下居優斗

僕が野球に出会ったのがいつだったのかはよく覚えていないが、気づいたときには、プロ野球選手の身長や体重まで覚えているほど、野球に夢中になっていた。本当はもっと早く野球を始めたかったが、年少の頃に無理やり習わされた極真空手は週6日もあり、体中があざだらけになるほど痛くて痛くて毎日泣いていた。楽しいと思ったことは一度もなかった。ただ、礼儀や姿勢を教えてくれたのは空手の先生だった。今では心から感謝しています。そんな日々の中で、唯一楽しみだったのが、父とのキャッチボールだった。家の前や公園で、何百球も投げ合った時間が、今思えば自分の野球の原点だったと思う。小学3年の時、父の転勤で大阪に引っ越すことになり、それが空手を辞めるきっかけになった。正直めちゃくちゃ嬉しかった。ようやく、野球ができると思った。転校してすぐ、学童野球チームに入った。みんな明るく優しくてすぐに仲良くなれた。週末の練習だけじゃなくて、放課後も毎日のように公園に集まって野球をしていた。その時はただただ楽しくて、野球が生活の中心になっていた。5年生になると、ピッチャーを任されるようになり、6年生ではサードも経験した。神戸市の大会では優勝を重ね、県大会はベスト8までに進出した。特別にすごい選手がいたわけではなかったけど、全員で力を合わせれ結果が出るということを初めて経験した。

中学に上がるタイミングで、父の転勤により東京に戻ることになった。硬式をやりたいという気持ちが強く、僕は豊島シニアを選んだ。入団してすぐ、監督にキャッチャーを勧められたが、ファウルチップの痛みや打球の怖さに慣れず、自分からセカンドを志願した。最初の公式戦。先頭打者の打球が初球でいきなり自分のもとに飛んできた。見事にトンネルした。守れないし、打てないし、自信を失った。そんな自分が、キャプテンを任されることになった。選手間投票では一票も入らなかった中で、まさか自分が選ばれるなんて思っていなかった。自分を選んでくれた監督であり、その思いに応えたいと思った。でも現実は甘くなく、下手くそな自分の言葉は誰にも響かなかったし、みんなから嫌われないようにするにはどうすればいいのかだけを考えていた。だから、行動で示そうとした。全国大会につながる大事な大会では、絶対勝てると言われていた相手にまさかのコールド負け。もっと責任を持つべきだったと後悔だけが残った。最後の大会も、2回戦で敗退した。相手は強豪だったが、最後まで自分たちの力を出し切れた試合であり、とても「良い試合」ができて満足していた。その試合後、中倉先生と出会った。自分よりも守れて、打てる人がたくさんいる中で自分を選んでくれた。お話をもらったときは本当に嬉しかった。「本当はお前じゃなくてあいつが欲しかったんだけどな」と今でも冗談交じりに言われるが(笑)、それも含めて感謝の気持ちしかなかった。中倉先生のもとで高校野球をやりたいと強く思い、淑徳高校に進学することを決めた。

