中谷圭吾
僕は小学2年生の2月頃から野球を始めた。野球を始める前から水泳や体操やピアノなど、多くの習い事をしていた。両親ともに野球をしていたということもあってか野球を始めることになった。始めたといっても、3年生に上がる時に父親の転勤で岡山県に住むことになり、ほぼ一ヶ月くらいしか野球はできていない。水泳は東京にいる頃から選手コースだったため引っ越してすぐに再開した。学校に慣れて、しばらくしてティーボールの大会があり、そこで活躍して、同じクラスの子にチームに入ってといって入ったのが野球ではなくソフトボールのチームだった。西の方はソフトボールも盛んで、学校のチームが野球ではなくソフトボールのとこが多くあった。チームメイトの父が元プロでその人からいろんなことを教わった。その時は両打でしたが、その人の助言で今の右打ちになった。また、当時はソフトボールより水泳に力を入れており、水泳は週に6日で、他にも習い事をしており休みが1日もなく身体的にキツかった。それでもソフトボールを続けたのは教えてくれていた元プロの人に 『良いモノはもってる』と言われて自分に期待していたのだと思う。1つ上の代がとても強く県大会で優勝し、中四国大会まで勝ち進んでその試合にも出れて大きな大会での貴重な経験を積むことができた。そして、6年生の夏休みにまた、父親の転勤が決まりまた東京に戻ることになった。最後の大会はソフトボールではなく水泳の県大会だった。結果は4位で微妙な結果で終わった。結局全国にも出れず、あと1歩届かないみたいな感じで僕の水泳人生は終わった。
東京にまた転校してきて、転校先は2年生まで通っていた小学校だった。みんな僕のことを覚えていないかと思ったが意外と覚えている人がいて驚いた。そこでは水泳はやらず、隣の席の子が野球チームのキャプテンで、その子に誘われてその小学校の野球チームに入った。転校してきたのが9月で大会もほとんどなくあっと言う間に終わった。
中学校は都立中学校を受験して落ちて幼稚園の頃の友達に誘われて受けた日大豊山に通う事になった。中学では野球部に入部した。入部してしばらくして、体育の水泳の授業を見ていた水泳部の先生にスカウトされました。野球部の先生は好きな方に進みなと言われ、この選択が人生の分岐点だった。結局野球を選んだが、今でも友達の大会結果をみたりすると、もし水泳を選んだらどれだけ成長できたのかが気になったりする。でも、野球を選んだことにはそんな後悔してはいない。中学2年生の夏にベンチに入れず、僕のかわりに入ったのが納得できないチームメイトで、とても悔しかった。そして、冬に大会があり、そこで背番号9をもらうことができた。その時はとても嬉しくてやる気に満ち溢れてました。しかし、バックホーム時に肘から『ピシッ』という音が鳴り骨折した。せっかくのチャンスを逃してしまった。迎えた中学生最後の大会、立場はほぼスタメンみたいな所まで再浮上した。しかし、大会一ヶ月前の練習試合の連戦から体調が悪く無理して休まずに練習や試合を出続けたら体が耐えきれずに大会直前に体調を崩した。中々体調が改善されず、結局最後の負けた試合も病院で点滴をして試合も見ずに終わってしまった。あっけなく最後の夏が終わった。悲しくなるはずなのに何も感じなかった。
高校はそのまま豊山高校に上がらず、高校受験した。中学受験のリベンジのつもりだった。結果はわかるように落ちて、淑徳に入ることになった。チームに合流するのが他の人より遅く、チームに馴染めるか不安だったがいつの間にか普通に喋れるようになっていた。入部して最初はこのチームの練習の異質さに少し戸惑ったがだんだんと慣れていき、Bの試合にも出るようになって、その時に結果が出続けてAチームに何度か呼ばれてチャンスをもらえた。しかし、全く打てず、ことごとくすべてのチャンスを逃した。夏はベンチに入れず、秋こそはと思ったが、夏大会後の練習試合は全くって言っていいほど打てず出たとこ損みたいな感じになってしまった。結局、秋も入れず、冬の期間にも疲労骨折したりしてトレーニングもあまりできず春もベンチ入り候補にすら入れなかった。その後、夏大会前の群馬遠征で高校野球で初めてのホームランを打てた。その時はサインミスして、頭がいっぱいいっぱいの状態で嬉しいはずが、複雑な気持ちだった。ベンチ入りは出来なかったが自分の成長を感じれた。夏大会後は1年生にレギュラーを取られてあまり試合に出る事が出来なくなった。たまにスタメンでた時はやらかし、上手くチャンスを掴めなかった。秋大会はベスト4に進出できたが素直に喜べなかった。そして迎える最後の夏大会、試合にでて結果を残して嬉しいというより悔しいことの方が多かった2年半。最後の大会で今までの思いを胸に楽しんで、最後までやりきりたい。