あたしが民族問題に意識がいったのはチベット解放運動の一環であるライブを知ってからだ。当時、日本国内においてチベットの民族浄化に関しての報道はなされていなかった。だけどフリーチベットを叫ぶアーティストたちが偉いとは思わない。彼らは現在で言うところのグリンピースに出資するようなことでステータスを得るという日本とは違う社会に暮らす価値観の違う人類だからだ。
そうした民族紛争が20世紀になっても終わりを告げることなく幾度となく繰り返されている。民族紛争とは結局のところ戦争であり、民族浄化とは虐殺である。だが、このことについて簡単な言及は出来ない。宗教観の違いなどではなく、歴史があまりにも違うからだ。なおかつ民族の住み分けというのも明確でないケースも多い。共通言語を使用しているにも関わらず互いいがみ合っている現状を見るとそのエネルギーの発生の源とはなんだろうと考え込んでしまう。悲しみと距離を置いて。

ここ数日の間に100歳以上の行方不明の老人が後を絶たない。簡単に言えば役所の怠慢であるとも言えるがそれでは問題の解決を目指しているのではない。そして住基ネットに反対した現与党に責任がないとは到底言えない。識人がこぞってこれは100歳とターゲットにしているからこの人数で、と言う。そんなことは誰が言わなくても火を見るよりあきらかだ。早い話、だからどうしたと言いたくなる言動だ。

そして昨今もっとも世を騒がせている問題として育児放棄、及び虐待の問題がある。これに関しても役所はなぜ、法律上仕方がない、と言ったことの本質を考えない意見に溢れ、問題を解決しようという意識を持った人間の発言はどこからも聞こえて来ない。この点が問題だと思う。

あたし的な見解ではこれは民族的な問題だと思う。例えば近所に怖いオヤジがいなくなった。自分の子どもの頃はそんな人がたくさんいたなあ、という親御世代の声をよく聞く。ではなぜいなくなったのか。
排除したのだろう。親御たちで、地域で、町で、文化として消し去ったのだ、と考える。懐かしむわりにそういう存在を認めない。ここにどのような問題があるのだろうか。
あたしが考えるには、我が子一番という思考が当たり前とばかりに万永したからだと思う。いつしか子どもは未来の宝ではなく、個人の所有と成り下がってしまった。個人のものに誰がとやかく言え、指図出来るのだろうか。親御たちは自分の責任をまったく考えておらず、最近起こったふたりの子どもが餓死した事件においても、自分たちは違うで思考が止まっている。民族としての繋がり意識がない、だから一歩外に出た社会のことなどどうでも良いのだ。
本当に我が子だけが無事なら良いのか。

ならテレビを観て泣く必要もあるまい。結局泣いているのは我が子と照らし合わせているに過ぎない。感傷的になったところで問題は解決しない。誰も問題を問題と捉えない。

他国を攻める国ではなくなった日本。まるでその変わりに隣人を攻撃するようになった。隣人と戦うようになった。イデオロギーは変化した。
これのどこが平和が大好きな国民なんだろうか、日本国民という民族なんだろうか。

ほころびはこういった場所だけではないとお感じの方も多いと思う。韓国に行って土下座してその上から頭を踏みつけられた総理大臣。一般人からして常軌を逸した行動に映った。そしてもちろんあのような談話など認めれるはずもない。
だが、現在ある韓国に対する歴史観というものはここ数年の間に作られたものだと言える。歴史の資料的価値のあるものが次々と証拠として出されているが、わたしはあえてもう一度考え直す必要はあると思う。
現在の日本国内の世論は嫌韓の流れで、これはある一時に急激な速度で肥大した考え方という側面を拭いきれない。
だから正々堂々と論じるためには、もう一度資料的価値のあるものを洗い直し、国会でしっかり議論を重ねるべきだと思う。そして政府としての見解を発表し、嫌なら出て行けば良いと思う。嫌な民族の中にいる必要もないからだ。だが出て行くことが出来ない人は追い出すしかない。
出て行く、追い出す、という攻防はなにかと同じではないだろうか。

これらすべては日本に住むすべての人たちに責任があると思う。もちろん自分自身にも当然。
なにかを変えるためと思わずともしなくてはいけないと思える行動が見えてきた。