
わたしの価値観の一部を変化させて
わたしたちの価値観としてすり合わせた 新しい価値観にする必要がある
  これはわたしがなくなることでもあり
わたしたちになるためには 自分が変わらなくてはならないことを意味している


愛することは 自分からの解放

  では、なぜ 愛は幸福につながるのか? 
  それは、  愛がわたし」 からの解放だからです。
自分の価値観を超えるもしくは 価値観を相対化することが 自分からの解放

  この世に生を受けた当初、 われわれは「世界の中心」 に君臨しています
  周囲の誰もが「わたし」 を気にかけ、 世話をしてくれます。
  己の 「弱さ」 によって、 大人たちを支配しているのです。
  弱さとは、 対人関係において恐ろしく強力な武器になります。
  弱さによって他者支配しようとする生き方を選ぶのは、 子どもだけに限りません
  そのライフスタイルを持ち越す 多くの大人たちがいます
  彼らもまた、 自分の弱さや不幸・傷・不遇なる環境、 そして トラウマを 「武器」 として、
  他者をコントロールしようと目論みます。
  心配させ、 言動を束縛し、 支配しようとするのです
  そんな 依存したままの大人たちを アドラーは甘やかされた子ども」 と断じ
  そのライフスタイル(世界観・生きる態度や在り方)を 厳しく批判しました

  人間の場合、 身体的劣等性を持った新生児は自活することができない。
  したがって、生きるためには 「世界の中心」 に君臨し 依存せざるを得ないのです。
  ですから すべての人間は、  過剰なほどの 「自己中心性弱さ】」 から出発します
  そうでなくては 生きていけないからです。
その過程で価値観を身につけ、  それを 絶対視しそれを ライフスタイルとした
  しかしながら、いつまでも世界の中心に君臨すること 依存すること はできない
  世界と和解し、自分は世界の一部 なのだと了解しなければならない
  ・・・であれば、   「自立」 の意味が 見えてくるでしょう。
青年 自立の 意味?
哲人 なぜ 教育の目標は自立なのか。
  どうして アドラー心理学は、教育を最重要課題のひとつとして考えるのか。
  自立という言葉には、 どんな意味が込められているのか。
  自立とは自己中心性依存からの脱却」【self interest からの解放】なのです。
  だからこそアドラーは 共同体感覚のことを  social interest と呼び
  社会への関心他者への関心  と呼んだのです。
  われわれは
  頑迷なる自己中心性から抜け出し、「世界の中心」 であることを 辞めなければならない
わたし」 から 脱却しなければならない
  甘やかされた 子ども時代のライフスタイルから、脱却しなければならないのです。
青年 自己中心性依存から脱却できたとき、  ようやく われわれは自立を果たす、 と?
哲人 その通りです。そのときにこそ、人間は変わることができます
  そのライフスタイルを、世界観や人生観を変えることができます。

自己中心性からの脱却とは自分の価値観に執着しなくなることであり、
  それは価値観を絶対視しなくとも 生きていけるようになることでもある

  そして 愛は、 「わたし」 だった人生の主語を  「わたしたち」 に変えます。
  われわれは 愛によってわたし」 から解放され自立を果たし
  ほんとうの意味で世界を受け入れるのです。
青年 世界を受け入れる?
同時に 自分を受け入れ、  安心して生きていけるようになる
哲人 ええ。愛を知り、人生の主語がわたしたち」 に変わるのです。

人生の主語が わたしたちに変わる とは、  「わたしたちの価値観を 共有すること
  それによってわたしの価値観を拡張し 限りなく拡大して 相対化することができる
  そして、「全体としてのわたしという感覚がどんなものなのか 理解できるようになる
  それは、 価値観 正義 は  虚構であり 機能に過ぎなかった ことを理解することでもある

  これは 人生の新たなスタートです。  たったふたりから始まった わたしたち、  
  やがて 共同体全体に そして 人類全体に、  その範囲を広げていくでしょう。
青年 それが・・・
哲人「真の」 共同体感覚です。
青年 自立共同体感覚すべてが つながってくる
 

親子の関係で起こること

哲人 愛と自立の関係を考えるとき、  避けて通ることのできない課題が、親子関係です。
  生まれて間もない子どもたちは、自分の力で生きていくことができない。
(母)親という他者の、 絶え間ない献身が  あってようやく命をつないでいく。
「わたし」の命は  親に握られていて、 親に見捨てられたら 死んでしまうわけです。
  したがって、親に 依存しながら生きていくしかありません
  子どもたちは、 それを理解するに十分な知性を持っています。
  そして あるとき、彼らは気づくでしょう。
わたし」  親から愛されてこそすなわち 他者社会から承認されてこそ
   生きていくことができるのだと。 
  そして  ちょうどこの時期子どもたちは  自らのライフスタイルを選択します
  自分の生きるこの世界は どのような場所であり、そこには どのような人々が暮らし、
  自分は どのような人間なのか。  そこで、どのような関係を築けばいいのか。
  こういった「人生の態度ライフスタイル)を自らの意思で選択するわけです。
  われわれが   
  自らのライフスタイルを選択するとき
  その目標は 「いかにすれば 愛されるか」 にならざるを得ないのです。 
  われわれは みな、
  命に直結した生存戦略として 愛されるためのライフスタイルを 選択するのです

  子どもは、非常に優れた観察者です。
  自らの置かれた環境を考え、 両親の性格・性向を見極め、 
  兄弟がいれば その位置関係を測り それぞれの性格を考慮し、 
  どんな 「わたし」 であれば 愛されるのかを  考えた無意識に感じた】上で、
  自らのライフスタイルを 選択します。        たとえば ここから、
  親の言いつけに従順な   いい子」 のライフスタイルを選ぶ子どももいるでしょう。 逆に、
  事あるごとに反発し  拒絶し  反抗する    わるい子」 のライフスタイルを選ぶ子どももいるでしょう。
青年 なぜです? 
「わるい子」 になってしまったら、愛されるどころではなくなってしまうじゃありませんか。
哲人 泣き、 怒り、 叫んで反抗する子どもたちは、 感情をコントロールできないのではありません。
  むしろ 十分すぎるほど感情をコントロールした結果それらの行動をとっているのです
  そこまでしなければ 親の愛と注目を得られない、   ひいては自分の命が危うくなる
  と 直感でわかっているのです
青年 それも 生存戦略だと?
哲人 その通りです。
愛されるためのライフスタイル(承認欲求的生き方)」 とは 
  いかにすれば 他者からの注目を集め、 いかにすれば 世界の中心に立てるかを模索する
  どこまでも 自己中心的で  かつ 依存的な  ライフスタイル(生存戦略)なのです


真の自立のために 誰かを愛する

青年 つまり わたしの生徒たちが  さまざまな問題行動に出るのも、
  その 自己中心性(と依存性)に基づいている。
  彼らの問題行動は、「愛されるためのライフスタイル」から生まれていると、
  そういうことですね?
哲人 それだけ ではありません。おそらく、
  今 あなたが採用しているライフスタイルも、  子ども時代の生存戦略に根ざした
「いかにすれば愛されるか」が 基準になっているでしょう。
  あなたはまだ誰のことも愛していない

  真の自立とは、経済上の問題でも 就労上の問題でもありません。
  人生への態度、ライフスタイルの問題です。
  この先あなたも、誰かのことを愛する決心が固まるときが来るでしょう。
  それは、子ども時代のライフスタイルとの  決別を果たし、真の自立を果たすときです。
  われわれは、他者を愛することによって、  依存から脱し ようやく大人になるのですから。
  あなたは 承認欲求に搦からめとられている
  どうすれば  他者から愛されるのか
  どうすれば  他者から認められるのかばかり考えて生きている

  自分で選んだはずの教育者という道さえ、  
  もしかすると「他者から認められること」  を目的とした、
「他者の望むわたし」 の人生かもしれないのです。
  われわれは、親から愛されることを希求せざるをえない時代に、
  自らのライフスタイルを選択している。
  しかも、その「愛されるライフスタイル」  を強化しながら年齢を重ね、  大人になっていく
  与えられる愛の支配から抜け出すには、      自らの愛を持つ以外にありません。  
  愛することです。
  愛されるのを待つのではなく、運命を待つのでもなく自らの意思で 誰かを愛すること。
  それしかない のです。

