古流研鑽会 廿肆之陸 | 闘狼荘日記

闘狼荘日記

乾坤を其侭庭に見る時は 我は天地の外にこそ住め

平成二十四年六月二十四日(日)
午後一時時より午後五時半まで月例の古流研鑽会に参加。
ブラジルからの練習生も無事に帰国し、一門内は平常な空気に戻りました。
終日土砂降りの様な梅雨本番の悪天候の為に参加人員が少なく、山口県からの出稽古の先生一名と姉弟子と私の計三名での寂しい研鑽会となりましたが、人数が少ないと寂しいながらも宗家から濃い指導を受ける事が可能ですので其れは其れで有難いです。

今回の研鑽は、太刀の型×12本・太刀の型奥伝×5本・小太刀の型×5本・懐剣の型×5本。以上の型を練り込むだけで、アッと言う間に数時間が経過します。湿度も気温も高くエアコンの無い道場内はサウナ状態で汗が滝の様に流れるので、本身の稽古では気を遣って仕方無く、特に顔から滴る汗と納刀や操刀の際の左手の汗に苦労します。顔面の汗は腰板に挟んだ手拭いでこまめに拭けば良いのですが、手首周りの汗は直接刀身に触れてしまうので苦肉の策として親指と掌をカバーするシームレスサポーターを装着して汗止めの代用としています。
今回、私は袂付きの着物と二本差で稽古を実施し通常の一本差で行う所作との違いを研究しました。大先生や宗家は普段の稽古でも極普通に袂付きの着物を着用したり或いは居合着を着用したりと臨機応変に着装を変えるお考えの様です。今回私が着用した安物のポリの着物は風通しが悪く暑くて仕方ありませんので余計に汗をかいて大変ですが、汗かきの私は上質の着物は手入れの事を考えると、とてもじゃないけど稽古では着れません。その点、安物のポリ着物は気軽に洗濯機に放り込めますので重宝しています。

二本差の所作以外にも当流独特の「引き割り納刀」と「刀身の掴み」を個人的に重点を置いて研鑽しました。当流を肥後藩士に広めた井沢蟠竜長秀先生は三尺の得物を使用したとの史実を考察すれば当流の独特な所作の一つ一つにも合点が行きます。井沢先生は大柄な体格であったらしいですが、私が二尺七寸の愛刀を抜くよりも更に難しかったのは明白ではないかと思います。また各地に当流分派が散見されますが、我が一門との相違が著しく有り源流は同じで伝書も存在するにも関わらず古伝とは何と曖昧なものだろうかと改めて思います。

井沢先生の逸話の一つに、こんな話しが有ります。
或る時、余りにも長い御刀を差していた井沢先生を見た船大工が「お侍さんよぉ、そんな長え刀を本当に使えるんかえ?」と馬鹿にしたので立ちどころに三尺の得物で片手打ちに処したところ、船大工が護身用に腰に差していた船釘で斬り止まったとの逸話が残っています。此れは流石に眉唾と言うか、かなり脚色された逸話だと個人的には思います。江戸時代前期の話と云えど、幾ら何でもいきなり平民に無礼討ちは有り得ないでしょう・・・・彼の時代でも立派な殺人罪であり、此の様な逸話を後世の者が無責任に面白可笑しく伝える事は逆に先人を貶める行いである様に個人的には思うのですが・・・・。
しかしながら井沢先生が超長寸の得物を使用していたのは間違い無いにも関わらず、皮肉な事に我が一門でさえも長寸刀を使用する者は皆無に等しいと云う現実は、全剣連制定居合もこなさなければならない現代居合道のジレンマを象徴しているとも言えるでしょう。

はっきり言って長寸刀での制定居合は無茶苦茶不利ですし、当流の操刀との相違が有り過ぎて頭と身体の切り替えに相当に苦労しています。縁有って土佐英信流の先生とも御一緒に制定居合の稽古をする機会が多いのですが、長寸刀で英信流の様な納刀をしろと言われても、そりゃあキツいですってば・・・(-"-;A。制定居合で当流の引き割り納刀は出来ないですし、制定居合に於いての納刀は未だに迷うところが大きいのが現実で、神伝流と英信流の二大流派が大半を占める現代居合道の歪みを「勢力」としての弱小流派は感じざるを得ません。されど、実際のところは流儀に固執せず縦・横・斜め・逆など臨機応変に其の場に応じて例え長寸刀であろうが自在に納刀出来る様にするべきであると考えますので私は全ての納刀方法を実践したいと思います。


いやはや・・・
ちょいと疲労が溜まり気味で何を書いているのやら訳分かんなくなって来ましたので、今回はこの辺でお仕舞いっす・・・バイナラ~!


分かる人には分かる、井沢先生著「広益俗説弁」