日本国憲法は、夢のデザインだった!! | 里永尚太郎のココロ想うままに!!

里永尚太郎のココロ想うままに!!

憲法・安全保障問題と島興志(地域活性化事業)への取組みを中心に書いていきます。

<日本人は日本のことを知らないという。戦後の混乱期を経て、高度経済成長が始まった。それは、1989年に日経平均株価38,915円の最高値を付けて、バブル崩壊が始まった。その後、今日に至る約20年間、景気対策の名の下に、財政出動が行われ、今日では、国と地方の借金を合わせると、GDPの約2倍である約1,000兆円にまで公的債務が膨らんでいる。この現状とこの国をどのように理解すればよいのか。また日本だけでなく、世界経済も混乱期に突入しつつある。現状を理解する一助とする為、またこの国を理解する為、戦後日本の源流である日本国憲法の制定課程を学ぶ。>


 非常に勉強になった、興味深い部分を中心に抜粋する。


 「日本国憲法の原案は、周知の通り、終戦直後の1946年の2月4日から12日までのわずか9日間に、連合軍総司令部(GHQ)民政局の25人のメンバーによって書き上げられている。

 ところで、GHQがその実態を完全に秘密にしたまま、これほどまでに急いで他国の憲法を書くに至った動機はなんだったのか?その原因は日本側の対応にあったといえる。

 連合軍最高司令官マッカーサー元帥は、日本進駐早々、日本政府に対して、憲法改正について早急に検討するように求めている。しかし、幣原内閣が設置した松本烝治国務大臣を長とする憲法問題調査会の作業は遅々として進まず、いわゆる日本側の憲法草案ができるのは、1946年の正月になる。

 同年2月1日、その案を毎日新聞がスクープするが、その内容は、あまりにも保守的に過ぎた。それを読んだマッカーサーは、おそらくその日の晩、GHQの手で憲法草案を書くことを決意、民政局長のホイットニー准将に指示を与える。(資料を追跡すると、命令は確かにマッカーサーが下しているが、このプロジェクトを発案、推進したのはむしろホイットニーの方だったのではと思われる節もある。)

 9日間という短期間で草案が作成されることになった背景には、天皇を戦犯にしろと主張する国々の代表を含めた極東委員会が、2月末に発足するというタイムスケジュールがあった。」


 「明治憲法は、伊藤博文はじめ、当時としては錚々たるメンバーを揃え、しかも長時間をかけて作られた。にも関わらず、さまざまな問題を残した。松本案の内容から考えてみても、9日間で書かれたこの憲法が、その作成期間の短さをもって批判されることがあってはならない」(五百旗頭教授)


 「・・・草案作成の9日間に至るまでの決して短いとはいえない背景の証として、1942年にさかのぼる米国務省の対日占領政策の歴史・・・」


 「・・・当時、米国でも最も知的な集団に属していた25人の執筆者たちは、占領者の立場ではあったが、純粋に戦争のない世界を夢み、人権の大切さを憲法に定着させようと試みた人々であった。・・・常識では絶対にあり得ないようなチャンスを生かして、彼らは、理想の民主主義国家の憲法を書こうと試みた。」


 「密室であったが、その空気は澄んでいた」(東京大学法学部教授・樋口陽一教授)


(※鈴木昭典 『日本国憲法を生んだ密室の九日間』 創元社 1995年 1-4ページ。)