青年 いつもは  「勇気」 を口にするあなたが、
  今度は すべてを  「愛」 で片づけようというわけですか。
哲人 あなたはまだ 愛を知らない。愛を恐れ、  愛をためらっている。
  それゆえ子ども時代のライフスタイルにとどまっている
  愛に飛び込む勇気が 足りていないのです。

本当の愛を 知るためには、  本当の自分を知らなくてはならない
  本当の自分を知ることは とてつもない恐怖だがその恐怖に打ち勝つことで  愛を知る
  そのために必要なものが マインドフルネス勇気


無条件の愛

哲人 たとえば、相手の好意をなんとなく察知した瞬間、
  その人のことが 気になり、 やがて 好きになっていく。
  こういうことが よくありますね?
青年 ええ、ほとんどの恋愛はそうでしょう。
哲人 これは、 たとえ自分の勘違いだったとしても   なんとなく
愛される保証という条件】」確保できた状態です。
「あの人はきっと 自分のことが好きなのだ」   「自分の好意を拒絶したりはしないはずだ」
  という 担保のようなものを感じている。
  そして われわれは、 この担保を頼りにして より深く愛していくことができるわけです。
エゴは 完全な安心を求めていて心配性だ
  ほんとうに愛することは、そのような担保をいっさい設けません。
  相手が自分のことをどう思っているかなど 関係なし【無条件】に、ただ 愛するのです。
  どうして人は愛に担保を求めるのか。    おわかりになりますか?

どうして人は愛に条件を求めるのか。  
愛されるためには、 「条件が必要だと  「思い込んでいたので、 
 「愛するときも、 条件として愛される」  という結果を求めているからだろう

青年 傷つきたくない、  惨めな思いをしたくない。そういうことでしょう。
哲人 違います。
  そうではなく、 「傷つくに違いない」 と思い、  「惨めな思いをするに違いない」 、 
  半ば 確信しているのです。
それだけではなく、  「愛に条件が要らない」  なんて 想像もつかないからであろう

  あなたはまだ、 自分のことを愛せて受け入れていない
  自分のことを  尊敬できていないし、 信頼できていない
  だから愛の関係において傷つくに違いない」 と決めつけてしまう
  わたしは、なんら優れたところのない人間である。
  だから、誰とも愛の関係を築くことができない。  担保のない愛には踏み出せない。
  ・・・これは 典型的な劣等コンプレックスの発想です。
  自らの劣等感を、 課題を解決しようとしない言い訳に使っているのですから。
たとえ 何ら優れた能力のない人間であろうとも、  愛すること 態度 には 何の支障もない

  課題を分離するのです。  
  愛することは  あなたの課題です。しかし、  相手が あなたの愛にどう答えるか。
  これは他者の課題であって、 あなたにコントロールできるものではありません。
  あなたにできることは、 課題を分離し自分から先に愛すること、それだけです。
青年 じゃあ、どうすれば  私の劣等感は払拭されるのか?    結論は ひとつです。
「こんなわたし」 を受け入れ、愛してくれる人と出会うことですよ! 
  そうでなければ 自分を愛することなどできません!
哲人 また、「出会い」 ですね。つまり あなたの立場は、
「あなたが愛してくれる【という条件つき】なら、 あなたのことを愛する」 なのですね? 
  結局 あなたは、「この人は私を愛してくれるのか?」 しか 見ていないわけです。
  相手のことを見ているようで、  自分のことしか見ていない
  そんな態度で待ち構えているあなたを、 誰が愛してくれるでしょうか?
  あなたは(勇気を持って)自分が隠し持つ 子ども時代のライフスタイルを直視し
(それがどんなに辛くとも)刷新しなければならないのです。
  愛してくれる 誰かが現れるのを待っていてはいけません。

青年 ああ、完全に 堂々巡りだ!
  わたしだって、 愛したいと思っているのですよ!    出会いがないだけです。
哲人 真実の愛は運命的な出会いからはじまると? 
  それでは、 どのような人のことを運命の人と呼ぶのですか?
  アドラーは、恋愛にしろ 人生一般にしろ、  運命の人を認めません。
 「運命の人」 という言い方は、 すべての候補者を排除するためだ、と断じます。
  人は どうして、  恋愛に「運命」 などというロマンティックな幻想を抱くのか?
「出会いがない」 と嘆く人も、じつは毎日のように 誰かと出会っています。
  しかし そのささやかな 「出会い」 を、なにかしらの関係に発展させるには
  一定の勇気が必要です。 声をかけたり 手紙を送ったり、とかね。
  では そこで、「関係」 に踏み出す勇気をくじかれた人は、一体どうするのか?
「運命の人」 という幻想にすがりつきます。
  あれこれ 理由を並べて「この人ではない」 と退け、
「もっと完璧な、もっと運命的な相手がいるはずだ」 と 他を探す。
  そうやって  全ての候補者を排除していく。
  そうやって、可能性のなかに 生きている。
  幸せ、 向こうから訪れるものだと思っている
「運命の人に出会いさえすれば、  すべてが上手くいくはずだ」と。
青年 じゃあ、「対象」は誰でもいいんですか?
哲人 究極的には、そうです。  われわれは、  いかなる人をも愛することができるのです。

自分の価値観を相対化して他者の価値観を受け入れることができれば
  他者の目で見て 他者の耳で聞くことができれば、  どんな他者をも 愛することができる

  もちろん 誰かとの出会いに 「運命」 を感じ、 その直感に従って結婚を決意した人は多いでしょう。
  しかし それは、予あらかじめ定められた運命だったのではなく、
「運命だと信じること」 を決意しただけなのです。
  アドラー心理学は あらゆる決定論を否定し、  運命論を退けます。
  われわれに運命の人 などいないのだし  その人が現れるのを 待っていてはいけない
  待っていたのでは何も変わらない

状況の変化を待つのでなく自分の方から先に変わらなくては 何も変わらない

  しかし、 パートナーと一緒に歩んできた長い年月を振り返ったとき、
  そこに  「運命的ななにか」 を感じることはあるでしょう。
  その場合の運命とは、予め定められていたものではなく、偶然にできたものでもない。
  ふたりの努力で 築き上げたものです。  運命とは、 自らの手でつくり上げるものなのです
  われわれは 運命の下僕になってはいけない。  運命の主人であらねばならない
運命の人」 を求めるのではなく、「運命」 といえるだけの関係を築きあげるのです
青年 でも、具体的にどうしろと?


人生のダンスを踊る

哲人 踊るのです。  ただひたすら  「いま」 をダンスするのです。
  愛と結婚は、まさしく ふたりで踊るダンスのようなものでしょう。
  どこへ行くのかなどと考えることなく、    互いの手取り合い今日という日幸せを
  いまという瞬間だけを直視して、 くるくると踊り続ける。   人生そのものを愛する
  あなたたちが 長いダンスを踊りきった軌跡のことを、人は  「運命」 と呼ぶでしょう。
  あなたはいま、 人生というダンスホールの壁際に立って ただ 踊る人たちを傍観している。
  やるべきことは ひとつでしょう。
  側にいる人の手を取り、今の自分にできる 精一杯のダンスを踊ってみる。
  運命は、そこから始まるのです。

青年 わたしだって、 ダンスを踊ろうとしたことはあります。
  でも 結婚にはつながりませんでした。
  幸せになりたいと願って 交際を始めたが、  うまくいかなかった。
哲人 あなたの願いは「幸せになりたいではなく
  もっと安直な「楽しくなりたい快感覚を感じたい】」 だったのではありませんか?
  愛の関係に待ち受けるのは、    楽しいことばかりではありません
  引き受けなければならない責任は大きく、  辛いこと 予期しえぬ苦難もあるでしょう
  それでもなお愛することができるか
  どんな困難に襲われようと この人を愛し、  共に歩むのだという 決意勇気を持っているか
  たとえば、 花が好きだと言いながら、  すぐに枯らしてしまう人がいます。
  水をやるのを忘れ、鉢の植え替えもせず、  日当たりのことも考えないで、
  ただ 見栄えのいいところに 鉢を置く。
  たしかに その人も、花を眺めることが好きなのは事実なのでしょう。  しかし、
  花を愛しているとは言えない。愛は もっと献身的な働きかけ実践】なのです。
  あなたの場合も同じです。あなたは 愛する者が背負うべき責任を回避し、
  恋愛の果実だけを むさぼろうとしていた、のではないですか?
愛するためには、「関心を持ってケアするという実践を 忘れてはいけない
愛すること は 単に心で想うことでなく、  行動をともなうことを 忘れてはいけない

