今日も晴天。予報によると気温は27度まで上昇するということだったが、室温は相変わらず25度。もっとも、朝方はすこし肌寒い感じもしたのだが・・・。

 

午後から尾高指揮の都響の演奏会へ。ピアノの独奏者がケフェレックに代わり、曲目もモーツァルトの20番である。当初予定のバルトークに期待していた人はがっかりしたことだろう。それにしてもケフェレックといえば3月にもベートーヴェンの協奏曲を聴いたのだが、この人は日本に住んでいるのだろうか? それはともかく、品のあるピアノを聴けたことは喜ばしく、「ヘンデル、メヌエット」と紹介してアンコールとして弾いてくれた「クラヴサン組曲第2集」のメヌエットも心にしみる演奏だった(3月の時もこの曲がアンコールだった)。

 

メインの曲目はウォルトンの交響曲第1番。2017年にも新日本フィルで同じ指揮者で聴いている。その時の感想。

 

「4楽章構成で演奏に45分を要する大作なのだが、全体としては雑然とした感じである。最初の三つの楽章は、弦楽器と金管楽器がガンガンと鳴る第1楽章、ほの暗い情念をぶつけるような第2楽章スケルツォ、行き場のない鬱屈感の漂う第3楽章、といったところで、最後の第4楽章になると日の出の勢いで金管楽器とティンパニが鳴り響き、最後は銅鑼まで打ち鳴らされる。シベリウスの交響曲(特に第1番と第5番)の影響も感じられるが、その響きはシベリウスほどには洗練されてはいない。演奏する側もクタクタになりそうな作品であったが、アンコールにエルガーが演奏されて穏やかに結ばれた。」

 

今回も似たような感想をもった(それゆえの引用である)。当日配られた『月刊都響』2024-5、の解説によると、1~3楽章はドイツの貴族の未亡人との恋愛関係が破綻したことが反映し、それによってウォルトンはスランプに陥って書けなくなってしまったという。終楽章はその後イギリスの子爵夫人の寵愛を受けてようやく完成させたのだそうだ。つまりこの交響曲は感情の変化が露骨に表れた作品だったのだ。そして個人的には積極的に聴きたいとは思わない。なお今回はアンコール曲はなかったが、指揮者は楽章を追うごとに疲れの度合いが増していったような印象がある。

 

最後に蛇足。『月刊都響』2024-5の20頁に尾高が日本のオーケストラでウォルトンの交響曲第1番を演奏した記録が掲載されているのだが、私が聴いた2017年の新日本フィルがない。もしかすると日本フィルとの演奏と混同されているのかもしれない。