 高校では、楽しい野球ではなく、とにかく勝ちにこだわる野球がしたかった。自分はサードで勝負すると決めていたから、ずっとサード一本で練習を続けていた。最初のノックではサードにたくさんいて、エラーして笑って誤魔化していたそ○た先輩に多々ムカついていた。ありがたいことに、1年生の春からAチームに帯同させてもらうことができた。ある日、試合でキャッチャーを任された。正直、キャッチャーの経験はほとんどなかった。だけど、その試合で盗塁を全て刺すことができ、そこからキャッチャーとしての道が始まった。経験も浅いまま夏の大会にも出場したが、2回戦で敗退した。力の差を感じた試合だった。夏休み明け、よこしさんが怪我をしたこともあり、自分はショートで秋大会に出場したが、自分のエラーでチームは敗れた。悔しくて、先輩たちには本当に申し訳気持ちでいっぱいだった。春大会もまたもや城西に敗れ、力不足を実感した。1年生の頃から試合に出させてもらっていた分、「どうすればこのチームが勝てるのか」を本気で考えるようになった。上級生のミーティングにも参加し、自分の意見を伝えた。先輩にも後輩にも、思ったことははっきり言った。嫌われることは全く怖くなかった。シニア時代にキャプテンをやっていた経験が、自分に強い覚悟を持てるようになった。29期の夏は、自分にとっても“最後の大会”という思いで臨んだ。結果はベスト8。本気で「甲子園に行ける」と信じていたから、悔しさは大きかった。帝京の圧倒的な力を前に、現実の厳しさを突きつけられた。
新チームになり、「次のキャプテンは自分しかいない」と強く思っていた。30期の目標は「東東京制覇」。簡単な目標ではなかったが、本気で目指すと決めた。秋大会では淑徳初のベスト4に進出した。明八戦で校歌を歌った時の光景は、今でも忘れられない。だが早実に敗れ、伝統校との力の差を改めて痛感した。冬に入り、自分も含めチーム全体に気が緩んでいたと思う。春大会前の練習試合ではエラーが続き、チームの雰囲気も悪くなっていった。秋の流れでいけば勝てると、どこかでそう思っていた。だが、初戦の法政高校に敗れた。時間が経つにつれて、「冬の準備不足」がすべてだったと気づいた。

春の敗戦を受けて、もう一度チームを立て直そうと57人全員で競争し、全学年でチームを創り上げることを中倉先生に伝えさせてもらった。でも、夏の大会を前にした毎日がチームのことも自分のこともなかなか上手くいかなかった。打てない。投げられない。思うようにプレーできない日々が続いたが、最後の練習試合では気持ちでなんとか結果を出すことができた。今大会も自分の能力ではどうしようもない場面が来るかもしれないが、自分は必ず気持ちで結果を出す自信がある。キャプテンとしての責任を持ち、試合中にどんな状況になっても自分が先頭に立ち、57人全員の思いを背負って今大会に望む。東の聖地で3回、バックスクリーンに向かって校歌を歌い、西の聖地に行くことをここに誓う。

先生へ
2年半、本当にありがとうございました。たくさんいじってくれて嬉しかったです。野球人として今まで教わったことがないようなことをたくさん教えて頂きありがとうございました。本当に使えないキャプテンでしたが、この大会で結果をだし、恩返しします。

3年へ
毎日のように口うるさくキレたりしてきたけどこの1年間、自分をキャプテンとして支えてくれて本当に感謝しかない。ほぼ毎日、このメンバーで野球ができて、本当に良かった。最近の試合で迷惑かけてばかりやけど、大会ではおれが決めるからチャンスでおれに回してくれ

関へ
君には一番、いろいろなことを相談したし一番、言い合いしたしお互いがお互いにムカついていた時があったと思うけどたくさん助けてもらった。家に勝手に入ってきて、勝手に風呂入って、勝手に俺の家の布団で寝たりしてうざかったけど、2年半ありがと

れんへ
今大会も君にはたくさん助けてもらう場面が多いと思うけど、おれも全部前に落とすし、走られたのは全部刺すから頼りないキャッチャーかもしれんけどいつも通り思いっきり投げてね
バッテリー組んでくれてありがと

そーた先輩へ
おれが煽ったからってマウンドで拗ねんなよ
そーたへの愛の気持ちは言葉ではなく、行動で示します。

先輩へ
一年の時から色々可愛がってもらってありがとうございました。年下ながら色々首突っ込んだりしてすいませんでした。去年の先輩たちのベスト8という結果を土台とし一戦必勝で勝ち上がります。

両親へ
小さいころから色々ありがとう。
「結果が全て」と耳にタコができるぐらいたくさん言われたので、感謝の気持ちも含めて全てこの大会の結果で示すから見といてな。

定岡、秋山へ
お前ら2人がどんな時も先頭に立ってチームを引っ張っていけ。2人がちゃんとやればチームは絶対に勝てるから頑張って。

必ず、この30期で淑徳高校硬式野球部の「東の聖地から西の聖地」を成し遂げます。応援のほど宜しくお願いします。