青年 わかっていますよ。
  わたしは 彼女のことを愛していなかった。  彼女の好意を 都合よく 利用しただけです。
哲人 愛していなかった のではありません。
「愛する【受け入れる】」 ということを知らなかったのです。
  もしも知っていたなら、 あなたその女性と運命の関係築くことだってできたでしょう。
愛するとは 横の関係で尊敬すること  受け入れることそして ケアすること
  愛する勇気を持てず 子ども時代の愛される 依存的なライフスタイルにとどまろうとした
  それだけ なのです
  愛する勇気、すなわち それは  「受け入れる勇気」 であり、  「幸せになる勇気」 です。
  われわれは 他者を愛することによってのみ  自己中心性(依存的存在)から解放されます
  他者を愛することによってのみ 自立を成しえます
  そして他者を愛することによってのみ 共同体感覚にたどり着くのです
  愛を知り、「わたしたち」 を主語に生きる  ようになれば
行為」 ではなく その 「存在」 によって貢献することができますnot doing  but being
 

最良の別れのために 生きる

哲人 世界はシンプルであり人生もまた同じである。   しかし、 
  シンプルであり続けることは難しい。  そこでは、 なんでもない日々が試練となるのです。
  アドラーを 知り、  アドラーに 同意し、     アドラーを 受け入れるだけでは、   人生は変わりません
  しばしば人は、「最初の一歩」 が大切だ そこさえ乗り越えれば大丈夫だ と言います。
  しかし実際の人生 なんでもない日々という試練、「最初の一歩 を踏み出した から始まります
  本当に試されるのは 歩み続けることの勇気なのです
青年 わたしは 歩み続けたいと思いますが、    先生は これからどうされるのです?
哲人 また 同じように 語り続けるだけです。
  与えられた場で 自分ができること なすべきと思うことを、 淡々と  していくだけです
  すべての対人関係は、「別れ」 を前提に 成り立っています。
  われわれは、 別れるために出会うんです。
  だとすれば、 われわれにできることはひとつでしょう。
  すべての出会い すべての対人関係において  ただひたすら、
  最良の別れ向けた 不断の努力を続ける。    それだけです【メメント モリ
  わたしは、 あなたとの最良の別れのために、  ここまで話してきたのです。

  いつか別れる日がやってきたとき、「この人と出会いこの人と共に過ごした時間は
  間違いじゃなかったと納得できるよう、  不断の努力を傾けるのです
  生徒たちとの関係においても、 ご両親との関係においても、
  そして、 愛する人との関係においても。
  たとえば  突然ご両親との関係が終わってしまうとしたら、生徒さんたちとの関係、
  友人たちとの関係が終わってしまうとしたら
  あなたは それを「最良の別れ」 として 受け入れることができますか?
青年 い、いえ。 とても・・・
哲人 では、 そう思えるような関係を これから築いていくしかないでしょう。
「いまここを 真剣に生きる」 とは、 そういう意味です。
青年 まだ 間に合いますか? これから始めても?
哲人 間に合います。その未来をつくるのは  あなたです。  迷うことはありません。
  われわれは 未来が見えないからこそ 運命の主人になれるのです。


アドラーの説く愛は人間の愛 であって、  「男女の愛 ではない  
  しかしながら、「人間の愛 を理解する鍵が  男女の愛の中にあることも事実だろう

  なぜなら、「男女の愛は 二つに分たれた  女性性アニマと 男性性アニムスの  
  再結合であるとも言え、 「 を通して 「 その完璧性を 再び手にできるからだ
  そしてもちろん それが 男女の愛 に限ったことではないことは繰り返すまでもない
 
 
第五部のまとめ:
人生の主語がわれわれ」 に変わる

  愛の関係とは、 なにを追求した結果  成立するのか?
わたしの幸せ」 でも あなたの幸せ」 でもなく
  不可分なわたしたちの幸せを追求して  築き上げるものである。
わたしあなた」 よりも上位のものとして、  「わたしたち(の関係性)」 を掲げる
  人生のすべての選択について、その順序を貫く。

  人生の主語が 変わる
  ほんとう愛を知ったとき、 「わたし だった人生の主語はわたしたち」 に変わり
  全く新しい指針の下に生きることになる。
  幸福なる生を手に入れるために、 「わたし  は消えてなくなるべきなのだ。

  愛とは、 愛されることではなく 愛することである
  われわれは、生存戦略として愛されるためのライフスタイル選択した
  しかし「愛するためには、この隠し持つ子ども時代の依存的なライフスタイルを直視し
  刷新しなければならない

  愛の関係は 楽しいことばかりではない。   責任は大きく、 辛いこと、 予期しえぬ苦難もある
  それでもなお、「愛する」 ことができるか
愛することは  たんに想うことでなく、  関心を持ち ケアし続けるという 実践なのである。

  われわれは他者を愛することによってのみ、  自己中心性(依存的存在)から解放され
  共同体感覚にたどり着く。 そして 愛を知り、  「わたしたち」 を主語に生きるようになれば
  行為 doing ではなく 存在 being によって、   なにかに貢献することができるようになる。
  生かされているという 命の奇跡を感じ、  感謝し、 世界と一体となることができる。

  愛とは無条件に 受け入れる ことである
  善きものも悪しきものも全部ひっくるめてそのままありのまま  を受け入れる
  そして そのままでいいんだよって 言ってあげることである。



  最後に 愛の実践と奇跡:私の人生の意味

  ブログを書きながら 幸せについて考え続け
  そして「愛することの実践による 無限のパワーを実際に体験することで
  この本の題名は、「幸せになる勇気」 よりも「愛する決意」 に変えた方がいいと思うようになった
  振り返ってみて、「愛する決意 と その実践」 がすべてを変容させたことに気づいたからだ

  愛とはなにかについて 描き尽くしたような気がしている今、
  愛は、理解するものではなく 実践するものなのだと確信している。
  実践を伴わない理解は 絵に描いた餅と同じだからだ。

  哲人も、アドラーを学びながら 「子育てを通して 大きな愛の存在を知ったという。
  知ったのちに 実践するのではなく実践を通してしか理解できないものなのだ。

「これが愛だ」 と思われる 自分の心の在り方を試して(実践して)みる
  その結果  「奇跡が起きたならそれがであったと確信し、納得できるだろう。
  奇跡の大きさは 関係ない。    小さな奇跡で 十分だ。

  愛は これからも奇跡を起こし続けるだろう  そのようにしてしか 愛を知ることはできない
  愛は 自分の全人生を賭して知るものであり  人生は愛し続ける実践の場」 なのだと思う

  ちゃんと愛した・愛せていると実感できる 静かな・至上の喜びこそが、
  生きているという 真の感覚であり、 
  これを忘れることなく人生の最後の日まで この感覚を感じ続けていたい。

  だから、「愛し続けるという決意 人生の先を照らす灯明となり得るのだ。
  この決意を  毎朝  その日の始まりに、 声にださずに 頭の中で唱え続けることに決めた。
  これが 後戻りしないための私の念仏であり 祈りだ。「愛し続けることができますように


  こうして すべては愛のひと言に集約された。  これが 私が見出した 私の人生の意味である。

アドラー・岸見・古賀・やすみやすみ

第四部:与えよ さらば与えられん

 仕事の関係 → 交友の関係 [→の関係]  
 仕事は、条件つきで 縦の 信用の関係   →    交友は、条件なしの 横の 信頼の関係
 条件なしの 横の 交友関係が 共同体感覚へのスタート地点となり  →  の関係を導く
 条件なしで信じるということは   つまり、  ありのままを受け入れるということである
 

人生のタスクとは

哲人 アドラーは、  個人が社会で生きていくに当って直面せざるえない対人関係の課題
人生のタスク」 と呼んでいました。
  そして  その対人関係においては、
  何ができるのかdoingという 能力でなく、   気持ちのあり方beingである 態度に 注目せよと 言っています。
  それは なぜだと思いますか?

