科学者版ヘンリー・ダーガー ヘンリー・キャヴェンディッシュ  | 妄想印象派 自作のイラストや漫画、アニメ、音楽など

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妄想印象派 あるいは、東京藝術(芸術)病院:::多摩美術病院-Henry Cavendish




ずっと以前から広めたくてしょうがなかったのだが、発表の場が無くて身近なアート仲間位にしか語れなかった凄い人の紹介といきます。

ヘンリー・ダーガーの科学者版、ヘンリー・キャヴェンディッシュです。


生い立ち


ヘンリー・キャヴェンディッシュ Henry Cavendish(1731-1810) は、

英国貴族の子として南フランスのニースに生まれた。

何故ニース生まれなのかというと、母が病弱であったため、

療養に訪れていた先で産んだわけだ。

しかし、それからまもなく次男を産むと、亡くなってしまう。


当時の英国貴族の間では、その御曹司はヨーロッパにグランドツアーをするのが

流行っていて、ヘンリーもその慣例に従ったのか、弟とヨーロッパ旅行を

しているのだが、人間嫌いの彼にとって本当は苦痛だったに違いない。

イギリスに帰った後、王立協会の会合に出席する以外は、

殆ど私邸にこもり科学実験をするだけの生活を送った。


彼の父も科学者であり、科学者になった理由はそこにあると思われる。

1783年に父が亡くなり、また莫大な財産を親戚から相続した事で

大金持ちとなったものの、虚飾や贅沢には全く無関心で、

質素な生活を送りながら実験の日々を送った。


ヘンリー・ダーガーの様な生き様


彼は、彼の生きていた時代よりも半世紀も時代遅れの服装をしていたという。

彼は、極度の人間嫌いで、殆ど誰とも言葉を交わさなかった。

王立協会の会合に出席はしても、そこでも殆ど何も話さなかった。

召使いに出来るだけ会わない様に心掛けていた。

特に女性が苦手であったようで、生涯独身になるのは当たり前だろう。

食堂のテーブルに献立を書き付けたものを置き、

後から女中がそれを見るという様にしていた。

或る時、階段で女中とばったり出会って激しく動揺してしまい、

それがきっかけで、召使い用の第2階段を造らせたという。

出来るだけ人と接したくないのに何故か肖像画が遺されているのだが、

その理由は、王立協会の或る会合の時、こっそり画家を紛れ込ませ、

遠くから描かせたのだという。

表示してある画像がそうである。

しかし、インターネットをやり始めてから、それとは別に、ちゃんとした肖像画

も描かれているらしいというのを知りました。

この辺のいきさつについては不明(下に示した)。


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彼は、クーロン Charles Augustin de Coulomb (1736-1806)よりも先に

「クーロンの法則」(1785~1789年頃)を発見し、

オーム Georg Simon Ohm(1789~1854)よりも先に

「オームの法則」(1826年発見)を発見したにも拘らず、

全く発表しようとしなかった。

検流計も無い時代にどうやって電流を計ったのかというと、

自分の体を検流計代わりに用い、体を流れる電流のショックの強さで

計ったようである。

ねじり秤を用いて地球の密度を測定した研究(1798年)も注目に値する。


とはいうものの、全く実験結果を発表しなかった訳ではなく、

そこそこにはやっていたようであるが、「世紀の大発見」レベルのものは

発表したがらなかったようである。


業績の発掘


ケンブリッジ大学に新設された「キャヴェンディッシュ研究所」の初代所長に、

電磁気学で知られる天才マクスウェル James Clerk Maxwell(1831-1879)が

就任したのだが、秘密の科学実験より約1世紀後、ヘンリーのいとこの子孫より

マクスウェルに、遺された原稿が手渡され、彼によって本に纏められ、

やっとヘンリーの業績が人々に知られる事となった。

その「キャヴェンディッシュ研究所」は、

後にノーベル賞受賞者を数多く輩出する事になった。



ファーストネームが同じ「ヘンリー」ではあるけれども、ダーガーとの大きな違いは、

大金持ちか貧乏かな所だろう。






【記事更新:修正:2010.4.15】

対人恐怖症 → 人間嫌い

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