田中悠貴
私が野球を始めたのは中学生からだった。小学生まで習っていたサッカーを中学生でもやろうと思っていたが、友達から野球部に誘われて、また進学する中学校のサッカー部が強豪ということもあって野球部に入部した。
初めてするスポーツであったが、父も野球をしていたことも入る自信となった。私の中学校では校庭でボールを打つことが禁止されており、バントの練習しか出来なかった。思いっきり打つことができる場所は練習試合とバッティングセンターであった。オフの日にはバッティングセンターに行き、バッティング力を磨いていった。また時はコロナ禍であったため、練習試合は3年生になるまでなかった。そして、野球の楽しさに気づいていなかった。
しかし、3年生になり練習試合が増えるごとにその楽しさに気づいていった。その頃から毎日素振りを始めた。夜の外はとても気味が悪く怖かったが、一人で黙々と行っていた。最後の大会は初戦で負けてしまった。あと一歩のところだった。最終打席ではタイムリースリーベースを打つことができた。普段は出しても声を上げない自分が、その時だけは自然と声が荒がった。1アウトで1点負けていたが、フォアボールが連続して満塁になった。次に打席に入るのはチームで一番バントが上手い選手。みんなが同じことを思った。「スクイズだ!」私はチームで足が速かったため一点は取ることができる。そう思っていた。
しかし、現実はそう甘くなかった。打球はキャッチャーの目の前でバウンドしホームゲッツーを取られてしまった。理解ができなかった。頭が真っ白になったまま家に帰った。
今思うことはたくさんある。しかしこれも運命だと心に留め、中学の野球人生が終わった。野球の楽しさを知り始めていたのにすぐ終わってしまったのが悔しくて高校でも野球部に入ろうと思った。
一年生の頃に野球部の体験に行ったが留学コースで英語の勉強をする必要があった上、今まで留学コースから野球部に入部することが稀であったので自信をなくしてしまい入部を諦めた。
しかし、心のどこかでは諦めきれていなかった。
留学はアメリカに行った。アメリカでは野球クラブに入った。日本とは全く違う言語、地域、人達と一緒の野球は新鮮で面白味があった。海外生活で培った自信のおかげで、帰国後、私は渡航前に諦め切れていなかった野球部に入りたいと思った。
入部したばかりはとても大変だった。誰の名前も分からず2年間も空いた練習の差はすぐに埋めることはできなかった。そして、右左のわからない毎日を過ごし、練習が終わった後、毎日、留学コースの友達に電話し慰めてもらっていた。
しかし私はとても恵まれていた。私が入った野球部には素晴らしい人しかいなかった。まさき君やいっかん君が、入って間もない私に優しく声をかけてくれたり、後輩も優しく受け入れてくれた。
熱心に練習に励み徐々に仲間から認められているように感じた。
春大会はベンチに入れていただき、背番号を配布された直後に、八重尾君や高見君が「おめでとう」と言ってくれた時は本当に嬉しかった。その後も、みんなとの差は大きく空いたままだと思っていたので、人一倍頑張った。体重は10キロ増やし、筋肉トレにも熱心に取り組んだ。打撃も好調になり、Aチームにもよく参加するようになっていたため、夏大会も「諦めたくない」と思っていた。そんな矢先、関西遠征の時に、ファーストで送球を取ろうとした時、脚が伸びすぎてしまい、動けなくなってしまった。空を仰いだ。「ちょっと待ってくれ。ここで終わりたくない。夢であってほしい。」そう、ずっと何かに話しかけていた。病院では肉離れと言われた。頑張って間に合わせる努力はしたが、再発したり完全に治り切ったのが少し遅かった。これは神様からの何かのメッセージだと思う。
途中から入った私を受け入れてくれた先輩方、後輩達、同級生、監督、コーチ、先生方には感謝しかない。
母へ
毎日弁当を作ったり、洗濯してくれたり、励ましてくれたり、耳かきしてくれてありがとう。大学に行ってもよろしく。
父へ
小さい頃からキャッチボールに付き合ってくれてありがとう。バッティングセンターで打ち方を教えてくれてありがとう。