能力は持って生まれた 先天的な要因と 幼少期の環境に大きく依存し
  そして そのような本質的な能力は 自分では どうにもならないことが多いのに比べ
  態度は、 誰でもいつでも 自らの意思の力によって 選択できるものだからである

  態度とは 人間関係における基本的な他者への向きあい方であり、 横か縦かということ

青年「全ての悩みは 対人関係の悩みである」  からでしょう。
  赤ん坊のわれわれが目を開き、 他者(多くの場合 それは母親)の存在を確認した瞬間、
  そこに「社会」 が生まれる。 そして、その社会は どんどん複雑化していく。
  社会の誕生 すなわちそれは苦悩と幸福  の誕生です。
  他者が存在しなければ悩みも存在しない
  しかし、  他者から逃れることなど  絶対にできない
哲人 では、すべての悩みが対人関係であるのなら、
  その他者との関係を 断ち切ってしまえば  いいのか? 
  それは違います。  まったく違います。
  なぜなら、 人間の喜びもまた、 対人関係から生まれるからです。
だから断ち切るのでなく 課題を分離する

すべての悩みは対人関係の悩みである」  という言葉の背後には、
すべての喜びも また、  対人関係の喜びである」という幸福の定義が隠されています。
そして人間関係における基本的な態度横にすることによってのみ 喜びが生まれる

  だからこそ我々は人生のタスク 対人関係 に立ち向かわなければならないのです。
立ち向かい 横の関係を学ばねばならない
青年 それで どうしてそれが、
  わたしが 生徒たちと 交友の関係を築かなくてはならない理由になるのでしょうか?
それを教えるの教師の役割であり それによって教師もまた横の関係を学ぶべきだから


なぜ 交友が大事  信用と信頼の違いは

哲人 そもそも、交友とはなにか。 なぜ われわれには 交友のタスクが課せられるのか。
  それは、 交友において  われわれは
他者の目で見て、 他者の耳で聞き、 他者の心で感じる」 ことを学ぶ  からです。
他者の立場に立つこと共感力想像力
  交友の関係を通じて人間知」 を理解し、  共同体感覚を掘り起こすことが可能になる  からです。
  われわれは 交友というの関係において  他者への貢献を試されます

原則として  仕事の関係では 他者同僚や顧客の立場に立たなくてもいいのだが、
  もし 他者の気持ちを配慮して仕事することができるなら仕事が 交友の関係に変わり
  職場が交友心理的共同体になり得る

  交友(の横の関係に踏み出さない人は 共同体に居場所を見出すこともできないでしょう
  では、  いったい  どこで 交友を実践するのか? 
  子どもたちが最初に交友を学び、 共同体感覚を掘り起こしていく場所が 学校なのです。
  だから あなたがた教師が真っ先に子どもたちと交友関係を築かなくてはならないのです。

教師と生徒の現実の交友関係の実践を通して、  交友関係の正しい横の在り方を教える
  ただし 無条件の信頼を学ぶ最初の場としては 家庭の方が先であり
  親が子どもに対して 愛と呼ばれる無条件の信頼に基づく関わりをすべきである
 
哲人 ところで、 「信用と信頼の違い を覚えていますか?
青年  信用とは、 条件つき信じること
  その人を信じているのではなく、その人の持つ 条件(能力や資産)を信じている
  一方の信頼条件なし信じること
  能力【心の要素】や 持っているものでなく、  人間的な価値 = その人の存在そのもの 本質
最も深いところにある心そのものに注目している。(同じ)人間 本質 として 尊敬する
  これは、  「その人を信じる 自分の直観】」 を信じる ということでもあります。
  自分【の直観】の判断に 自信がなければ、担保のようなものを求めますからね。
  自己信頼自己受容あっての他者信頼他者受容】です。
哲人 では、  仕事交友の違いはなんでしょうか? それは信用信頼の違いです。 
  すなわち、
  仕事の関係とは 条件つき信用縦の関係Give & Take】であり、
  交友の関係とは 条件なし信頼横の関係Give & Give】なのです。


分業(仕事)とはなにか

青年 では アドラーは仕事のことを どう評価していたのですか?
哲人 仕事とは 生き抜くための糧を得る手段であり、生存に直結した課題である と考えていました
青年 要は 食うために働く というわけですね。
哲人 ええ、自明の理といえるでしょう。

仕事の関係とは  生活のための関係であり
  共通の利益を実現するために組織の秩序が必要であり その関係はにならざる得ない
   対する交友の関係とは共同体感覚を掘り起こして 幸せを実感するための 横の関係

  その上で アドラーが注目したのは、仕事を成立させている対人関係のあり方でした。
  われわれ 人間は、  ただ 群れをつくったのではありません。
  同時に、 分業システムという画期的な働き方を手に入れたのです。
  分業とは人類が その身体的劣等性を補償するために獲得した
  互いの足りないところを  得意なところで 補い合う、  たぐい希なる 生存戦略なのです

人類は限りなく大きくなり得る群れを作り  そのなかで 効率的に分業することによって
  他の動物に対して 圧倒的な優位に立った
  統一された秩序のある集団は大きければ大きいほど 強大な力を発揮でき
  集団を秩序の下に強力に統一するためには、  「縦の関係 の原理が 必須要素となった

  その分業に伴って複雑な社会構造が構築されました
  したがって 仕事のタスクとは たんなる 労働のタスクではなく、
  他者とのつながりを前提とした   分業の相補的タスクだったのです。

分業は  単に 相補的で効率的な要素の)  役割分担に過ぎないものなので
  縦の上下関係は  秩序と効率のための機能であり、 それは 人間本質としての優劣ではない
  したがって 本来、   比較競争するような類たぐいのものではなかったハズである

青年 他者との相補的なつながりを前提としているからこそ 仕事は対人関係の課題なんですね。
仕事 = 分業 生産関係 = 対人関係
哲人  「分業 という言葉を介することで、    
  人間にとっての労働の意味、そして 社会の意味が、心理学的に明らかになったのです。
  われわれは働かざるをえないし、 分業せざるをえない。 
  他者との関係築かざるをえない。
  要するに 人間は一人では生きていけないのです。

そのため つまり社会と関わるために次の社会的自分 である 「自我 を生みだし、 
  それ故 必然的に自我には承認欲求という特性が付与されているのである

  生存のレベルで、 一人では生きていけない

生存のための集団を機能させるために 上下という縦の効率関係が不可欠であったので
機能の上下 関係を 「人間の本質の優劣 と誤認してしまい苦悩が生まれてしまった

  そして 他者と分業するためにはその人のことを信じなければならない
  疑っている相手とは協力することができないのですから。
青年 それが  「信用」 の関係ですね。

その信用を得る必要に駆られて生まれたのが承認欲求であり、 
  信用されるためには 集団の役に立つという条件が必要であった

哲人 ええ。人間には信じない などという選択肢はありえないのです。
  だから 仕事の場で信じることは、  まさに「生きていくための人生のタスク」 なのです。
  各自が 自分の得意分野を仕事にして、  自分の利益を追求する。
だから皆 得意分野で承認されようとする
  これが、分業を成立させている原理です。そこでは、誰も自分を犠牲にしていません。
しかし真の欲求を犠牲にして仕事の分野に適応した場合は、 自分を犠牲にしている
青年 分業社会においては(本来なら)利己の追求が  結果として 「利他につながる
  でもアドラーは 他者貢献を推奨しています。  これと 矛盾していませんか?
哲人 まったく 矛盾しません。
  まずは 仕事の関係に踏み出す。他者や社会と他者の立場に立つことなく利害で結ばれる。
  そうすれば、利己心を追求した その先に他者貢献」 があるのです。

まず 仕事信用の関係を構築し次いで 交友信頼の関係へ と発展させる
  まず条件つきの他者貢献を行い次いで  「無条件の他者貢献へ と発展させる

  発展させるためには 他者の立場に立つこと。  そのため  他者の気持ちを想像してみること

  まず   Give & Take の 仕事の関係に  おいてわたしの幸せを追求し
  次いでGive & Give」 の 交友の関係に  おいてあなたの幸せを考える
  それが 結果的には わたしの幸せ になる

  慈悲の瞑想においても最初に願うのは 自分の 幸せであった
  わたし 幸せなしに他者 幸せを願い 貢献することができないのは 当然だろう
  これは いわゆる利己的な態度ではない

青年 とはいえ 役割分担をしていけば、 そこに優劣が生まれますよね? 
  つまり 重要な仕事を受け持つ者と どうでもいい仕事を受け持つ者と。
  それは 対等の原則から外れませんか?

