昨年から、新たに日本で始まった裁判員制度。
閉じられた空間だけの意見だけではなく、民衆の言葉を取り入れようというものでもあります。

アメリカでは陪審員制度という、厳密に言えば制度は違いはありますが、よく似た制度が古くからあります。
ですが、そんな中でもその制度に対する問題点を指摘する声があります。
「市民の評決」とはそんな映画でした。


テレビで陪審員による裁判を。

自宅にいながらにして誰もが裁判に参加できる番組「市民の評決」。
番組を観て、一時間後に番組のホームページ、もしくは電話で無罪か有罪か投票する。投票には若干のお金がかかる。
民衆によって判決を下すこの番組には、もちろん両者の弁護人も登場する。弁護シーンはさながらエンターテイメントのようなショーとなる。
そして有罪・死刑判決が出れば、死刑も生中継で観ることができる。死刑シーンを観たければさらに料金を支払わなければならない。

女性を殺害したと疑われている、ある被告人が「市民の評決」で運命を揺さぶられる。
その弁護人となった男は、裁判の前に被告人と面会する。
そこで、被告人に、殺人ではないと告げられる。あれは事故だったんだと。
彼女から望まれてした中での事故だったと言った。
弁護人が聞き込みをする中、殺害された女性の異常性癖を知る人物が現れた。
自分も以前、同じように殺害された女性から誘われ、ナイフを持ってプレイしてくれ、と言われたと証言する。
これで確証を得た弁護人は「市民の評決」という法廷に望む。

だが、裁判中に突然ビデオテープが何者かの手によって持ち込まれた。
そこには、残忍にもレイプする被告人の姿が映っていたのだった。
このテープが決め手となり被告人は GUILTY (有罪)となる。

すべてがでたらめだったのだ。
弁護人は被告人を信じていたが、それは作り上げられた話。
完全な出来レースであり、ショーとして作り上げられていたものだった。
仕掛人というか、黒幕は番組プロデューサ。
彼が被告人に、弁護人に対して嘘の証言をすれば無罪にしてやる、と吹き込んでいたのだった。
そんなわけもなく、実際被告人は殺人犯として注射され死んでいく。

弁護人は怒り狂った。
それは被告側の弁護士も同じだった。

素晴らしい民主主義の理想である裁判。
そんな「市民の評決」の概要に同意したが、結局はビジネスのみが目的だった。
それにまんまと利用されただけの弁護人たち。

彼らはプロデューサーの化けの皮をはがすためにひと芝居うった。
プロデューサー自らの強欲振りを、自らが告白する場を作ったのだ、隠しカメラを回しながら。

結局、プロデューサーは逮捕され、皮肉にも殺人犯と同じ刑務所に送られてしまうことになる。

問題はなになのか。
主役である弁護人は最後に言う。
「自分のことを信じろ」
自分が勤める学校の教授として、新たに弁護士になる若者たちへ、そうメッセージを放った。

最後のメッセージのせいで、いまいちばらついているかに思えますが、この映画に持ち出されて議題は3つあると思います。
1つは、陪審員制度です。
民衆の心とは、いかに簡単に流されるかということ。
そして2つ目は、死刑制度そのもの。
実際、映画の中で、死刑制度に反対する声が少なからず出てきます。
最後の3つ目は、メディア論ではないでしょうか。
正義というものはいかに作られるか。
反対にいかに簡単に作れるものなのか。

これらの議題は現在の日本でもすっぽり当てはまると思います。

映画としてはありきたりなシナリオの展開ですが、問題喚起という面を捉えれば、非常に意義のある映画とも言えると思います。

最後のメッセージは要らなかったかな。

しかし死刑シーンは本当に息をのまされるものでした。$白波ラインダンス