「なんで産んだの」と子に聞かれたら話す? | 子ども産んで後悔している

子ども産んで後悔している

産まなきゃよかった!現在4ヶ月(2024,1)後悔しなかった日はなし。真っ黒な本音を吐き出すブログ。

妊婦健診のとき

子育てもしている女医の産婦人科医と

話したことがあります。



さばさばしたよい先生でした。

ご自身いわく

子どもはそんなに好きじゃない方、との

ことでしたが、

産婦人科医を勤めつつ

複数のお子さんがいるようだったので

わたしとは相容れないでしょう。



しかしその話しぶりから

産婦人科医というのは

子どもが好きなだけでは

勤まらない心労もあるのだろうとも

感じました。



降ろしに来る人もいる。

当然、いろんな理由で

必要とされない命が宿るのでしょう。


産まれてきたからといって必ずしも

大切にされるわけじゃない。

それこそ手のひらを返すように。


いちばん目の当たりに

しているのは産婦人科の人たちでしょうね。


男女のいざこざも

それぞれの家庭の力関係も

よく見えるのかもしれません。



その女医さんの意見では…


子どもの自己肯定感をあげるために

母親は産みたかったことに

しておいたほうがいいと。



しかしわたしは思いました。


やたら注目される自己肯定感という言葉。



自己肯定感とは心理学用語ですが

ひとり歩きしすぎている気がする。



自己肯定感が高い子は自信がある。

ぐらいな浸透具合でしょう。



自己肯定感の高さ=自信のある状態と

されていますが…

じゃあその自信とは何か…というと。



根拠もない状態で

「何があろうともなんとかなるさ」と

自分を鼓舞できる心のありさまであり、

ひとりで立っていられる心の筋力のことです。



社会で実績を上げるチカラでもなければ

自分が優れていると思い込むことでもない。




「何があろうとも」というのが

重要で…



具体例をだすなら



どれだけ他人から否定されようとも


周りに一人も自分を

かばってくれる人がいなくても


誰からも愛されていない事実があったとしても


嫌われていると感じても

その全てを受け止めても…


「自分だから大丈夫」と思えることなのです。



愛してる、大切だよ、

優しい嘘は必要と言われるけれど

本当かなとわたしは疑います。


それを信じたがゆえに

かえって許せなくなることはないのか…と。



優しい嘘ををついていいのは

相手も「嘘」だとわかっているとき。

相手と対等以上のときに

相手が「嘘」を望んでいる…

その気持ちを察したときだけにつく

嘘は共感となり、やさしくなるのです。





もし、今の生活がこれからも続いて

わたしの近くに十分に会話のできる子どもが

いたとしたら…

まあ本人が聞きたがるなら

伝えてもいいような気もします。




わたしは確かに旦那を好きになったけれど

産みたくなかったし、

しょうがないから産んだに過ぎず、

産んだあとも喜びはなく

毎日世話をするのが億劫で

顔も見たくないと思う毎朝を迎えていたが

それでもここまで成長したという事実。



子どもの幼少期がしあわせだったのか

不幸だったのかを決めるのは

あくまで、本人であり

わたしではないでしょう。



またわたしのしあわせや不幸も

人に決められるものではなく

まして「こうあるべき」にあるような

レールやルールを敷かれるものでは

ないと思うからです。



自分以外はみんな他人。

夫婦であっても

親子だからとかいっさい関係ない。


心はひとりひとりに

用意された専用の部屋です。



そもそも「好き」という感情は

獲得するものではありません。

あるときははじめからそこに

存在しているのです。


人に好かれるというのは

努力をした先の成果ではありません。



「アイツを自分のものにしてやる!」

と叫びながら落ちて絶命するのが

映画の悪役の定めですが…


現実ではどこか

愛情は自らの働きかけによって

手に入れるものだと

やっきになる人が多いですね。


映画はフィクションですが

人の心に共通して響くテーマは

フィクションでは

ありません。



だから何を感じようと

何を感じたまま生きようと

自分を捻じ曲げて蓋をしなくても

ぴったりな居場所がこの世界のどこかに

あると知っているほうが

いらぬ争いや苦悩を体験しないことに

つながっていくでしょう。



あの手この手をつくして

しあわせだと言わせよう、

思わせようと仕組むことは

おこがましい行為で…

卑しく、脆い関係をつくっていきます。



やられたことを

やりかえす。



そういう関係こそが争いを生む。


この人しかいないからと執着した結果、

相手はだんだんと離れていき…

それを恨む。


ここで生きるしかないからと

行きたくもなかった田舎に嫁ぎ

我慢をして理解のない人間関係に苦しむ。



それが思いやりのある常識的な

大人の在るべき達観した生き方だ

というなら希望なんてないですね。



我慢してこそ一人前

他人の面倒をみてこそ社会人

みたいな空気が

日本の閉塞感だと思いますし。

恩着せがましい老後は害そのものです。



さて、話がそれましたが

戻ることができるならわたしは

子どもを作ることは選択しません。


子どもの人格がどうとか

そういうことではなく

気に入っていた自分の生活が

失われたことがやるせないのです。



それを補うほどの魅力も可愛さも

わたしは感じなかったという、ただ

それだけのことです。


わたしが感じなかっただけで

他の人が同じなわけではありません。



それを話せるくらい信頼でき

理解できるほどの器をもつ

人間に育つのかは誰にもわからないこと

ですけどね。