なにが重要でなにがどうでもいいのか その基準は なんなのか?  
  それは、  幻想 虚構意味を司る左脳機能が 勝手に創りだした概念ではないのか?】

哲人 いいえ、外れません。
  分業という観点に立って考えるなら、 職業に貴賎はないのです。
  国の宰相企業の経営者農夫工場労働者あるいは専業主婦に至るまで すべての仕事は
共同体の誰かが やらねばならないこと」 であり、 われわれは それを分担しているだけなのです。
  そして、  「人の価値は  共同体において割り当てられる分業の役割をどのようにbeing
縦か横か果たすかによって決められる」 のです【置かれた場所で咲けるかどうか

  つまり 人間の価値は、「どんな仕事に従事するか doing」 によって決まるのではなく
  その仕事にどのような態度(気持ち取り組むか beingによって決まるのです。
青年 その「仕事に取り組む態度」 とは? 
横の関係に基づく尊敬を持って取り組む

哲人 分業の関係においては、   
  個々人の【心の浅いところにある仕事の能力が重要視されます。
  これは、間違いありません。  しかし、
  分業している際の人物評価、 または【心の深いところにある関係のあり方については
  能力だけで判断されるのではありません。
  むしろ、 「この人と 一緒に働きたいか?」  が大切になってきます
  それを決めるのは、 その人の仕事に取り組む 誠実な態度と 同僚との横の関係なのです。
  われわれの共同体には ありとあらゆる仕事がそこに揃い、
  それぞれの仕事に従事する人がいることが  大切なのです。
  その多様性個性こそが 豊かさなのです
  もしも 価値のない仕事であれば、誰からも必要とされず、やがて 淘汰されます。

以上考察から分かるように 人生のタスクの入り口 仕事には 機能上の縦の関係が存在し
  そこには その機能の縦を 本質の縦と勘違いしてしまうというが仕掛けられている
  したがって縦の仕事の関係から 横の交友の関係に進むことは けっこう難しい課題なのである
 

自立に向けた援助とは尊敬し 信頼すること

生活の自立と 関係性の自立という 2つの自立がある。 その どちらも大切であるが、 
  関係性の自立のためには信頼が不可欠であり、 この場合の信頼とは と同義語

哲人 教育の目標は、生活の自立だけでなく 関係性の自立でもあり、  
  教育者のなすべき仕事とは、  これら 二つの自立に向けた援助である
  では、どうやって 子供たちの 関係性の自立を援助するのか?    尊敬から始めるのです。
  尊敬とは 「ありのままの その人を見る (受け入れる:愛する)こと」 であり、
「その人が その人であることbeingに  価値を置くこと」 です。
  これは、信頼しているからこそ 可能となります。尊敬と信頼(と愛)は同義語なのです。
尊敬と信頼の土台  「横の関係」 でありこれらは愛することと同義語である

青年 あなたは、すべての生徒たちを尊敬し すべての生徒たち無条件に信頼せよと言う。
  そんなこと、本当に 可能だと思っているのですか
哲人 もちろん 可能です。
尊敬と信頼の意味を正しく理解し、 「全体 を観ることができれば可能になるハズだ
  たとえば、 周囲の あらゆる人について  「あの人の ここが嫌いだ」
  「この人の こういうところが我慢ならない」  と非難する人がいます。
自分の視点だけから 他者の悪いところのみに注目している
  つまりその人の 全体が見えていない
  そして 嘆くわけです。「ああ、 私は 不幸だ。  私は 出会いに恵まれていない」と。
  このような人たちは、ほんとうに 出会いに  恵まれていないのでしょうか? 
  違います。 断固として、違います。
このように 批判ばかりしている人は悪いところしか見ていないので  一面的である
  目的論的には 仲間に恵まれないのではなく、 ただ 仲間をつくろうとしていないだけ
  結局のところ 対人関係に踏み出そうとする勇気がないだけなのです。
だから 全体を見ようとせず踏み出そうとしない理由を こじつけているだけなのに
  自分では そのことに 全く気づいていない

青年 ・・・じゃあ、 誰とでも仲間になれると?
哲人 なれます。
  どんな相手であっても 尊敬を寄せ信じる愛することはできます。  それは、
  あなたの 決心ひとつあなたしかいない、  のだからによるもの なのですから。
  他者を信じる【信頼する】ことは、 なにかを鵜呑みにする 受動的な行為ではありません。
  ほんとうの信頼とは、どこまでも能動的な働きかけ愛すること】です。
「私を信じてくれ」 と強要することはできません。
  信じるかどうかは、その人の自由【他者の課題】です。
  わたしに できるの自分の課題、  ただ自分が語りかける相手を 信じること、  それだけです。

このように  他者を尊敬し 信頼できれば仕事の関係に仕掛けられた罠から逃げれる


自分を信じられれば他者も信じられる   【自分を愛せれば他者も愛せる

哲人 わたしは、  「わたし」 を信じてほしいと思っている。  ゆえに わたしは、
  先に あなたのことを信じるのです。 たとえ  あなたが信じようとしなくても
  われわれは 自分のことを信じてくれる人」  の言葉しか信じようとしません
「意見の正しさ」 で相手を判断したりはしません。
  唯一の正しい意見など 存在しないからです。
  その中で われわれは、一致点を見出すこと合意共通の価値の発見を求めている
  他者との 「つながり」 を求めている。  
  手つなぎたい願っている【「わたし」 からわたしたち」 に変わりたい と願っている
  手をつなぎたいのならば 自分から手を差し出すしかないでしょう。
  あなた わたしを 信じようと 信じまいと、   わたしは あなたを 信じる。    信じ続ける
  それが  「無条件」 の意味です

  自分を 信じることができなければ他者を 信じることもできない
  あなたが  しきりに  「他者のことなど  信じられない」と訴えているのは、
  あなたが  自分のことを  信じきれていないからです。
  自己中心的な人は  自分のことが好きだから 自分ばかり見ているのではありません。
  実相は まったく逆で、ありのままの自分を受け入れる愛することができず
  絶え間ない不安にさらされているからこそ、  自分にしか関心が向かないのです。

青年 だからこそ、 わたしは仕事を通じて所属感を獲得しようとしています! 
  仕事で成果を収めることによって、自らの価値を実感しようとしています! 
  それが、社会から求められることではないのですか?
哲人 違います
  仕事によって認められるのはあなたの  「機能:要素」 であって、「あなた:本質」 ではない
  より優れた機能の持ち主が現れれば、周囲は そちらになびいていきます。
  それが 市場原理競争原理というものです。
  結果、 あなたいつまでも競争の渦から抜け出すことができず、
  ほんとう意味での所属感を得ることはないでしょう。
罠と表現したのは このようなことである

青年 では どうすれば、ほんとうの所属感を得られるのですか?
哲人(マインドフルネスの技術を習得して)他者に信頼を寄せ 交友の関係踏み出すこと。
  それしか ありません。われわれは、 仕事に身を捧げるだけでは 幸福を得られないのです。
仕事という場を介してそれを 交友の関係に発展させることでのみ幸福を得られる

  わかりあえない存在としての他者を信じること。 それが 信頼です
  われわれ人間は わかりあえない存在だからこそ信じるしかないのです。

究極において  われわれは、  「わたしを そして他者も含めた すべての人間を
  左脳が納得できるように 「分かりあうことはできないので、「信頼する しかない
  この文脈では、「分かりあうことは左脳の機能で「信じることは右脳の機能であるが
  右脳的に信頼することと 左脳的に信じ込むことは違うことに留意しておいてもらいたい
  わたしが わたしと分かりあえないとは、  自分のことも理解はできないという意味
 

