26歳という年齢のとき、自身はなにをしていたんだろう。昔のことはなかなか思い出せない。それなりに働いていたんだろうと、推測する。
そんな記憶でしかない年齢だが、この年齢で死亡した人を調べてみた。
あたしの好きなred hot chili peppers の初代ギタリストであったヒレル・スロヴァクは26歳で死亡した。確かオーバードーズだった。
尾崎豊も26歳で死亡している。肺水腫が直接の死亡原因だった。
明治時代の歌人である石川啄木は、26歳のときに結核により死亡した。
若い死というのは強烈な印象を残す。
2011年2月5日に永田洋子(ひろこ)死刑囚が死亡した。多臓器不全が死因で65歳という年齢だった。
永田洋子死刑囚と言えば、確か脳腫瘍の闘病中だったはずだ、と思い調べてみました。多臓器不全とは、生命維持にとって必要となる臓器の機能が低下した状態のことを言うようです。脳腫瘍ではなく、内蔵の機能の低下によって死亡したということです。
永田洋子と言えば思い出されるのが「あさま山荘事件」です。
いわゆる「連合赤軍事件」と呼ばれるもののうちのひとつで、同赤軍の構成員4人とともに、あさま山荘において立てこもりをした事件です。この事件ではなんと28日間も立てこもりをし、結果、警察官2人と民間人1人を射殺しました。さらに警察官15人と記者の1人を負傷させました。ですが死刑囚は、狙撃ではなかったと主張していました。すなわち、殺害の意思はなかったということを主張していました。
「連合赤軍事件」の中ではこの「あさま山荘事件」がもっとも有名かと思いますが、他にも多数の事件を起こしています。印旛沼(いんばぬま)殺人事件、山岳ベースリンチ事件、羽田空港突入事件、鉄砲店猟銃強奪事件などがあります。
またこれらの事件の中でも殺意を否認していました。
ですが1982年6月18日の東京地裁による一審での判決では死刑判決が言い渡されました。もちろんこの判決に対し控訴を起こしまたしたが、1986年9月26日の控訴審では死刑判決支持という判決が下りました。
そして最高裁へ上告審を行いましたがその結果、死刑が確定となりました。1993年2月19日、今からおよそ18年前のことです。
事件を起こしたとき、永田洋子は26歳。かの素晴しい軌跡を残した先人たちの命がついえた年齢と同じです。
軌跡は残せど、人はそれぞれであり、見る人によっては、それらが素晴しいものかどうかは異なります。
死ねば罰は消失しますが、このような犯罪は歴史として永遠と刻まれます。
では、個人の罪とはどのような形で残っているのでしょうか、あるいは消えているのでしょうか。
それとも罰だと感じることを経験したとき、罪の存在を確認することとなるのでしょうか。であるならば、両者は完全に別のものとして存在していることとなります。
個人的な見解としてただひとつ言えるのは、死亡することが罰を受けたことと同義であることは決してないということです。
あくまでも勝手に死んだだけです。
そんな記憶でしかない年齢だが、この年齢で死亡した人を調べてみた。
あたしの好きなred hot chili peppers の初代ギタリストであったヒレル・スロヴァクは26歳で死亡した。確かオーバードーズだった。
尾崎豊も26歳で死亡している。肺水腫が直接の死亡原因だった。
明治時代の歌人である石川啄木は、26歳のときに結核により死亡した。
若い死というのは強烈な印象を残す。
2011年2月5日に永田洋子(ひろこ)死刑囚が死亡した。多臓器不全が死因で65歳という年齢だった。
永田洋子死刑囚と言えば、確か脳腫瘍の闘病中だったはずだ、と思い調べてみました。多臓器不全とは、生命維持にとって必要となる臓器の機能が低下した状態のことを言うようです。脳腫瘍ではなく、内蔵の機能の低下によって死亡したということです。
永田洋子と言えば思い出されるのが「あさま山荘事件」です。
いわゆる「連合赤軍事件」と呼ばれるもののうちのひとつで、同赤軍の構成員4人とともに、あさま山荘において立てこもりをした事件です。この事件ではなんと28日間も立てこもりをし、結果、警察官2人と民間人1人を射殺しました。さらに警察官15人と記者の1人を負傷させました。ですが死刑囚は、狙撃ではなかったと主張していました。すなわち、殺害の意思はなかったということを主張していました。
「連合赤軍事件」の中ではこの「あさま山荘事件」がもっとも有名かと思いますが、他にも多数の事件を起こしています。印旛沼(いんばぬま)殺人事件、山岳ベースリンチ事件、羽田空港突入事件、鉄砲店猟銃強奪事件などがあります。
またこれらの事件の中でも殺意を否認していました。
ですが1982年6月18日の東京地裁による一審での判決では死刑判決が言い渡されました。もちろんこの判決に対し控訴を起こしまたしたが、1986年9月26日の控訴審では死刑判決支持という判決が下りました。
そして最高裁へ上告審を行いましたがその結果、死刑が確定となりました。1993年2月19日、今からおよそ18年前のことです。
事件を起こしたとき、永田洋子は26歳。かの素晴しい軌跡を残した先人たちの命がついえた年齢と同じです。
軌跡は残せど、人はそれぞれであり、見る人によっては、それらが素晴しいものかどうかは異なります。
死ねば罰は消失しますが、このような犯罪は歴史として永遠と刻まれます。
では、個人の罪とはどのような形で残っているのでしょうか、あるいは消えているのでしょうか。
それとも罰だと感じることを経験したとき、罪の存在を確認することとなるのでしょうか。であるならば、両者は完全に別のものとして存在していることとなります。
個人的な見解としてただひとつ言えるのは、死亡することが罰を受けたことと同義であることは決してないということです。
あくまでも勝手に死んだだけです。