アドラーは 人間の自由意思を信じた

哲人 アドラーが 共同体感覚の概念を唱えるようになったいきさつを、 お話ししましょう。
  アドラーは、第一次世界大戦を軍医として経験しました。そして、その悲惨な経験から
いかにすれば 戦争を食い止められるか」 を強く考えるようになります。
  人間は戦争を、殺人や暴力を希求する存在なのか?      そんなはずはない。
  人間が誰しも持っているはずの 他者を仲間だとみなす意識、   つまり
  共同体感覚を育てていけば 争いなくすることができるハズだ。
  そしてわれわれには それを成し遂げるだけの力があるハズだ。
・・・アドラーは人間を信じたのです。

アドラーは なんらかの方法で自分の劣等感を克服し自分を信じれるようになって
  人間を信じる 信頼する ことが可能になった
  我々は マインドフルネスによって アドラーと同じように 人間を信頼することができる

  左脳は 条件によって他者を信用しようとするが右脳は 根拠なく直観で人を信頼する


目の前の 小さなことから 始める

哲人 マザー・テレサは
「世界平和のために、  われわれは 何をなすべきですか?」 と問われ、  こう答えました。
「家に帰って家族大切にしてあげて下さい」
  アドラーの共同体感覚も、同じです。
  世界平和のために何かをするのではなく、  まずは 目の前の人に 信頼を寄せる
  目の前の人と 仲間になる
  そうした 日々の小さな信頼の積み重ねが、  いつか 国家間の争いさえもなくしていくのです。

青年 目の前のことだけを 考えていればいいのですか?
全体を考えつつ 目の前のことを実践する
哲人 いいも悪いも(実践は)そこから始めるしかないのです
  世界から争いをなくしたければ、 まずは自分自身が 争いから解放されなければならない。
  生徒たちに 自分を信じて貰いたいのならば、
  まずは自分が 生徒たちを信じなければならない。
  全体の一部である自分が 全体の一部である生徒たちに向かって 最初の一歩を踏み出すのです
青年 わたしの一歩で 世界は変わりますか?
哲人(結果は)変わるかもしれないし 変わらないかもしれない。 
  ですが、 そんなことdoingの結果はどうでもいいのです。
大事なのは beingという過程なのだから

  人間にとっての試練 そして決断は、
  受験や就職・結婚といった シンボリックなライフイベントのときにだけ訪れる  のではありません。
  われわれにとっては、なんでもない日々という being が試練であり
いまここという being 】」 の日常で     大きな決断を求められているのです。
  その試練を避けて通る人に ほんとうの幸せは獲得できないでしょう
なんでもない日々を より良く過ごすための技術が マインドフルネスであるといえる


心の物乞いになってはいけないわたしの方から与える

青年 生徒たちや 世の中の ほとんどの人間は、
  私を軽蔑し、 私になんの価値も認めず、 その存在を無視している。
  もしも彼らが、私を尊重し 私の言葉に耳を傾けるのなら、私の態度も変わるでしょう。
  でも、現実は違います。
  そんな状況の中で できることがあるとすれば、ただひとつ。
  仕事を通じて 「わたしの価値」 を認めさせること、 それだけですよ。
哲人 つまり、 他者が先に わたしを尊重すべきであり、
  他者からの尊敬を得るために 自分は仕事で成果を出すのだと? それこそが承認欲求
青年 そのとおりです。

哲人 他者に 無条件の信頼を寄せる、  尊敬を寄せていくこと。これは「与える」 行為です。
  他者に なにかを与えることができるのは、  基本的に 裕福な立場にある人です。
  あなたは なにも与えようとせず、 「与えてもらうこと」 ばかりを求めている。
  さながら、 物乞いのように心が困窮しているからです。
  われわれは心を豊かに保ち その蓄えを他者に与えなければなりません
  他者からの 尊敬を待つのではなく、自らが 尊敬を、信頼を寄せなければなりません。
  心の貧しい人間になってはいけないのです。   与えよ、 さらば 与えられん。 
  与えるからこそ   (結果的に)与えられるのであり、それを目的としてはならない。
これが Give & Give という実践である
  与えてもらうことを待っていてはならない。  「心の物乞い になってはならない
  これは、 仕事交友に続く  もうひとつの対人関係を考える上でも 非常に重要な視点になります。
  それは「」 のタスクです。
 
 
第四部のまとめ:
仕事の関係 交友の関係へと 発展させる

  仕事は 縦の信用の関係であり、 交友は 横の信頼の関係である

  信用とは、 条件つきで信じること。  その人でなくその人の持つ条件 要素 を信じている
  一方の 信頼は、 条件なしで信じること
  地位や能力などではなく その人(の本質)内在する価値Beingに注目し
  対等な人間として 横の関係で尊敬している

  人類は、生存戦略として 大きな集団になり分業するという効率的なシステムを選択した
  分業に伴って複雑な社会構造が構築され、  人間同士の関係も大変繊細なものとなった。
  それゆえに、集団の秩序を維持するために仮の上下という 縦の関係が必要になった

  この関係が  仕事の(縦の)関係であり、   我々は 働かざる分業せざるを得ない
  分業するためには 他者を信じざるを得ない
  それが  信用の(縦の)関係であり、 職場では  そのため 自分を犠牲にする承認欲求が必要とされた

  すべての仕事は 誰かがしなければならないことであり
  人々は それを分担(機能として分業)しているだけのことである。    
  だとすれば、本来 職業に貴賎はなく すべて対等(横の関係)である。      したがって、
  人間の価値は、 仕事の内容doing ではなく、   それに取り組む態度being によって決まる

  それは  仕事に対する誠実さであり、         横の関係のチームへの貢献度である。
  どんな仲間であれ尊敬信頼し 仕事をする。   それが仕事の関係交友の関係に変える
  そして 交友の関係に発展した関係の在り方 さらに「愛の関係」 へと進展するだろう。


 この愛のタスクについては 「第5部」 を参照
 

アドラー・岸見・古賀・やすみやすみ

第三部:競争原理から協力原理へ

みんな普通  あなたも わたしも 普通で  同じ
深いところで 同じであれば、  浅いところの違いを乗り超えて  協力共感できるハズで
同じであれば 愛することが容易になる

そして  普通であることの勇気を持てて、   特別でなくても何の問題もないと分かれば
  それが 自己の受容肯定感を呼び起こし  この自己肯定感から 好循環がスタートする

  この自己肯定感を妨げているものが、       賞罰教育による 評価介入なのである
  評価によって人間が序列化され 比較競争が発生することで 他者を仲間と思えなくなり
  介入によって自立が阻害され 依存的な心性が発生して 何事も自分で決められなくなる

 
比較競争は 縦社会の場で再生産される

青年 アドラーは、褒めることも 否定する。
褒めることは  能力のある人が能力のない人に下す評価であり、 その目的は操作である」 と。  
  しかし 教育の現場では、  褒める勇気づけることによって どんどん積極的になり、 
  伸びていく生徒がいますよ。

褒めることと 勇気づけることは一見よく似ているそのときに基底にある意識は

  同じ言葉をかけたとしてもそれを どんな意識のもとで発言しているのか? 
  評価コントロールしようとして褒めているのか     それとも
  援助し勇気づけようとしているのか

  尊敬の気持ちが 褒め言葉になることだって  あるだろう
  操作しようとして褒める のが問題であり、  アドラーが否定する 「褒める」 とは そのことである

哲人 褒めたら喜び、伸びる子どもたちがいるのに、どうして 褒めてはいけないのか?
  褒められることを目的とする人々が集まるとその共同体には  「競争」 が生まれます
操作する以前の 評価自体が 問題である。  
  評価すればその評価軸に沿う形で 価値が生まれ その価値をめぐって 競争が起きる
  他者が褒められれば 悔しいし、自分が褒められれば 誇らしい。
  いかにして 褒められ褒められるか。
  こうして共同体は、 褒賞をめざした競争原理に支配されていきます
青年 なぜ競争がよくないのです
哲人 競争相手とは すなわち 「敵」 です
  ほどなく 子どもたちは、  「他者は すべて敵なのだ」 
「人々は わたしを陥れようと 機会を窺う、  油断ならない存在なのだ」 という
  ライフスタイルを身につけ、心理的な鎧を身にまとっていくことでしょう
  この鎧は共同体感覚の妨げになります

褒めたからといっていつもいつも 競争が生まれるワケではないし
 「競争という言葉を使っていても 互いを高めあうライバルはではないので
  アドラーの言葉の使い方は 偏っている

  そして その心理学も 多くの人々には非常に有効だが なかにはそうでない人もいるので
  かならずしも普遍的なものではない
  始めに アドラー心理学は  メガネの処方 であると言ったのはそういう意味である

  競争原理に染まった共同体は 病んだ共同体と言えます。
  この中の一人が 問題行動をくり返すとき、  個人の素質に焦点をあてるのではなく、
現代の資本主義原理における社会という
  共同体のあり方を考える必要があり全体のあり方に対する処方箋が必要です。
  そのためには賞罰をやめ、 競争の芽をひとつずつ摘んでいき、 学級・社会【共同体】から
現実的には無理でも 考え方理想として競争原理を なくしていくことです。

  あなたのクラスは、大丈夫ですか? 
  賞罰というアメとムチで、生徒を動機づけようとはしていませんか? 
  かりに 問題児がいるとして、それは その子の問題なのではなく
  クラス全体の問題 なのではありませんか?
  問題のある、 そんな会社【そして社会】も あるかも知れませんね。
青年 わたしが 問題にしているのは、 現実に生きる人間です。
  繊細で、 どこまでも不器用な、 柔肌の子どもたちです。
  彼らは 個別に、そして もっと健全な形で  承認欲求を満たしてあげる必要がある。
  すなわち、褒める必要がある承認欲求を満たすことで勇気づけるという意味だろう
  そうでなければ、「くじかれた勇気」 を取り戻せない 
たしかに そうだろう。しかし 哲人は それには答えずに以下のように続ける


人間には なぜ共同体が必要なのか?【なぜ  すべての悩みは 対人関係の悩みなのか?】

哲人 人間は、心の成長よりも 身体の発達の方が遅い。
  そのため、無力感を感じざるを得ない
  心は「~したい」 のに、 体からだは それに ついていくことができない。
  この「自らの不完全さを経験する子どもたちは、劣等感を抱かざるを得ないのです。
  だから、 すべての人間は 不完全な弱い存在 としてスタートするのです。
アドラー自身が 劣等感を克服しようとして成長してきたのでこういう言い方になる
  この不完全さ弱さが 努力と成長の促進剤となりこれが文明を進展させてきました
  文明とは、 人間の生物的な弱さを補償するための産物であり
  人類史とは 劣等性を克服する歩みなのです。
アドラー自身の 過去の劣等感の克服と、  人類の歩みを重ね合わせているようだ
青年 人間【アドラー】は弱かったからこそ、これだけの文明【理論】を築き上げた?
上記の心の成長とは左脳機能の発達のこと
  左脳は理想像を想定し それに向かって努力するというメカニズムで 文明化を駆動した

哲人 さらにいえば、
  人間は その弱さゆえに共同体をつくり、   協力関係のなかに生きています。   
  そう生きざるを得ないのです【人間は群れ社会を作る動物であり、 その規模は巨大だ
  狩猟採集時代のむかしから、  われわれは  集団で生活し、仲間と協力して 獲物を狩り
  子どもたちを育ててきました
  たんに 協力したかったからではありません。
  もっと切実に、【ネアンデルタール人や 他の大型の野生動物などと比べて単独では
もしくは 小さな群れでは生きていけないほどに弱く 狩られる対象ですらあったからです
  狩られないためには、 「共感 に基づいて   大きな群れになることが必須だったのです。

大きな集団をつくりその中で分業役割分担することで 社会全体の効率を高めた
  役割分担で担う役割に貴賎の区別はなく 横の関係なのにそれを上下と勘違いしたため
  本来の役割の範囲を超えて縦の関係が優位になってしまった

  したがって、 人間にとって孤立ほど恐ろしいものはないということになるでしょう。
  孤立した人間は身の安全が脅かされるにとどまらず心の安全までも脅かされてしまいます
  なぜなら、一人では生きていけないことを 本能的に熟知しているのですから。
  だから われわれはいつも他者との強固なつながり(共感)を希求し続けているのです

知の巨人とも称されるユヴァルハラリは  この繋がりを維持する道具として
  人類は 神話や宗教などという物語り虚構を生みだしたのだ と強く主張している
  個人的な経験の共有によって結ばれる 安定した関係の人間の数は平均150人ほど
  これは ダンバー数と呼ばれているが
  同じ神話や宗教を信じ価値観を共有することでこの数の制限を軽々と超えて
  見ず知らずの何億という人間が 協力分業できるようになった

  この虚構の創造と それを信じて協力関係を築くことに左脳機能が深く関わっている

  ゆえに、 すべての人に 共同体感覚が内在し
  それが 人間のアイデンティティと 深く結びついているのです。
  甲羅のない亀など 想像できないように、   あるいは  首の短いキリンなど 想像できないように、
  他者から切り離された人間など ありえないのです。
  共同体感覚は「見につける」 ものではなく、【DNAに深く刻み込まれたものなので
  己の内から「掘り起こす」 ものであり、       だからこそ 感覚として共有できるのです。
  共同体感覚は 人類の心身の弱さを反映したものであり、 人から切り離すことはできない。
そして その弱さを克服する過程において、  様々な間違いを犯す可能性罠が潜んでいたのである

  したがって  横の関係としての 共同体感覚掘り起こすべきなのに自他を取り違え
  それを 一歩間違えてしまうと縦の関係の承認欲求引き出してしまうのです

なぜ間違えるのか  その答は、 必要条件と十分条件を 取り違えてしまうからである

  集団socialを維持するには縦の関係である秩序優先され、
  横の関係である共同体意識補助的なものにとどまる。     
  そして 個人selfの幸福という視点では、  社会が存在していることが前提になるので
  秩序が保たれていることは 必要条件となり、   その上で共同体感覚が 幸福の十分条件になる

  このような構図のなかで、(必ずしも 達成感の追求が承認欲求と結びつく訳ではないが
  何かを達成して承認を得ることが  唯一の幸せ だと 勘違いしてしまえば、   つまり
褒められるという(縦の)承認  「幸せ」  の 必要条件に とどめておけず、 
  十分条件だと 勘違いしてしまえば
「(本当の 横関係の幸せ十分条件を  見つけることができないのは  当然だろう

ほんとうの幸せ 、「横の関係 で他者と関わることができているときの
  ただ  あるがままでいい ことの 納得感を伴った安心感であり、 それは  他者や自分に
  嘘をつかなくてもよい 気持ちよさでもあり
  追求するものでなく逆に 追いかけることで姿を隠してしまう 厄介なものである

  共同体感覚とは social interest であり、   承認欲求とは    self interest であった
  人間の社会で いつも問題になるのは、   self わたし  social おおやけの 対立であり
  その区分け課題の分離 ときにとても難しく、 マインドフルネスの力が必要になる

参考
  幸せを実感しているときに 脳内でホルモンのように作用する3つの神経伝達物質とは
  ドーパミンと セロトニンと オキシトシン。
  ドーパミンは達成感 セロトニンは安心感 オキシトニンは繋がり感と関係していて
      これらが 相互に影響を与えあっている


完璧や特別を求めず 普通に生きる

青年 しかし、その劣等感弱さと共同体感覚の生来的存在が、
  なぜ 承認欲求を認めないことにつながるのですか?  なぜ 間違えてしまうのですか?
哲人 ここで、「問題行動の5段階」 の目的を  思い出してください。
青年 自分のことを認めてほしい、そして特別な地位を得たい。そうですよね?
哲人 では、 「特別な地位を得る」 とはなにか。  なぜ それを求めるのか?
  人間の もっとも根源的な欲求  所属感繋がりに伴う 居場所があるという安心感です
ここにいてもいいんだ(このままでいいんだ)」【いまのままで 大丈夫だという実感です

  それを 「確実・永遠」 に感じ続けるため
つまり弱さからスタートしたので 強さの完璧性を追求し過ぎてしまったがために
  共同体のなかで「特別」 な存在であろうとします。「その他大勢」 にはなりたくない と。
  いつ いかなるときも自分だけは完全に 居場所が確保されていなければならない。
  所属感に、わずかな揺らぎの存在も 許したくない。
  所属感安心感の完全さ」 を求めすぎて、   横の関係であるべきものを
  縦の関係に 置き換えてしまったのです
不確かさ」【 = 無常ありのままの真実に耐えきれず
  本来の協力原理を 競争原理とはき違え、  承認欲求の道を 突き進んでしまったのです。
  しかし この世に 完全 など あり得ません。  承認には 終わりがないのです。
そして 年老いたときこの承認欲求を成立させることが 不可能になり、  道は途絶える
  したがって この路線の完璧はあり得ない
  ですから、この(縦・競争・承認の)路線を押し進んでも、 その先に 
  ほんとうの 「価値」 は実感できないのです。
青年 そうかも知れませんが…

根源的な欲求が セロトニンとオキシトシンによる 繋がり感を伴う安心感だとすると
  ドーパミンによる達成感承認された喜びも その感覚にある程度寄与しているだろう

  だから承認欲求そのものがダメ なのではなく、「過剰な承認欲求が問題なのである
  達成感を求めて過剰にドーパミン放出を追求すると 依存症の発症に繋がってしまう

哲人 褒められることでしか  幸せを実感できない人は人生の最後の瞬間まで
もっと褒められること」 を求めます
  その人は「依存」 の地位に置かれたまま、  永遠に(賞賛:ドーパミンを)求め続ける生を
  永遠に満たされることのない生を 送ることになるのです。
楽しい感覚ドーパミン由来なので 楽しさを幸福と認識している限り 幸福は続かない
青年 では、どうするのです?
哲人 他者からの承認を求めるのでなく、 自らの意思で 自らを承認するしかないのです。

【 「わたししかいない ので、 自己肯定する自分で 自分自身にOKと言うしかない
  自分自身で  心の底から納得するしかない
  ここが  スタート地点なのだが、   同時に   ぐるっと一回りした  ゴール地点でもある

わたし 価値を他者に決めてもらうこと   それは依存」 です。  一方 
わたし 価値を 自らが決定すること。      これを「自立」 と呼びます。
  幸福な生は、どちらですか

ドーパミン優位の幸福からセロトニンやオキシトシン優位の幸福に  シフトすること
  しかし中には 適正に達成感を追求しながら 人生を終えれる人もいるように見える

青年 われわれは 
  自分に自信【自己受容による自信ありのままでいいという安心感】が持てないから、
  他者の承認【による間接的な自信大丈夫という保証感を必要としているのですよ!
そうではなく  マインドフルネス(または 別の何か)によって 自分に自信が持てれば
  他者からの承認は不要になるだろう
哲人 それは、 「普通であることの勇気」 が  足りていないからでしょう。
  ありのまま【普通】で いいのです。 【普通でいいことは、 マインドフルネスで分かる
特別」 な存在にならずとも優れていなくともあなたの居場所は そこ普通にあります
  平凡なる自分を、「その他大勢ただの人としての自分を 受け入れましょう自己受容
人と違う(より優れている)こと」 に価値を置くのではなく
わたしである」 ことに 価値を置くのです。   それが 「ほんとうの個性」 というものです
「わたしであること」 を認めず、他者と自分を引き比べ、
  その「違い」 の優位性ばかり 際立たせようとするのは
  他者を欺き 自分に嘘をつく生き方に 他なりません
  あなたの個性とは 相対的なものではなく、  絶対的なものなのですから。
あなた存在そのものあなたしかいない
  何気ない日常の 普通であることのなかに、   計り知れぬ いのちの驚異を見いだせるか
 

不幸を抱えた人間による救済    【メサイヤコンプレックスの呪縛

青年 実は わたしは、心のどこかで 学校教育の限界を感じています。
  クラスのなかには、さまざま個性・ライフスタイルを持った子どもたちがいます。
  そのライフスタイルは家庭で身につけたものです
  そして いまなお、生徒たちは 一日の大半を家庭で過ごしています。    だとすれば、  
  人格形成まで含むような  「広義の教育」 は  家庭の責任である。
  教師の役割は、「狭義の教育」つまり 教科レベルでの教育でしかないと思えます。
  ですから子どもたちの問題行動も、それは家庭の問題です
そう考えている教師は 多そうであるが…】
哲人 それは 違います
  問題行動なり なんなり、 あらゆる言動には、  それが向けられる相手がいます
  子どもたちも また、親に見せる顔教師に見せる顔友だちに見せる顔、  すべて違うはずです。
  では あなたのクラスに問題行動をくり返す生徒がいたとして、
  その行動は 誰に対して向けられたものか? 
  それはあなた」 に対してですよね。
  その問題行動はあなたと生徒との関係のなかで生じた問題なのです。

  わたしは ひとりの友人として申し上げます。
  あなたは ずっと教育の話をされているが、ほんとうの悩みは そこではない
  あなたは まだ、  幸せになれていない。  「幸せになる勇気」 を持ちえていない
  そして、 あなたが教育者の道を選んだのは、  子どもたちを救いたかったからではない。
  子どもたち【他者】を救うことを通じて、自分が 救われたかったからです。
他者を救えるすごい人であると認められることで、 承認されたかった  からであろう

  他者を救うことによって 自らが救われようとする
  自らを  一種の救世主に仕立てることで、  自らの価値を実感【承認】しようとする。
  これは 劣等感を払拭できない人がしばしば陥る 優越コンプレックスの一形態であり、
メサイヤコンプレックス」 と  呼ばれています。

メサイヤコンプレックスも   他者貢献と紛らわしいので要注意である
  オウムの麻原彰晃や その高弟たちも
  このメサイヤコンプレックスを   抱えていた可能性が大きいと思われる

  不幸を抱えた人間による救済は 自己満足を脱することがなく、誰ひとりとして幸せにしません
  実際 あなた 子どもたちの救済に乗り出しながら、 いまだ 不幸のまっただ中にいる
  自分の価値を実感することだけを ただただ願っている
  だとすれば これ以上教育論をぶつけ合っても意味がない。
  まずはあなたが  自らの手で 幸せを獲得することです。
  これは もはや仕事や教育を超えた、 あなたの人生そのものを問うテーマなのです。

  あなたが いまだに幸せを実感できていない理由は簡単です。
  仕事交友愛の3つからなる    「人生のタスクを回避しているからです。
  あなたはいま、仕事として 生徒たちと向き合おうとしている。   
  しかし 生徒たちとの関係は 交友なのです
  ですから 生徒たちと ひとりの友人として、  尊敬の念を持って向き合うべきでしょう。
  そこのボタンを掛け違えたままでは、 教育がうまくいくはずなどありません。
他者を救うことはできないことで、  他者を愛すること愛を伝えることしか できない
 
 
第三部のまとめ:
承認欲求を棄て普通の自分で(ただの人:one of them として)生きる

  賞罰が汎用される アメとムチで支配されている共同体には競争」 が生まれる すると
  競争相手は」 であり  その共同体では    「世界は 油断ならない存在である」 という  
」 のライフスタイルが形成されてしまい、    が必要になり自己受容などできない

  人間は、 牙も翼も持たない 弱い存在なので
  その弱さゆえに 共同体をつくり 協力分業して生きていくしかなかった
  ゆえに、 他者との  強固なつながりを希求せざるを得ない生き物なのだ。

  それ故 共同体感覚はすべての人間に内在し   あとから 「身につける」 ものではなく、
  自らの内から掘り起こす」 ものである
  本来は 横の関係で掘り起こすべきなのに
  一歩間違えると 縦の関係である承認欲求を引き出してしまう

不確か」 である自然の摂理無常を無視し 完璧かつ永遠」 の所属感(安心感)を求め
  他者と比べて「特別」 な存在になりたいと     無理することが間違いの原因になる

  完全などあり得ず、 承認には終わりがない
  承認欲求を原理として生きている人は、     死ぬまで 賞賛(ドーパミン)を求め続け
  永遠に満たされない生を 送ることになる

  そうではなく  普通であることを受け入れ、「特別であろう とはしないで
わたしである」 ことに価値を置き自分で自分を承認自己受容しなくてはならない